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愛なき世界を生きていく


人は何をもって愛というのだろう。

そんなの人それぞれだってことくらいわかってる。考えてはみたものの、雲をつかむようで何も浮かばない。
もう考えるのはよそう。わたしはさっくりと諦めた。
なのにそれ以来、やたら「愛」という言葉が目につくようになってしまった。

ふとつけたテレビの中で、韓国ドラマの王子と侍女が夜の宮殿に佇んでいる。
「わたしはそなたを愛している」
潤んだ瞳で王子が告げた。
美しい顔立ちの侍女がハッと彼の顔を見上げる。

ちょ、ちょ。そこでストップ。
王子に質問。
その「愛している」は、どういう意味で言ってるの?

ずっと一緒にいたいってこと?
寝てみたいってこと?
なんで愛しているって思ったの?
いつ? どの瞬間?
その子のどこが好きなの?
ねえ、なんでなんで?

王子はわたしの問いに答えることはもちろんなく、二人の人生はぐいぐい進んでいく。
失望したわたしはそっとチャンネルを変えた。

答えが得られないからではない。
まるで彼を責め立てるように、あれこれつっこみたくなる自分にうんざりしたからだ。
「愛している」理由を根掘り葉掘り手に入れて、安心しようとしている自分のあり方にぞっとした。

こんな質問になんの意味があるんだろう。
どこまでも根拠を求める自分の心を貧しく感じ、そのくだらなさをすかさず罵る自分にダブルで打ちのめされた。

ああ、わたしまたやってる。
どこまでも、自分を痛めることに見事に結びつけていく天才的な行為。
こんな愛の告白ひとつとっても、自分を痛める材料にできる。我ながらまったく天才だとつくづく思う。

テレビドラマにさえこの調子だ。

「ねえ、それどういう意味で言ってるの?」

その人が単語に押し込めている概念を一つひとつ確かめたい衝動を丁寧に抑えながら、今までずっと生きてきた。

「一緒にいて楽しいよ」「好きだよ」「すばらしい」と言われるたびに、わたしの頭は狂わんばかりに喜んだ。

思考では「もっと言ってくれ」とねだりながらも、首から下の体では全力で抵抗してきた。
「そんないいものじゃありません」「何かの間違いだと思います」「たまたまですよ」胸やお腹はそう必死で叫んでいた。

「価値がない」とラベルを貼っている自分に、まるで価値があるかのようなラベルを貼られるのが、どうしようもなくつらい。
いつだってそれは間違いだと訂正したくてしょうがなかった。
それがいつもわたしを暗く沈ませる。
たとえ「愛している」と言われても、疑いしか浮かばない自分が、とても貧しい人間のように感じられてしょうがなかった。

私は愛を信じていない。

証明して! もっと具体的に言って! 腹の奥から断末魔のような叫びが聞こえるたびに、自分に絶望し続けた。

この無限ループが辛いと、ある友人に話した。
「あきちゃんさ、どっちかに決めたらいいよ」彼女はそう言った。
「2つあるからしんどいのよ。自分はすばらしいか、くだらないか。どっちかにしたら?」
ああ、そうしよう。藁にもすがる気持ちでそう思った。

わたしは迷わず、「自分はくだらないし価値はない」を選んだ。
この選択どうなの? と少しは思ったけれど、馴染んでいる価値観を採用するほうが断然、自然で楽だった。

その瞬間、目の前の景色がガラリと反転していくのがわかった。

わたしには価値がない。
わたしのやることに意味なんてない。

そう認めると、なぜだろう。
全てが生き生きしていく。

ああ、価値のあることを創造しなくっていいんだ。
人の役に立たなくっていいんだ。
誰にも認められなくっていいんだ。
余計な力が抜けた。

初めて「自分のやりたいことをやろう」という言葉が湧き上がってきたことに愕然とした。

自分に何ができるかなと自然に考えてしまう。
喜ばせたいと普通に思う。疑問はない。だってそう思うから。
理由? そんなものはない。
そうしたいのよ。ただそれだけ。
根拠もない。

