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「じっと手を見る」


もう誰かとやっていけるなんて思わない。

ひとつの恋が終わるたび、いつもそう思う。

単に体調が少し悪かっただけなのに
相手から不機嫌そうな声が返ってくると、
「あれ私、なにか悪いことしたかな?」と
気を揉んだり、気を回したり。
夜中に隣にいる人間のイビキで目が覚めて、
次の朝には猛烈に責めたい気分になったり。
何もやましいことはしていないのに
少し深い時間まで飲み歩くと、
一抹の気まずさを抱えて、
そっと玄関の鍵を開けてヒールを脱ぐ。
誰かといるのは、何かと、わずらわしい。

「二人の力を合わせたほうが、できることが多くなる」
なんてことは、頭でわかっていても
いざ一人になると最初は寂しくても
十分に気楽だし、行動も小回りが効くし、
生活は軽やかで、楽しい。
誰かといる「わずらわしさ」からは少なくても解放される。

それでもやはり「誰かといたい」そう思ってしまう。

「そばにいるから」
「どこにも行かないで」
「そばにいてほしい」

「じっと手を見る」の登場人物たちの言葉だ。

富士山麓の樹海にほど近い地方都市を舞台にした本作、
登場するのは、介護士の仕事をしながら暮らす20代の男女、
東京からやってきたアートディレクターの男、
介護職を渡り歩く巨乳のバツイチ女。

彼らが繰り広げる恋愛は、
だらしなくて優柔不断で、
ときに利己的で、
ときにお人好しで、
そして懲りもせず、他者を求めていく。

散々、傷ついて、
他人といるわずらわしさを知り、
誰かの生活を引き受ける責任の重さへの恐れを感じているのに。

出会った当初の熱狂の日々は、やがて終わり
人の気持ちのうつろいやすさと儚さを知っているのに。

そして、その肉体はなんの前触れもなく、
ある日あっけなくなくなってしまうことを知っているのに。

はたらけど、はたらけど
人生は、しんどい。
それでも非情にも人生は続いていくし、
そしてある日、非情にも終わる。

それでも私たちは
この本で宮澤が土に落とした朝顔の種が根を張り、
やがてその蔓(つる)がしぶとく地中から生えてくるように
強く生き延びる。
そしてその蔓に、自分の支柱を立てていく。

また印象的だったのは、
登場人物たちはいずれも
誰もいない車の中、一人でいるときに
今後への大きな決断を下し、決意を固めること。

けっして声高に、
誰かに見せつけようとするのではなく
じっと一人、誰も見ていない密室で
そっと自分の心の内を固めていく。
それらは、あまりに地味な光景で
誰の目にも止まらない。
誰にも知られないことだけど、
その瞬間に人生を大きく、動かしていく。

窪美澄さんの本は、しんどい。
体力と心を使う。
人生は、いかにたやすくないか、
それでも誰かを求めずにはいられない。
けれど誰かを求めるのは、
ときに死ぬほど苦しい。
そんな思いを抱えて、
もだえる人々の生の営みが、
どこまでもシンプルで美しい文章で綴られていく。
だからいっそう、読んでしんどくなる。
そしてしんどさの先には、
「それでももう少し、人生を進めてみようかな」と必ず思わされる瞬間がある。
この重たくて、甘いマゾヒスティックな余韻にいつも浸ってしまう自分がいる。

昨年出版された
「やめるときも、すこやかなるときも」
では傷を抱えた男女の不器用な恋が書かれていたが、
本作では、恋だけでなく
生と死についてまで深く綴られていたようにも感じた。

働く手、だれかを求める手、
開かれたまま生を終え、固まってゆく手。
そんな手にそっと触れ、
生き抜いてきてくれてありがとう。
そういつか、誰かと言えたら、幸せだろうな、と思う。


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