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高橋紹運の辞世 戦国百人一首86

豊後国を中心に勢力を伸ばした戦国大名大友宗麟は、家臣に「風神・雷神」を持っていた。
「雷神」とは、雷を斬った逸話で知られる猛将立花道雪だ。
そして「風神」とは、高橋紹運(たかはしじょううん/1548-1586)のことである。

86 高橋紹運


屍(かばね)をば岩屋の苔に埋めてぞ雲ゐの空に名をとどむべき

たとえ私の屍(しかばね)が岩屋城の苔に埋もれることになっても、
天高く名を残そう

高橋紹運の辞世は2種類伝わっている。
今回は比較的古い軍記物や史料に紹介されているものを採用した。

もう1首がこちらだ。岩屋城跡に歌碑となって建てられている。

流れての末の世遠く埋(うずも)れぬ名をや岩屋の苔の下水(したみず)


高橋紹運は、大友家家臣・吉弘鑑理(よしひろあきまさ)の次男として誕生した。当初は吉弘鎮理(よしひろしげまさ)と名乗っている。
1567年、彼は父や兄と共に戦って、大友氏に謀反を起こした家臣の高橋氏を討伐した。
1569年、大友宗麟が吉弘鎮理と名乗る彼に、討伐した高橋氏の名跡を継ぐよう命令。そこで、鎮理は高橋鎮種(たかはししげたね)と名を変えた。
そして筑前の岩屋城と宝満城の城主となり、以降立花道雪と共に筑前国を守ったのである。
紹運というのは、彼の出家後の法名だ。

紹運は誠実な男である。
彼の正室は斎藤鎮実の妹の宋雲院だったが、彼女は婚約中に疱瘡(ほうそう/天然痘)を罹患した。
容貌が悪くなったことが理由で兄の鎮実が破談を申し出た。
しかし、紹運は
「容姿ではなく心根に惹かれて決めた婚約だ。破棄するつもりはない」
と言って正妻に迎えたという。

紹運は義理がたい男である。
彼の盟友であり、父のように慕った立花道雪は、男児に恵まれなかった。
その道雪に何度も乞われたため、紹運の自慢の長男を道雪の娘・誾千代と結婚させ、婿養子に出して立花を継がせた。
それが立花宗茂である。

こうして大友家家臣の高橋紹運と立花道雪はますます強く結びついた。

高橋紹運は戦上手だった。
1578年、耳川の戦いで薩摩の島津義久に大敗した大友宗麟が自軍の戦いに精一杯で援軍を送ることができなかった折も立花道雪とともに戦った。
筑前国は、肥前の龍造寺隆信、筑後の筑紫広門、筑前の秋月種実ら敵に侵攻され、半ば孤立状態だったが領地を守り切った。

1584年、島津の圧力に苦しんだ大友義統の要請により、紹運と道雪は猫尾城を落城させた。

翌1585年にも肥前・筑前・筑後・豊前の連合による3万の軍に対し、紹運と道雪らが9800の兵で敵軍を退けた。

「風神と雷神」による奮迅の活躍で、大友家が守られ支えられていた。

しかし、1585年、73歳の立花道雪は陣中で病没した。
「雷神」が、消えた。
それを好機とした島津勢によって、一時留守中の宝満城が奪取されたが、紹運は筑後遠征を中止して引き返し、城を奪還している。
「風神」はまだ生きていたのだ。

だが、島津の勢いは止まらない。
1586年7月、九州制覇を目指す薩摩の島津義久は、島津にとって九州で唯一残ったやっかいな大友氏勢力を潰したかった。
そこで島津忠長に2万の兵を与えて筑前へ送り込んだのである。

迎えるのは高橋紹運だ。
彼の手元には立花家からの援軍を含めても800に満たない兵のみ。
しかし紹運は、島津軍からの降伏勧告を拒否して岩屋城に籠城した。
激戦と言われる「岩屋城の戦い」はここから始まる。

実は、紹運はその後何度も島津から出される降伏勧告を拒否し続けたと言われる。
それには理由があった。

紹運は島津軍に迂回され、立花山城を攻撃されたくなかったのである。
そこには自分の息子であり、立花道雪の跡を継いだ立花宗茂がいた。
さらに、彼のもう一つの城・宝満城には紹運の妻、次男、そして岩屋城から避難した非戦闘員の女子供たちが詰めていた。

大友家の窮地を救うための豊臣秀吉の軍が救援に駆けつけるまで、その時間稼ぎに自分を囮にして岩屋城に島津の兵を引きつけること、それが彼の狙いだったのである。

攻める島津忠長も、高橋紹運の実力を認めており、彼を失いたくはない。
何度も降伏勧告を行うが、紹運は拒絶し続けるのだ。

「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下!」

彼の言葉は味方からも敵からも称賛されたという。

2週間の徹底抗戦ののち、7月27日についに高橋紹運は高櫓に登り、壮絶な割腹をして果てた。享年39。
九州全体の歴史史料として知られる『北肥戦誌』によれば、彼の辞世は自刃の前に城の扉に書き付けられたものだったという。

紹運の首実検を行った島津忠長は、

「我々は類まれなる名将を殺してしまった。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」

と涙を流して諸将とともに手を合わせた。

高橋紹運とは、文武に秀で情にも厚い人物だった。
最後に彼と共に戦った兵たちの中に生き残った者はいない。
全員討死・自害である。
古今稀な名将は皆に慕われたからこそ岩屋城に籠もった兵は共に玉砕した。

岩屋城の戦いにおいて、2万の島津軍は紹運側の800名弱(一説には763名)によって3000もの兵を失った。
「風神」紹運によって予想外に大きなダメージを受けた島津軍は、戦後の体制を立て直すのに時間を費やしてしまった。
これが、島津による九州全土制覇を叶えることができなかった遠因となったという。

その後島津軍は、立花宗茂が籠もる立花山城の攻略に手間取った。
そうする間に、恐るべき豊臣軍が実に20万もの兵を引き連れて島津討伐のため九州に上陸したきたのである。