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【コラム】妻夫木聡に吉永小百合を重ねたあの頃

妻夫木聡は平成の植木等だと天才脚本家の三谷幸喜氏が言っていた。
妙に腑に落ちた記憶がある。
こんな名言、ナンシー関しか生み出せないはずなのに。
そう、私は今も、そしてこれからもナンシー関を追いかけていくのだろう。

ナンシー関はテレビの向こう側の人(俳優、芸人、文化人問わず)はテレビの画面に映ったままの姿しか受け止めなくていいといった考えを持っていた。

「実はこの人ああ見えて本当は良い人なんだって…」とかそういった類の画面に映っている以外のものを読み取ることを嫌った。
私はこれにもとても腑に落ちたのを覚えている。
妻夫木聡が平成の植木等だというくらいに。

ナンシー関に言われなければ気づかなかったことである。
「やめろよ、営業妨害だ」と強面のそのテレビの向こうの人はクシャッと表情を緩めて否定する。
その光景は皆さんにも浮かぶのではないだろうか。演じているキャラとのギャップであったり、そんなことは見ているこちら側には知ったことではないものな。いや、本当に。なぜそんなことに気がつかなかったのか。

これがまさに顔面至上主義ならぬ画面至上主義としてナンシー関イズムの一貫性が表れている。

さて、私はというと腑に落ちたと言いながらも、完璧に徹せられていないことも自覚している。

もちろん「◯◯さんてふざけたことばかりしてるけど普段は律儀で礼儀正しいんだって」みたいなプライベートの素の◯◯さん(テレビに出ている向こう側の人)には首をつっこむことではないと思っている。
が、俳優としての◯◯さんの「俳優」を深堀りしたい気持ちはある。
同様に芸人としての◯◯さんの「芸人」もだ。

一芸に秀でているテレビの向こう側の人たちの生業に昔から惹かれるからこそテレビが好きだったわけでもある。

ふと、三谷幸喜氏の「妻夫木聡は平成の植木等」が脳裏にへばりついて剥がれなくなっていた。


私が俳優さんに入れ替われるなら一体どんな世界が見えるのだろう。
どんな精神状態で役を演じるのだろう。
そんなことを昔から考えていた。
考えてもわかるはずもないのだが、日めくりカレンダーのように新星の役者は誕生し続け雪山のように積もり時には溶けてを繰り返す。

私がそれぞれの俳優さんに求めるものは違う。
その中でキスシーンもNGでここまでやってこられた斉藤由貴とも違う神聖さが吉永小百合にはある。
「サユリスト」なる揺るがない地盤で長年支えてきた吉永小百合ファンは日本全国におり、芸能界でもサユリストを公言する方も少なくない。真っ先に浮かぶのはタモリである。
タモリは吉永小百合が「笑っていいとも!」にゲスト出演された時、機能不全に陥って見るからにたじたじであった。
俯きがちにサングラス越しでも目を合わせられない(顔を見合わせられない)。しどろもどろにぶつ切りの質問。対称的にどうしましょ、困っちゃうわと微笑みを絶やさない小百合。

数多の芸能人と一対一でトークしてきたタモリがこれである。
それだけ吉永小百合という存在は「吉永小百合」なのである(なんのこっちゃ)

都市伝説だが吉永小百合はおならをしないとまで信じられていたくらいだ。いや…もしかしたら本当にしないのかもしれない…。
吉永小百合は新年のご挨拶CMの背景に流れる鶴のように神聖なのだ。

吉永小百合を神聖のシンボルとするならそんな俳優をどこかで私は求める癖がある。

思春期にどっぷり沼にはまりファンクラブにまで入った松たか子にも私はそれを求めていた。

長い黒髪。ワンピースの似合うお嬢様。馬鹿笑いなどせず口に手をあててくすくす笑う。ハンカチをそっと差し出してくれる。ダッフルコートで海岸を犬と走る…………。はっ!?いけない。

頭カチカチで勝手にイメージを強要していたに過ぎないが、いってみればずっと清純派でいてほしいという願望だった。
しかし、あえて女優と使わせてもらうなら、女優への階段を上るには突き破らなければいけない壁というものがあるのだろう。
まぁ、その発想自体が素人考えなのかもしれないが、役の幅という意味ではそれを壁と表現しても構わないのかもしれない。

