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毛利元就の辞世 戦国百人一首97

毛利元就もうりもとなり(1497-1571)は、安芸国(現在の広島県)の吉田郡山城よしだこおりやまじょうを本拠地とする国人から始まって中国地方を統べる西国の雄となった戦国大名だ。

元就といえば、彼が死の床についているときに、3人の息子に告げた「三矢みつやおしえ」の逸話がよく知られている。

「三矢の訓」とは、毛利元就が長男の隆元たかもと、次男の元春もとはる、3男の隆景たかかげの3兄弟に矢を使って厳しい戦国の世を生き抜くための術をすべを教え諭した話だ。
一本ならすぐに折れる矢も3本束ねれば簡単に折れないとし、3兄弟に3本の矢のように力を合わせ、毛利家繁栄のために協力し合うことを誓わせたのである。

実は、この逸話は後世の作り話である。
だが、そのもととなる「三子教訓状さんしきょうくんじょう」という書状は「毛利家文書」の一部として実在する。

友を得てなおぞ嬉しき桜花昨日にかはる今日のいろ香は

今日の花見で友と一緒に眺める桜は嬉しく喜ばしい。
昨日と今日の桜では、色香も変わっていっそう良く見えるものだ。

この歌に「死」の影はない。穏やかな花見の歌である。
そして正確には、これは辞世の歌ではない。
1571年、元就が死を迎える3ヶ月ほど前に元就の居城・吉田郡山城で詠んだものだ。ただし、これが元就の最後の和歌となった。享年75。
当時としては長寿だったといえよう。
死因は老衰か病死とされ、戦いの中で亡くなったわけではないが、毛利元就はそれまでの人生で十分なほど戦の中で生きてきた武将である。

そもそも毛利氏が勢力を持っていた安芸国のエリアの周辺には、毛利氏を含め多くの国人がひしめいていた。さらに山陰には9カ国をまとめる尼子あまご氏、山陽から九州北部を制していた大内氏も勢力を拡大しつつあり、火種には事欠かない地域だった。

1523年に27歳で吉田郡山城主となった元就は、自らの領地を守るため、尼子氏と大内氏の対立の間で苦しみながらも安芸国の他の国人たちと連携協力しながら領土を拡大していった。
1525年には大内氏と組み、1529年に尼子氏と組んだかと思うと、今度は尼子氏と組んでいた国人の高橋氏を滅ぼした。
1540年には尼子氏の攻撃を撃退し、安芸の守護大名・武田氏の滅亡後には彼らの勢力範囲であった広島湾付近にも進出。

元就は安芸・石見いわみに勢力を持っていた吉川氏に次男の元春を、瀬戸内海ににらみを利かす水軍を持っていた小早川氏に3男隆景をそれぞれ養子に出し、山陰や瀬戸内海での勢力強化を推し進めている。
この政略は「吉」「小早」の川の字を取って「毛利の両川体制」と呼ばれ、毛利の繁栄の基礎となった。

元就の勢いはとどまらず、さらに大内氏に反旗を翻して城を奪い、厳島を占領した。その厳島を奪回すべく襲撃してきた大内氏(実権を握っていたのは陶晴賢すえはるかただったが)の軍を厳島合戦にて撃退。
1557年には大内氏を滅ぼした。
さらに1566年には山陰の尼子氏をも滅亡に追いやると、ついに中国地方のほぼ全域を支配する日本屈指の戦国大名となったのである。

元就の死後は孫の毛利輝元が毛利氏の繁栄を守ることとなった。
元就から家督を相続していた息子の隆元は、元就が亡くなる8年前の1563年に急死していたのだ。毒殺との説もある。毛利輝元は叔父の吉川元春と小早川隆景に支えられ、毛利氏の繁栄は続いた。

のどかな花見の歌が毛利元就の最後の歌となった。

実は、「三子教訓状」が出されたあと、3人の兄弟がすんなりと仲良く協力しあったわけではない。この教訓状は、単純に父親から3人の息子に対する諭しだけにとどまったものではないのだ。
「毛利の両川体制」を強化し、あくまで吉川家、小早川家は毛利家を支えるべき存在であり、そのような関係を構築することで毛利家の生存戦略を示した作戦の指針だった。そして、それは血族同士の争いごとを避け、毛利家としての結束を図るには一定の効力があったと考えられる。

それゆえに、花見を友と楽しむそんなのどかな時間が晩年の元就にもたらせたのかもしれない。元就最後の歌はあくまで穏やかである。