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裏切りに満ちた、よき人生

「これだけは一生しないだろう」と思っていることに限って、やってしまうのはなぜだろう。
正確には「ないだろう」と思っている時点で、すでに意識を向けているのかもしれない。
私の場合「やってはいけない」といった甘い禁忌感はなく、あるのは「そういうことを自分だけはしない」という根拠のないただの思い込みだ。

私にとってそれは「妻帯者とは付き合わない」「一度別れた男とは決してよりを戻さない」の2つだった。
なのに、人生の前半でどちらもあっさりとクリアしてしまった。なんというつまらない人生だろう。

1人はお酒で気が大きくなった勢いでうっかり付き合い始めた、アパレル商社の営業マンだった。
髪も薄くて全く好みではなかった。そして明るく愛嬌があり、家には妻と小さな娘がいた。そんな彼のエネルギーはとても心地が良く、一緒にいるならこういう人っていいなあと素直に思えた。
若かった私は占いに通い、いっぱしの不毛な恋愛を楽しむ自分にとことん酔うことができた。
占い師は「相性はいいのにね」といつも言った。そんなのわかってる。だから残念だなと素直に思った。

ある時は、姫路まで往復2時間をかけて、腕利きの占い師を訪ねたこともある。
全然会いにきてくれないと不満タラタラの私に彼女は一言、「結婚しているのをわかって付き合っているんでしょ」と言い放った。
そりゃそうだわな、とこれまた素直に思った。
未婚の自分と既婚の彼という、シンプルな客観的事実に気づけていなかったことにこの時初めて気づいた。だからこそできた所業だとも思う。

その頃の私は、男女の恋愛をただ楽しみたいという自分の本心に全く気がついていなかった。
彼とはお互いのお気に入りのバーの常連で、連絡を直接とりあうことはほとんどなく、忘れた頃に彼がふらりと家にくるだけの関係はそう長くは続かなかった。
いうほど嫌な思いもせず、ゆるやかにフェードアウトできたのは幸運だったとしかいいようがない。
私はこの時、自分には一生縁のないと思っていたことを通過した自分に、密かに満足をしていたようにすら思える。

しかし、もうひとつは少々趣きが違う。

「一度別れた男とはよりを戻さない」を軽々とやってのけた頃の私は、健全さから面白いように逸脱し、どんどん真っ暗な迷路に沈み込んでいたからだ。

何度電話をしてもつながらない夜。仕事をしているのはわかっていた。
彼の仕事場のビルの下からその窓をそっと見上げる。
電気がついているのが見える。
同じ仕事を一緒に担当していたから、徹夜になることを知っていた。
あの灯りの中には彼しかいないことも。
見上げながら電話をする。出ない。いるくせに出ない。聞こえているくせに出ない。
それが答えか。まんじりともしないまま、それでも気の済んだ私はようやくその場を去ることができた。
彼の家の下から電話したこともあった。それも同じように黙って去るだけだった。こうして改めて思い出すと、我ながら少しゾッとしつつウケる。

まるで中毒のように、甘くねっとり絡めとられるような感覚。
もはや好きも嫌いも消失した関係の中で、何のリスクヘッジもとらないまま、執着という色に見事に染め上げた自分。
あまりにも捨て身すぎて笑うしかない。
あれほど自分を痛める経験は今後の人生で二度とないし、繰り返すつもりもない。

なのに不思議だ。

彼を思い出す時、あの部屋の下に立っていた自分が生き生きと甦る。

まだ付き合いだしてすぐの頃だった。
当時彼のマンションは、入り組んだ路地裏にあり「迷ったら電話して」といつも言われていた。

その夜は、なんとか自力でたどり着くことができてホッとしていた。
するとちょっとしたいたずら心が芽生えた。
私は彼の部屋の窓を見上げながら電話をした。「近くまで来たけど迷ったみたい。迎えにきて」

そのままマンション前の電信柱の横で、彼が出てくるのを待った。
「あ!いるじゃん!」と私を見つけて笑う顔を期待して。

彼はすぐに出てきた。
なのに目の前の私には目もくれず、ものすごい勢いでそのまま駆け出していく。
気づかないなんて。「ちょ、ちょっと!」慌てた私は大きな声を出した。数メートル先で、彼はようやく気がついた。
「あ」
そうして私たちは笑い合いながら近づき、ゆっくりと手をつなぎ、二人で部屋へ向かったのだった。

もし本当に迷って電話をしていたら、きっとわたしは永遠に知らなかっただろう。
あんなに全力で、脇目もふらずに走って彼女を迎えに行く彼の心を。

◇◆

男性を愛するとはどういうことなのか、わたしはまだわかっていない。
少なくとも自分のことをそう思っている。

それでも弾丸のように走り出した彼を思い出すと、胸の深くに柔らかな光がさす。
愛されていたなあという言葉が頭をよぎる。
わたし、あの時大切にしてもらっていたんだなあと掛け値なしに思える。
あぁ、いいものをもらったなぁとゆっくり味わってしまう。

あの時の私は彼に恋をしていたのだろうか。もう思い出せない。
彼は私に恋をしていたのだろうか。そんなの今更どうでもいい。

もし自分の理想を相手にぺたりと貼って、都合のよい幻想を見ることを恋と呼ぶのなら、きっとお互いにそうだろう。
今更そこに微塵の興味もないけれど、今でも私を目指して走り出す彼が胸に立ち上がるたび、私はめまいがしそうなくらいに幸せな気持ちになる。
あの時の光景が、この恋愛を痛みだけの記憶にしないでいることも。

影が深い分、光も深くなるのは自然の摂理だ。
この記憶ひとつが残りの影全てに匹敵するほどの光を放っているとはね。
やれやれ、めでたいことだと少し呆れながら、悪くないなとうっすら思う。

結果的にこの経験は、ジェットコースターのようにアップダウンを楽しむ恋愛志向をゆっくりと終わらせるきっかけになった。
ときめくことは好きだ。でも神経を過敏に研ぎ澄まし、誰かを焦がれることを恋というのなら、もう恋はいらない。そう思うようになった。

逆に、昔は「世界が愛でできている」という人を嘘くさく感じていたのに、気づけばまんざらそれは真実かもしれないと思うようにもなった。

私にとっての一番わかりやすい愛は、男女関係よりはるかに広義なもので、もっと便利になったらいいな、喜んでくれたらいいなというアイデアやこだわりを形にすることも含まれる。

ジョブズがMacをつくったことも、直接ありがとうがいわれなくても、農家の人が野菜を丹精込めて育てることも愛だと思っている。
だから多くの人が職人の仕事に愛を感じるとしたら、至極当然なことだと思う。

こんな視界で世界を見る自分になる日が来るなんて、昔の私には到底思いもつかなかったことだ。
一生ないと思っていたことがこういう形で起こるのは、嬉しい裏切りでしかない。
最初は数えるほどにしか咲いていなかった花が、時間を追うほどにいくつも開く。そのスピードも数も日々加速している。

ならばこの巡りを信頼してみようか。
自分の都合と期待を投げ捨ててみようか。
花の開くタイミングは花に任せるしかない。
それは美しい空を見てきれいだなと感じることなのかもしれない。
悲しいときは大地につっぷして泣くことも。

先日、「ああ、わたしはもう男性と連れ添うことはないかもしれない」と思った瞬間があった。
それならそれでいいと本当に思った。
と同時に、こうも思ってしまった。

「ならば、起こってしまうかもしれない」

そんな裏切りの可能性に思いを馳せる。

いつだって、人生からの裏切りは嬉しい贈り物なのだ。


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