運動会の体操とジェンダー差別。

週末は全国的に夏が再来したような暑さでしたね。
寒暖の差があるとはいえ日中は1か月以上前の陽気だったので、思わずしまいかけた半袖を引っ張り出したという人も多かったかもしれません。

季節外れの暑さは大変ですが、ここ数年は10月にもこんな日があるのが普通なので、これはこれでこれから本格的な寒さの季節に向かう私たちへの、太陽のエネルギーのプレゼントなのかもしれません。

先週のスポーツの日はあいにくの雨模様でしたが、スポーツや行楽には絶好の季節ですから、秋の週末の時間を有効に使いたいものですね。

この時期は各地で運動会や体育祭などが行われますが、Yahooニュースを見ていたら以下のようなトピックが目に入りました。


きっと昭和の時代やもしかしたら平成の前半くらいなら、あたりまえすぎてニュースにもならなかったのかもしれませんが、意外と古くて新しいテーマなのかもしれません。

私がこれを見て思い出したのは、かつては津々浦々で行われていた神事や祭事の中でも、現在の文化や価値観に合わないものはどんどん廃止されたり、縮小されたりしているという事実です。

とくに人前で肌をさらすようなしきたりや行事については、単純に考えても人権に係る問題であるため、その地域に在住するからという事情で半ば強制的に参加させられるような方法は、今では厳に慎まれているといえるでしょう。

ある意味ではそれと似たような構造を持つ学校におけるこのような風習や慣例が、事実上生徒たちに強制されているとしたら、まったくもって今の時代にふさわしくない対応だといわざるをえないと思います。

私は、このテーマはふたつの問題をはらんでいると考えています。



ひとつは、教育の場において必ずしも必然性がなく、人の価値観やとらえ方によっては人権侵害になると考えられるにもかかわらず、昔から受け継いできた伝統だという名のもとに、同調圧力によって個人が声を挙げられない構造が続いてしまっているという点です。

記事によると、現役高校生が新聞社に投稿することで問題の所在が外部に認識され、新聞社が学校などに取材することでさまざまな論議が浮き彫りになったといいます。

このような生徒の行動やメディアの動きがなかったなら、もしかしたらこれから5年、10年、15年と閉ざされた社会である学校の中で意義をとなえることもできず、人権侵害になりかねない風習が引き続いていたかもしれません。

運動会における体操という名目で、上半身裸にさせて力尽きて倒れる者がでるほどの大声を出すことを強制していると聞いて想起するのは、戦前の日本の軍隊における兵卒教育です。

ものの本によれば、しごきという名のもとにまさにこれと同様のシチュエーションで上官による兵卒たちへの教育指導が行われ、ときに肉体的、精神的苦痛を与える暴力へと発展していったことが広く知られています。

運動会における体操は、まさか物理的な暴力が行使されることはないでしょうが、その指導の態様や外観が戦前の軍隊を連想させると思うのは私だけではないと思います。

これはどのように理解しても今の世の中の価値観にふさわしいとはいえず、とりわけ基本的に生徒全員の参加が義務づけられる運動会での教育指導のあり方としてはあまりにも不適当だといわざるをえないでしょう。



ふたつめは、このような問題視される教育指導が、男子生徒と女子生徒とに分けられる中で、あえて男子生徒に対してのみ実施されているという点です。

なるほど軽犯罪法などでは男性と女性に分けて考えられる傾向がありますが、男性だからといって上半身裸姿がまったくわいせつと判断されないというわけではなく、厳密にいえばまったく違法性がないのは海水浴場などの近接区域に限られるという理解もあります。

それにしても、他人や所属する組織から強制されるとなると前提はまったく異なるわけであり、人権尊重の観点からすれば合理的な理由をともなわない強制はできないという理解が一般的なはずです。

前にこのnoteでも書きましたが、今は水泳の時間に着用する水着を男女共通のデザインのものにしようという流れが加速する時代です。LGBTの生徒への配慮という点はもちろんですが、そうした側面にかぎらず、あえて男女別の水着を強制される合理性はないのではないかという視点もじわじわと広まりつつあります。

男子だからといって、必ずしも異性に上半身裸姿を見られて恥ずかしくないという価値観は普遍的なものとはかぎらず、また個体差や価値観による違いも大きいと考えられます。

男性トイレや浴場の清掃を女性従業員が行うことの問題についても、今ではさまざまなところで指摘され、少なくとも男性の中にも不快感を感じる人が存在するという理解は広がりつつあります。

「男は上半身をさらしたくらいで恥ずかしがるものではない」という「男らしさ」の規範を植え付けることにつながりかねない教育指導は、どのように考えても一般的な学校教育の場にはふさわしくないといえるでしょう。



それでは、このような問題点は女子生徒たちには関係がない論点なのでしょうか。私は必ずしもそうとは思いません。

一部の生徒が直接的に恥ずかしさを覚え、事実上の人権侵害が起こり得るのはたしかに男子生徒ですが、とはいえ男子生徒のうちの圧倒的多数は、このような風習に疑問を持たず、あるいは個人的には意見があったとしても表面的には周りに追随することで、結果的に「男らしさ」を形成していくことになります。

男子生徒の中のマジョリティが「男らしさ」に染まっていくことは、男子生徒の中だけのマジョリティにとどまらず、全体として女子生徒たちも含めた母集団におけるマジョリティに位置づけられていくものと考えられます。

「力強さを表現したい」として実施されるこのような風習は、文字通り「男らしさ」=「力強さ」という構図のもとにマジョリティとして、女子生徒や「力強さ」という価値に染まらない男子といったマイノリティに優越する立場として、存在感を増していくことになります。

ここで男子に与えられた苦痛や困難は、「男らしさ」を表現し獲得するための関所のような役割を果たしており、この関門を乗り越えた者たちは事実上のマジョリティとして他に優先して闊歩していくという構図は、まさに家父長制的なしきたりの残滓であり、旧態依然たるサラリーマン社会の模倣ともいえます。

多くの女子生徒が男子に勝るとも劣らない主体性と存在感を発揮するためにも、マイノリティに位置づけられかねない男子の人権保障の意味でも、必然性や合理性をともなわない方法での教育指導は一刻も早く廃止されるべきだと思います。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。