秋の夜長に妻と_死_を考えてみた

秋の夜長に妻と「死」を考えてみた

やぁこんばんは。アカヨシロウだよ。秋だからってわけではないけど、ここ数ヶ月で身近な親族が亡くなったので、この長い夜に奥さんと「死」と「死後」について考えてみたよ。

結論は「死んだらもう、全部無くなっちゃうね。だから今を生きよう!」っていうポジテイブなものになったよ。途中あんまり褒められるような話ではないけど、「こんな考え方もあんのかな」程度に読んでくれたら幸いだよー。

【ピックアップ】
・”死後の世界”などない
・死んだら当人には関係ない
・故人を弔うことは大切だけど、相手は死んでいるよ
・自身に従って、今を生きよう!

“死後の世界”などない

一番最初に共有しておきたいのは、「人は見たいもの見て、信じたいものを信じるもんだ」ということです。

この多様性の世の中で、何が正しいかなんて各自にお任せします。僕はこーいう考え方だしこーいう考え方に基づく資料を信じがちだけど、どうでしょうって話です。

別に喧嘩したいわけでもございません。はじめに、ね。

僕は妻と「どう死にたいか」をよく共有しています。僕は彼女の死生観が好きです。彼女は「どう死にたいか」から「どう生きたいか」を見出そうとしているからです。

ちょっと前に親族の葬式があって、夫婦で参加したんですけど、その時に違和感を覚えたのが“死後の世界”ってやつですね。

“死後の世界”について、僕ら夫婦の見解は同じです。大した大学じゃないけど、生物系を専攻してきた僕らはその存在を信じません。理由は「だって死んでんじゃん」。

僕ら生物が目で見て耳で聞いて肌で感じているこの世界は脳の電気信号によって判別しており、

「死」とは人体でエネルギーを作り出すことができない

電気信号を作り出すことができない

脳の機能が停止した状態

であると考えられます。(ざっくりとしてるけど)

どこから「死」かに明確な境界線はありませんが、完全な死はあります。よく言う臨死体験は「結果死ななかった人が語る現象」であり、死ではありません。

じゃあ死後とはなんだ、となれば何なんでしょうね。強いて言えば「無」でしょうかね。認識することなどできず、何も無くなるんでしょうね。

理系の根本的な考え方として「再現性」というのがあります。よくある「見えたっ!」っていう超常現象も、再現性がなければオカルトの域を超えません。(オカルトの域を超えないのがいい!って話はまた別の場で。)

なので「死後の世界はある」って考えをもつのも自由ですが、証明してみてよって思っちゃいます。(まぁこー言ったら「ないことの証明をしてみてよ」って言われるんでしょうが。)

あらゆる宗教が死について哲学・思想がありますが、そー考えると僕ら夫婦は「科学教」に近いかもしれませんね。

この考え方に基づくと、“死後の世界”はありません。幽霊もいません。大丈夫です安心してください、相手は死んでます。

死んだら当人には関係ない。

妻は幼少期病弱で、大学の時に悪性リンパ腫でステージ4までなったようです。現在は元気にしているけど、まぁ死にかけた人ですね。

そのような時期を過ごしたから、後悔のないように今を生きているように見えます。彼女と葬式後に話し合ったことは、「死んだら関係ないね」ってことです。

葬式という死んだ人を弔う行動は“生きている人”がすることなんですよね。

例えば「明るく陽気な葬式で弔ってほしい」って遺言を残したとしても、実際にどうなるかは分からない。生きている人が対処するから。

内容によっては法的に効力をもつかもだけど、実際に本人が満足ゆく形で処理されるかはわからない。そりゃそうだよね。その場にいないんだもん。

妻にどう弔ってほしいか聞いてみると、「死んだらほっといてほしい」ようです。墓にも入りたくないし、様式にも縛られたくない。そもそも死んでる人相手にどーあるべきみたいな考え方自体が嫌なようです。(僕もですが。)

葬式や墓を管理する労力・コストや火葬する物的エネルギーを考えるんだったら、畑に埋めて養分になり忘れ去られる方が合理的なんじゃないかと。なるほどなぁ。面白い。

自身が死んだ時に、自分を弔いたい人の気持ちをどうするかは彼女にはどうしようもできない(死んでるから)。けど、自身が墓に入ることは、弔う人に墓という場所を縛っているようで嫌なのだようだ。そもそも、放っといてほしいらしい。

そんな彼女に対して僕は「死んだ瞬間に脳からデータをダウンロードして僕の脳に移行したいなぁ。僕は君の思考のすべてを理解できるし、僕の中で生き続けるのだよ。」みたいな話をしたら本気で嫌がっていました。

「もしそれをやるなら再生できないくらいグチャグチャになって死んでやる」とまで言っていたので、僕は「それはやだなぁ」と現時点でそれを諦めています。(現時点では、ね。)

故人を弔うことも大切だけど、今を生きることも大切

なぜ上記のような話をしたかというと、身近に故人に縛られて生活をしているじゃないかと思える人がいるからです。

死ぬことは本当に悲しいです。それが身近な人で、若くして亡くなったりすると尚さらですよね。亡き人を想いたい、弔いたい気持ちは分かります。僕ら夫婦もその人がもし生きていたらと、よく話題になります。

一般の話に戻しますが、亡くなった相手を弔う行為はとても大事であり、とても文化的なことだと思います。けど、相手はもう死んでいます。

(もちろん、故人に縛られた生活をしたいということでしたら、それも自由です。ただ、無理はしないようにしてほしいです。)

僕ら夫婦の結論は、「死んだあとの事は生きている人の気持ち次第だ」ということです。相手なんかいないんだから、好きなようにしたら良いじゃないですか。

もし貴方が「死んだ相手の生前の理想を尊重したい」と思うなら、その信念にそって行動すればいいんです。逆も然りです。その行動がどんなであろうと、死んだ当人は関与しません。ヤンヤ言うのは生きている人で、なにか思うのもあなたの脳です。

安心してください。大丈夫です。自分に従って、今を生きましょう!

妻:かたやまかほ

編集:円(えん)

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