結局松さんは壁を突き破りドラマ「お見合い結婚」で新境地を開拓した。
したたかだが無鉄砲で貞操観念も薄いキャビンアテンダント。当たらないパチンコに毒づきタバコを吸う。
もちろん松たか子のファンはそんな松さんも好きなのだ。なのだが。なんかちょっと松…さん…て、なったことは認めます。
そして松たか子の女優、俳優へのステップアップは二乗の勢いで加速していった。

デビューして間もない頃の松たか子。
絵に描いたような清純派女優である。

俳優の壁を突き破るってなんだろう?

キスシーンだってするだろう。
そのキスの種類もレベルがあるわけで。
小鳥キッス?おでこにキッス?頬にキッス?っていうか接吻?口づけ?がっつり唇に?ディープキス!?べ、べ、ベロチュー??………あ、いかん。

で、その延長線には濡れ場なるものもあるわけだ。

そうか、壁っていうのは濡れ場だ。
遠回しに探ってみたけど結局濡れ場なんだ。


ここでシナリオを書いていた(書く)端くれとして思うことがある。

当て書き(俳優さんをあらかじめ決めて書くこと)する時にどこまで遠慮しないか。
当て書きに限らないが俳優さんにどこまで求めていいのか、演技を発注していいのか、それをシナリオで書くとあからさまに文字で見てわかるのだ。
ト書き(台詞以外の指示)で文字にするのは簡単だが、それを俳優さんは体で表現しなければいけないのだから。

〜どんな役でも構わない。それがやってみたいと思えたなら。〜

この俳優さんの心境、想像を絶するのである。

ト書きに「激しく絡み合う」と書けばどうなるだろうか。
これはあくまでも個人的な印象なのだが、近年の濡れ場シーンはそこまで必要か?というくらい営みが描かれすぎてはいないだろうか。
本来濡れ場とはそんなものなのだっただろうか。
過剰過ぎる濡れ場は過激であって激しさではない。
そんなあからさまに交わりを長々とさせるのは演出上必要なのか?
その俳優同士にそれをさせることで集客を目的としているのか?
「激しく絡み合う」こととはそういうことじゃない気がするのだ。

いつの頃からか「AV女優」と呼ばなくなった(呼ばせない風潮になった)
いつからか「セクシー女優」もしくは「セクシー俳優」と呼ばれるようになっていた。

私が飯島愛を認知したのはバラエティ番組である。その後飯島愛が今で言う「セクシー女優」だったことを知った。
30年以上前から際どいながらも飯島愛という成功例があったことは確かなのだ。
だとするとこの「セクシー女優・セクシー男優」と「役者・俳優(女優、男優)」との境目がぼやけてきているということか。

つい先日NHKのドラマで好青年役を演じていた若手俳優がとある映画で局部は見せないまでもそれ以外はほぼ「セクシー俳優」と変わらぬ演技をしていた。(演技というかもう本番?てなくらい)
この前まで子役だった俳優も、酒池肉林の前述した内容と変わらない違う映画に出ていた。
子どもたちのヒーローだった戦隊俳優が全編ほぼそんなシーンの映画に出ていた。などなど。

イメージからの脱却。
ひとつのイメージがついてまわる苦悩。
相対してイメージの維持。
ずっとそのままでいてほしいと願うもの。
東軍と西軍の攻防戦の様相である。

私はありきたりな言葉だが「俳優さんてすごいな」と単純にそれしか見当たらなかった。
何がすごいのかはわからない。わからないけどすごいなと思ったのだ。
その何かがなんなのかを知りたくてよく俳優について考えているのだ。

昔でいうAVと人気絶頂の若手俳優の出ている全国公開の映画との違いがわからなくなった。
どこまでが後ろめたい映像でどこからが芸術なのだろう。

と、話がかなり飛躍しているが、遠からずな派生であるのでご容赦願いたい。


私が妻夫木聡を認識したのはバイト先の映画通のパートさんからおすすめされて貸してもらった「ウォーターボーイズ」である。

はちゃめちゃに面白い80分。
何度も観て笑った。スカッとした。
まだ妻夫木聡が原石だった頃。
と、いってもその時から人気は爆発的にあったのだろうが、今現在の俳優・妻夫木聡のはじまりにすぎない頃だ。
宝くじのCMで最近目にした妻夫木聡は驚くほど青年妻夫木聡のままであった。ざっくりいえば妻夫木聡は昔と変わらず若いなー、である。

