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真田信之の辞世 戦国百人一首71

戦国百人一首70番で真田幸村を取り上げたその次は、彼の兄である真田信之(1566-1658)の人生を彼の辞世に重ねて見てみたい。

71 真田信之

何事も移ればかわる世の中を夢なりけりと思いざりけり 

全てが移り変わっていく世の中のことを夢だったなどとは思えない

例えば「豊臣秀吉の辞世 戦国百人一首1」で紹介したように、自分の人生のことを「夢のまた夢」と言う武将がいる。
だが、真田信之の場合は「夢だったなどとは思えない」と正反対だ。

真田信之は弟の幸村、父親の昌幸と比べて、地味なイメージが否めないが、真田家の嫡男として着実に役目を果たし、人生の岐路には正しい判断ができた人物である。
上田藩(長野県上田市)、松代藩(長野県長野市松代町)の基礎を固めた名藩主でもあった。

真田家が江戸時代を通じて存続し続けたのは、真田信之のおかげである。
藩主となるまでの信之の人生は、弟の幸村とは違った意味でドラマチックだった。

1600年の関ヶ原の戦いでは、父親の真田昌幸と次男の幸村(信繁)が石田三成側の西軍につき、長男である信之は徳川家康側の東軍に分れて戦った。

・戦の結果が東西どちらに転んでも真田家が存続できるようにするため
・兄・信之の正室が徳川家康の養女(家康の重臣・本多忠勝の娘)だったから東軍についた
・弟・幸村の正室が大谷吉継の娘(石田三成の仲介による)だったから西軍についた

などがその理由だと言われる。
真田家にとって関ヶ原の戦いはつらいものだったに違いない。

戦いでは、信之は徳川秀忠に従軍した。
秀忠は信之の父・昌幸の上田城を攻め、信之自身も戸石城を守る弟・幸村と一戦交えかけた。
結局、真田家の兄弟で戦う利はないと幸村が一戦も交えず退却して、上田城を信之に開城している。

関ヶ原の戦いは信之が属していた東軍勝利に終わり、西軍の中心人物・石田三成は斬首となった。
自分の戦功と引き替えに父と弟の助命嘆願をした信之のおかげで、昌幸と幸村は死罪を免れ流罪に留まった。
彼は、九度山での蟄居となった父と弟に援助もしている。

徳川幕府に仕えた信之は、1614年からの大坂の陣でも豊臣方についた弟・幸村と再度敵対の関係となった。
戦死するまでの弟・幸村の戦での活躍は、徳川方にいた兄・信之の立場を難しくさせ、彼を苦しめた。

人生の後半は病がちだった信之だが、93歳までの命を全うした。

徳川家康から秀忠、家光、そして家綱と主君を変えながら徳川家に仕えた信之。
家光は、老将・信之の昔の武功話などを聞くのを好んだという。
隠居を求めても慰留されて91歳まで家綱に仕え、ようやく隠居できた暁には
「天下の飾り」と呼ばれたという。

信之の死は家臣はもちろん、松代藩領内の百姓・町人までもを悲しませ、出家する者が続出したほどだった。

しかし、ここでハナシは終わらない。

明治時代になって驚く発見があった。

信之の命で真田家に代々伝わっていた長持(ながもち/保管箱)がある。
徳川家康より拝領した「名刀・吉光の脇差(わきざし)」を家宝として収めた真田家伝来の「吉光御腰物箪笥(よしみつおんこしものだんす)」だ。

この長持ちには、信之の命令で

長持を収めた部屋に藩士4、5名一組の寝ずの番を置き、24時間365日警備

という最高のセキュリティが施され、子孫が守り続けた。

ところが、明治の世になってその中から刀だけではなく、危険な機密文書が発見されたのである。
それは、関ヶ原の戦いにおける敵将・石田三成から信之に宛てた私的な書簡だった。

実は、真田信之と石田三成とは盟友、親友の間柄だったのである。
それは当時、周囲の人々も知っていた公然の事実だった。
そして恐らく、三成は関ヶ原の戦いで信之が西軍につくことを期待していたはずだが、信之にはそれができない事情があった。

とはいえ、三成からの書状を保管することは、徳川への裏切り行為だ。
信之は、友である三成の手紙を大変なリスクを冒して保存していた。
身内にさえ宝刀だと偽ったほどである。

ここで、また信之の辞世に立ち返っていただきたい。

全てが移り変わっていく世の中のことを夢だったとは思えない

彼はそう言った。

信之が手紙を保存した真意は謎である。

とはいえ、親兄弟だけでなく盟友と戦う壮絶な人生を送った男が、こうやって友との親しい書簡を死後も守り抜いた。

その波瀾万丈の「過去」が「夢だったとは思えない」のは当然ではないか。