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感情のトリセツ。

昔から感情のことを天気のようだと思っていたけれど、最近ではもはや真実でしかない。

どこかのえらいお坊さまもそういっていた(ような気がする)。この手のノウハウ本は多いし、実はコントロールできるんじゃあ・・・と思ってしまいたくなるけれど、実際はそうではない。


例えるならそれは、こんこんとわいてくる泉で、しかも枯れない。そう、まるで豊かな大自然そのものなのだ。

きょうの風を人間がコントロールできないのと同じように
実際はコントロールではなく、できるのはマネージメントでしかない。備えるとかね。生かすとかね。

私たち誰もがもっている、この豊かな泉からは、その時々でいろんな色や味の水が湧く。
枯れたのかな? と思ったらいきなり噴火のように真っ赤な水柱が立ったり、とろけるほど至福の味がする水が湧くときもある。

ここにない色は、ない。

わたしは、そんなおっかなびっくりの泉をもつ村の住人だ。
そして昔はいつも戦々恐々としていた。

「今日の水はあまりおいしくない」
「最近、美味が続いていてラッキー♪」
「さっきまでは甘かったのに、いまは苦い。あ〜あ!」

本当は毎日好きな味の水を飲んでいたい。
けれど、そんなささやかな期待に応えるわけもなく、泉は自由に湧くだけ。村人としてのわたしは好きな水はとことん味わい、おげーと思うものは飲まなかったりするくらいしかできない。

それでいいと思う。

ただ、この泉の取り扱いにおいて、大事なことはたったひとつしかない。

おいしくない・好きじゃない湧き水が出るからといって、もうでないようにとふたを打ち付けないこと。たとえそれがどれだけ長く続こうとも、だ。

ただ、溢れさせておくこと。

なぜならそれは大地にまた染み込み、みえない水脈へと戻るのだから。
巡らせておくこと。とめないことが肝心だ。

真っ黒な水がどくどくと溢れているときも
「うわぁ〜!今日の水すげえ〜」と見にいってすぐに帰ればいい。
「最近の水はやばいね」
「すごい色だよね」
「笑える!」
「ああ〜金色のあの水が飲みたいなあ」
と村の仲間と噂話をしていればいい。
いつのころからか、そう思うようになった。

なぜなら、気の済むまで流れさせておくだけで、必ずその色はいつか変わる。

たとえ「最近まっくろ!」という日々だったとしても実際は「いつも同じ黒」ということはなく、おそらく黒く見えていてもその色彩が一瞬でも同じだったことはない。
わたしたちにそこまで微細な色彩を見分ける目と嗅覚がないだけだ。

黒ひとつとっても、その色彩は繊細でグラデーションは無限大。
丁寧に見ることさえすれば、気づけるだろう。だからといってそうする必要もない。

わたしは少し変態気味なので、ネガティブと名づけられがちな暗い色各種や苦くて痛い味を、あえてしっかりと味わうことをしてきた。時々やりすぎて、死の匂いがするとても近くまでいってしまい、命からがら戻ってきた経験もある。

そんなわたしが長く勘違いしてきたこと。それは
泉の水をすべて「飲むこと=受け入れること」だと思っていたこと。
それはとんちんかんな考え方だったと今はわかる。だから死にたくなったりするのだ。

あふれる感情という泉の水を全て飲む必要はない。
本当はただ、あふれてくる感情の水を見て、おお〜!とかいって笑っていればいい。


マジで飲まなくていい。見ているだけでいい。ただ止めさえしなければ。
どうせ流れては消えて、また現れるだけなのだから。


そのことに気づいたとき、おお、それならできるわ、と思った。

今までわたしが「この泉を埋めてやろうか、ふさいでやろうか」とヒステリックに深刻になっている時は、たいてい飲みたくないのに飲んでいたときだった。

しかも「それは苦いけど、自然の恵みなのだから飲むべきだ」「選り好みはよくない」などど、誰かがいったことを鵜呑みにして、我慢してやっていた時だった。わたしはばかだったなあ。

実際に体験して探究しつづけて、最後に得た情報はシンプル。

「いちいち全部飲むな。損得は存在しない。偉いもバカもない。

 上も下もない。ただ愛でよ。愛でるとは

 好きになることではない。

 この泉のあふれる色彩を、好奇心をもって笑って見ていたらそれでいい」

以上だ。

わたしにとってそれが「認める・受け入れる」という行為だ。

どんな水の色も飲まなくてはいけないルールはない。

飲みたくないなあという気持ちで、生き生きと生きてたらよいのだと思う。

願わくは

「おお〜!変な色!」「うわぁきれい!最高だねえ」なんて合いの手を打ちながら、宴会の余興を楽しむように村人仲間たちとワイワイ見物できたら最高だ。

好きじゃない水ばかり出す泉だからいって、ふたとすると、溜まりに溜まって吹き出す。それは、いずれ必ず村全体を飲みこむ洪水を起こすことも容易に想像できる。そっちのほうが被害は甚大だ。

太陽が東から昇り、西に沈むように。
わたしたちの中にある感情の泉からは毎瞬間、全ての色をもつグラデーションの水がつねに溢れ続けている。ただそれだけのことなのだ。

大丈夫、明日には、いや数時間後には、いや本当は瞬間瞬間でこの色は違うのだ。本当は。
もしそれがわかっていたら、この豊かな泉をもつ自分自身を痛めつけることなく生きていけるように思う。

それは世界の全ての色をもつ、全ての周波数をもっていること。そんな自分の豊かさを生きる世界のはじまりだ。

大自然にも勝るとも劣らない、感情という虹の泉をもつ自分。
それがマジですごい現象だということ、とても美しいこと、果てしなく豊かなことだとそろそろ気づいていいんじゃないかと思う。
要は、ひとりにつきひとつの自然、ひとつの宇宙をもっているのだから。


わたしたちは、ほんとうに自分たちをみくびりすぎている。ほんとうにもう笑っちゃうくらいに。

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