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つれづれ雑記*小学生が覚醒、の話*

 小、中学生の頃、新年度に国語の教科書をもらったら、その日のうちに読んでしまう子どもだった。
 勉強は好きじゃなかったが、自分では選ばない小説、論説文、ノンフィクションや詩がたくさん載っているのが楽しかったのだ。

 世界初の南極点到達を競ったノルウェーのアムンゼンと英国のスコットの話を読んだのも国語の教科書だったし、鳥取砂丘や鳴門の渦潮が海岸の地形と潮流によるものだと知ったのは国語のテストの問題文だった。

 「走れメロス」や「山椒魚」を読んだのも教科書が最初だったし、谷川俊太郎さんの詩を読んだのもそうだった。

 以前、ここで感想文を書いた山川方夫さんの「夏の葬列」はそんな中で鮮烈に覚えている作品のひとつだ。

 他にも印象に残っていてよく覚えているものに、小学3年くらいのときの国語の授業で読んだ、あるテニス選手の話がある。

 大正時代のテニスの国際大会での出来事。
 ファイナル出場をかけた試合で、日本の清水善造選手とアメリカのチルデン選手が戦うこととなった。
 ゲームの途中、チルデン選手がコートの芝に足を取られて大きく体勢を崩した。
 チャンスだ。誰もがそう思った。
 ところが次の瞬間、観客が見たのは意外な光景。
 清水選手が相手コートに返した球は、撃ち返しやすいゆるい球だった。チルデン選手は体勢を立て直してそれを易々と撃ち返し、エースを決めた。
 そして試合はチルデン選手が勝利した。
 
 この清水選手の行為はスポーツマンシップのお手本と讃えられ、清水選手が退場したあとも拍手が止まなかった、と文末にあった。
 
 その頃の国語の教科書は、今もそうなのだろうか、単元ごとに「学習のまとめ」と称して、「〇〇の場面で主人公はどう感じたと思いますか」とか「そのとき、△△はなぜ、そうしたのでしょう」とか、挙句には「あなたはどう思ったか、考えてみましょう」とか問うてくる設問がついていて、これが大嫌、いや、苦手だった。
 文章を読むのは好きだが、それについて感想を発表させられるのは好きではなかったのだ。だから手を上げて発言することはほとんどしなかった。

 このときも、「清水選手はなぜ、ゆるい球を返したのだと思いますか」「それに対して観客はどう思ったのでしょう」「あなたは清水選手の行いをどう思いますか」等等の設問があった。
 そもそも、もう全部書いてあるじゃないか。何でそれを改めて聞くのだろう。どう思いましたか、って聞かれても、観客が皆、称賛したと書いてある。それ以外、何があるのだろう。
 などと、賢しらなことをぼんやり考えていたように思う。

 案の定、何人か発言した同級生たちは、「相手のミスにつけ込むことはしたくなかったからだと思います」「清水選手のフェアプレイ精神に感動したから」「正々堂々と戦って、偉いと思います」などと皆、無難に答えていた。

 いつもと同じような、そんな光景の中、ひとりのクラスメイトが言った。
「芝生につまづいたのは清水選手のせいじゃないのだから、そこを攻撃して勝ってもよかったのじゃないかと思います」
 教室の中が少し静かになった(ように思えた)。

 担任の先生はクラスを見回して、「皆さんはどう思いますか」と尋ねた。そのときの先生の表情は覚えていない。今思えば、ちゃんと見ておけばよかった。
 
 しばらくしてポツポツと手が上がり、「相手もスポーツ選手なのだから強く撃ち返してもよかったのじゃないかと思います」「強い球を撃っても卑怯じゃないと思う」「チルデン選手はどう思ったのかな」というような意見が次第に増えてきた。
 みんなが同じことばかり言っていた、さっきまでのクラスの雰囲気は一変した。もちろん初めの意見のままの者もいたが、後からの意見に賛同する者も多かった。

 私は何も発言はしなかったが、内心驚いていた。
 場の空気が変わる瞬間を初めて見た。
 いや、その当時は明確にそう考えたわけではないと思う。ただ、今、そのときの気持ちを説明するとすればそういうことになるだろう。
 クラスの中で主流になりつつあった意見とは違うことを最初に言った同級生を、ただ単純にすごいと思った。そう言いながら、誰だったのかは全く覚えていないのだけど。
 
 この後、先生がどうまとめたかも全然覚えていない。
 これもちゃんと見ておけばよかったと思う。

 今でも、この清水選手の話とこのときのクラスの空気の変化はずっと頭に残っている。

 書いてあることを読んで理解しても、その後、何も考えずにそのまま飲み込んでしまってはつまらない。
 自分と、その文章とは対等なのだ。
 感心して納得してもいいし、反発しても構わない。他の人が言うことと違っていてもいいから、自分自身が感じたことを言葉にする(発言するかどうかは別にして)こと。それが、考えるということだ。
 そして、それは相手の意見や相手自身を否定したり非難することと同じではないことも。また後からもう一度考えて、何か違う、と思ったらその考えを改めることさえも。
 今から思えば当たり前のこんなことを、初めてぼんやりとでも、理解した。
 
 小さい頃からおとなしくて、どちらかといえば、ボーッと生きているタイプだった私が『覚醒』した最初だった、と思う。

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 追記
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 記事を書くにあたって清水選手のことを少し調べていたら、この美談(?)とも言われる逸話に興味を持たれたあるノンフィクションライターさんが取材調査して書かれた本が存在することがわかった。
 上前淳一郎著「やわらかなボール」。
 もう40年も前の作品。
 長女に調べてもらい、古本を見つけて購入した。
 とても興味深かった。
 そうか、そうだったのか。
 半世紀も前の引っ掛かり、謎が解けた気がした。
 
 またいずれ、感想文が書けたらいいなと思う。

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