自分の価値を推し量ることをやめた瞬間、広がった視界に唖然と見とれていた。
不思議と人にどう思われるか考えなくてよくなった。
そりゃそうだ。

何をしたところで、所詮わたしという存在には意味も価値もないのだ。恥も期待も何もない。
やりたいようにやればいい。
それだけが手の中にポツンと残っていた。

自分には価値がない、と思えるほどに、そんな自分をなじるどころか「ええ感じやん」と、わたしはにっこりと肩を抱く。
よしよし、と自分の頭をなぜている。
今までどれだけ自分の価値を証明したくて、自分を叩いてきたんだろう。

平和と静寂の空間。頭の言い分と体の言い分が一致した瞬間。
葛藤が終わり、頑張るのが終わり、抵抗が終わった。
自分に価値はないと決めた瞬間、そこに「価値」が生まれたことを知った。

もし、「愛」と名付けるものがあるのなら、今のわたしはここにしかそれを見つけられない。
世の中でよくいう「愛する」という行為とはかけ離れたプロセスだけれど、どうしようもなくここにしかくつろげない。

ならば、これをわたしの正解にしよう。
価値のない自分という泥の中で咲いている、全肯定という名の蓮の花。
これがわたしの愛だ。

ある民間校長のビジネス書籍の編集を任せてくれた出版社の社長と、食事をしたときのことを思い出した。

「ねえ、わたし高卒だよ。大学も行っていないし、英語も話せない。なのに、なんであんな一流の人にインタビューできて本の編集に携わっているのかわかんないよ」

よくよく考えてみれば、私を信頼して仕事を任せた相手になんとも失礼な話だ。
これでは「あなたの目は節穴かもしれないよ」といっているのも同然ではないか。その人は昭和生まれのヘビースモーカーで、ウイスキーをこよなく愛する50代のおっちゃんだった。
彼はアメリカンスピリットに火をつけようとする手を止めて、こう言った。
「え? 才能あるからじゃない?」

その言葉を聞いた時、頭が真っ白になった。
瞬時に「気のせいだ」ということにした。その時は。
でも今は違う。
もう少し、続きがある。

そうか、才能あるからか。
ふふふ。そうか、これはわたしの才能なのか。
知らなかった。
教えてくれてありがとう。
彼にそう笑って告げることができる。
もうフリーズしなくていい。

そうして過去がどんどん書き換わっていく。
あの時、凍っていた瞬間がぐんぐん溶けていく。

この有りようは、他の人の目にどう映るのだろうか。
もし「それが自分を愛するってことだよ」と言われたら、きっと笑ってしまうだろう。
「えー!これが愛? そんなんじゃないよ。普通だって」
そう答えるに違いない。
同時に、このあり方に「愛」と名付けるのは、とても面白く興味深いことだとも思う。

この現実世界は、二元論で存在が成り立つ世界だ。
光があると必然的に影ができてしまうように作られている。影があるから光が存在できる。

平和を体験するためには、争いが必要だ。
もし平和という状態しかなければ、それはもはや平和ではない。
おそらく「普通」という名前にすり替わり、「平和」という言葉と概念は消失するだろう。

愛の反対は無関心、といったのはマザーテレサだったろうか。

ほら、そうやって対極をつくることで「愛」を存在させている。無関心がなければ、愛を体験することができないという世界だ。
そんなマザーテレサの言い分にわたしはNOをいう。
そんな世界はごめんだ。

愛に対極はない。
条件もない。理由も根拠もない。
だから愛という言葉はいらない。わざわざ概念をつくらなくて、いい。

こっちのほうが自由で断然、わたしは楽しい。
自由で楽しく感じることに説明はいるのだろうか。

思えばずっと、誰かに「わたしには愛がある」と証明してほしかったのかもしれない。
いや、そこで愛と名付けていたのは、本当は「価値」だったのかもしれない。
もはやどっちでもいい。どうでもいい。本当に。

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