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映画「椿の庭」感想・思い出の宿る場所


※ネタバレを含むので、映画鑑賞済みの方向けです※ 

いままで忘れていて、そんなことがあったこと自体も覚えていなかったような過去の出来事をふいに思い出すということは、誰にでも経験があることだと思う。ふと耳に届いた音楽だったり、たまたま読んだ小説の一説だったり、紅茶に浸したマドレーヌだったり、そんな些細なきっかけが、引き出しの奥にしまわれたものを目の前に映し出す。そのたびに、思い出というのは一体どこに宿っているのだろうと考える。
 
「椿の庭」をみて、そんなことを思った。


ストーリーはいたってシンプルだ。海を望む高台に建つ家に孫娘の渚と暮らす絹子のもとに、ある日電話がかかってくる。夫の死去に伴い家の相続税の問題が持ち上がり、長年暮らしてきた家を手放さないかという税理士からのものだった。映画は家がなくなるまでの10か月を、移り変わる自然とともに丁寧に描いていく。

セリフは極端に少ない。それを代弁するのが絹子を演じる富士純子や、渚を演じるシム・ウンギョンのさりげない表情や所作、そして海や空、庭の木々など季節によって変わりゆく自然だ。


映画は、死んでしまった池の金魚を絹子と渚が供養するところから始まる。それは、ちょうど亡くなった絹子の夫のメタファーにも思える。二人は死んだ金魚を椿の花に包んで土に埋める。その赤の鮮やかさにどきっとした。死は、生とこんなにも隣り合っているものだと、普段は感じない、または無意識に感じないようにしていることを目の前に突き付けられた感じがして。しかし、自然と生きるということは変わりゆく生命の横でそれを存分に感じながら生きていくということでもある。絹子と渚の生活はそういうものなのだと、最初に宣言しているかのようだ。

甘美な死の予感をはらみながら、映画はゆっくりと進んでいく。

降りしきる雨が彼女たちの代わりに泣き、雷が怒り、庭の小鳥や四季折々の花々が喜びの声をあげる。

縁側から見える海、レコードから流れる音楽、丁寧に身に着ける着物、すべてがそこにあるのが必然のように家になじみ、長い間営まれてきた丁寧な生活を垣間見せる。こんな生活をしたことがないのに、郷愁の念に駆られる。
映画は思い出を映像で映し出すことはしない。絹子や渚の言葉を通して、仏壇の写真や家具を通して徹底的に「今」の視点から語られていく。周りのものが、過去を映してくれる鏡かのように。

家を売ることに最初は抵抗していた絹子は、やがてそれを受け入れる。しかし、その心中は穏やかなものではなかった。
「もし私がこの地から離れてしまったら、ここでの家族の記憶や、そういうもの全て、思い出せなくなってしまうのかしら」
ある日絹子はそう古くからの友人に訴えた後、倒れて病人に搬送される。退院するも処方された薬を飲まず、毎日洗面台に流し続ける。流した分だけ、絹子の寿命が減っていくような暗い不安が漂う。営みのすべてを愛しむように、絹子は渚と今まで通り暮らしていく。

季節は着々と過ぎていき冬になり、身体が弱ってきた絹子の代わりに渚が庭の枯れ葉を掃いていたとき、ふいに雨が降ってくる。晴れてるのに雨が降ってる! 珍しい光景に渚が声をあげ絹子を呼びに行ったとき、すでに絹子は愛する家のソファで、遠くに旅立っていた。歌を鳴らし終わり、むなしく回り続けるレコードがそれを語る。渚は、眠りについた絹子に静かに寄り添う。

別れは寂しいけれど、絹子にとって様々な思い出が宿る家と一緒に逝くことは彼女の本望なのだ。太陽の光が差す中降り注いだ雨とそのあと現れたきれいな虹が、絹子らしい最期を祝福する。枯れたら花の形を保ったまま地面に落ちる椿の花のように、絹子は思い出を丸ごと抱えて家とともに旅立つ。
 
やがて、絹子が愛し守ってきた家は壊される。大切にしてくれそうだと思っていた買い手は、やはりというべきかはなからその気はなかったようだ。(見学に来た際に渚が出した麦茶に一口も口をつけずに帰ったことや、測量士の「もったいないなあ」という言葉がそのことをなんとなく予感させていた)。

クレーンが家に侵攻していく横で、渚は池の金魚を手で包み、必死に守る。その光景を金魚には見せないように、絹子がその金魚に宿っているかのように。

そして、渚はその金魚を新しく一人暮らしを始めたワンルームの部屋に連れ帰る。それを暗い部屋で静かに眺める渚の横顔で入るエンドロールに、強く胸を打たれる。
絹子にとっての「家」は、渚にとっての「金魚」なのかもしれない。
おばあちゃんとの記憶が、そこにはつまっている。それがある限り、渚は絹子との思い出をいつでも思い出せる。

そしてここで、ふと「渚」という名前に思いを巡らす。韓国に駆け落ちし、その後一度も家に戻らなかった母が娘に名付けた名前。海が見渡せる家で過ごした時間を、娘の名前に託したのではないだろうか。絹子に送ったはがきに書かれていた「渚」という孫娘の名前をみて、絹子は何を思っただろうか。意地を張り、言葉を交わすことなく亡くなった自分の娘に対する悔恨が渚への手紙に綴られる。一方で、母が最期に渚に言った「ごめんなさい」という日本語の言葉。それは渚を一人にすることへの謝罪ではなく、絹子に対する謝罪だ。渚はそれを理解し、両方から打ち寄せる思いの波を静かに受け止める。

鉢に移された金魚は二匹だった。その二匹は、絹子と渚の母だったのかもしれない。渚が、この世では会うことのかなわなかった二人を引き合わせてくれたのかもしれない。

そう思わずにはいられない。


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