いつまで学ランが着られるかという基準が私にはあって、今は神木隆之介がトップを走っている。
妻夫木聡もまだ学ランでも通用するっちゃすると思っている。
とはいえ、妻夫木聡の俳優としてのキャリアを辿っていくと血のにじむ努力と月日の積み重ねを経ていることがわかる。

私は妻夫木聡に吉永小百合を重ねていた。

2003年、映画館で観た「さよなら、クロ」の妻夫木聡にどうか永遠の学ラン俳優でいてほしいと願ったものだ。
昨日年単位で久しぶりに「さよなら、クロ」を観た。観たくなったのだ。映画公開後、DVDボックスを当時はまだ街にいっぱい存在したCD.DVD販売ショップで店頭予約して購入したものをその号泣ものの感動作品ゆえに観られずに棚の肥やしになっていた円盤であった。

案の定半分もいかないところで耐えられなくなり中断した。

やっぱり悲しすぎる。
結末もわかっている分、辛い。
が、久々に「さよなら、クロ」の妻夫木聡をみて気づいたことがあった。

2003年の妻夫木聡はやはり若かった。



その若さとは瑞々しさとも違う初々しさなのだと思う。
こればかりはキャリアがかき消してしまう唯一のものなのだろう。
劇中の妻夫木聡の純朴でぎこちなさも漂う初々しさは20年の年月を突きつけた。
それだけ自分も生きてきたわけであるが、共演の伊藤歩もついこの前話題になっていた(今もなっている)Netflixのドラマ「幽☆遊☆白書」の主人公幽助の母親役をされていたことを思い出し、あぁ、北村匠海の親を演じる年齢なんだなと少し時の流れが怖くなってしまった。
「さよなら、クロ」で高校生を演じていた伊藤歩もまた妻夫木聡と同じだけの年月を経て画面の向こう側にいるのだと。

「さよなら、クロ(2003)」より。
学ランにひとつの違和感なし。
右から3番目が妻夫木聡。
左から3番目が伊藤歩。

妻夫木聡は2000年代破竹の勢いで俳優の実力をつけて階段を駆け上っていった。
それは即ち幅広い役を演じてきたということなのだ。
「ジョゼと虎と魚たち」では池脇千鶴との濃厚なラブシーン、要するに濡れ場を私は映画館でこの目で見た。目撃してしまった。



そこから私の中で妻夫木聡はもう吉永小百合ではなくなったのだった。


「ジョゼと虎と魚たち(2003)」
俳優・妻夫木聡の学ランからの旅立ちであった。


それ以降も吉永小百合に重ねる俳優を心のどこかで求めてきた。
俳優は何をしなければ認めてもらえないのか。
そんな通過儀礼ってあるものなのか。やっぱりしないといけないものなのか。しなくても俳優ではいられないのか。


そんな吉永小百合も1984年の映画「天国の駅−HEAVEN STATION−」で濡れ場を演じた。

タモリはその映画だけは観ていないと言っていた。
タモリの気持ちがなんとなくわかる気がした。

「天国の駅 HEAVEN STATION(1984)」
吉永小百合史上最大の濡れ場に罪悪感すら感じた。


現代は舞台や映画の制作現場でのハラスメントが社会問題となっている。
監督からの執拗なまでの性的ハラスメントの強要。これは指導という名の下に行われる卑劣極まりない愚行である。蛮行である。

その現場を知らない私の想像でしかないが、台本を過大解釈して、或いは改変して、不必要に過激な演技を強要されたら…。

ふと、近年のAVとどう違うのかわからない一般映画の濡れ場シーンに芸術性以外のなにかを感じて読み取ってしまう、深読みしてしまう私がいる。

俳優さん、演じるって素の自分の心をどう扱っているのですか?
人ってあんなに器用に愛し合っているふりを出来てしまえるのですか?
濡れ場はしたくないものですか?

妻夫木聡は吉永小百合ではなかった。
妻夫木聡は植木等だった。


*全文敬称略

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