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【詩小説】赤子の石

「あの子面白かったって言うで」

−−−おもしろかったぁ−−−

「ほらな!お、次あの子な。あの子は難しかったけど楽しかったって言うからな。みとき」

−−−はじめは難しかったけど楽しく出来たぁ−−−

「ほらな!これ当たりやろ!」


こいつは何を一人で盛り上がってるのだ。
テレビのニュース映像を指さしながら缶ビールをせっかく用意してやったグラスにも注がずそのままかっさかさに荒れた唇を缶の飲み口につけてぐい飲みする男をただ呆然とカラスに食い荒らされた収集所のゴミ袋を見るような目で一人の女が眺めている。
コンビニの真空パックされた味の濃いつまみをこたつのテーブルの上に広げてその男は女にドヤ顔で饒舌。女はひとつ大きなため息をついた。

正月の餅つきに参加したこどもたちのインタビュー映像だ。幼稚園児の感想なんてどれも同じようなもんだ。芋掘りだろうが。折り鶴体験だろうが。節分のお面作りだろうが。だいたいが「おもしろかったです」「むずかしかったです」
そんなもんだ。
それをしたり顔でよくもまぁ、恥ずかしげもなく…女はそんな男の幼稚くさいところが嫌いだった。嫌いになっていた。既に今も長袖で隠れてはいるが鳥肌がデコポンのてっぺんなみに隆起していた。

デリカシーのかけらもない男。
こたつの上をソーセージの肉汁の飛沫で点々と汚し鼻をかんだティッシュペーパーは剥いたみかんの皮にねじ込んで白い毛羽立った果肉を形成させていた。
そんなもの作る気力余力があるならゴミ箱に捨てるという発想になぜ繋げられないのだ。
いつまでもガキ…いや、この男はそんな生易しい幼児性ではないのかもしれない。
こどもを指さし女にドヤ顔をみせる三十半ばのフォークリフト乗り。重労働と本人は言い張るが空調の効いた年中温度設定の徹底された倉庫でロボット好きの延長線で取得したリフト免許。
重たいものは全て機械が持ってくれる。
たいして汗もかかないで分厚い生地の作業着は毎日洗濯かごに入れられる。それを裏返してポケットの飴の包装を取り除き洗濯するのはいつも女だった。
マスクはウレタンの黒。
鼻は常に出ている。家ではお構いなしにノーマスクでくしゃみ。憎たらしいほど声を上げて。そしてこの男、流行り病に罹患し正月を過ごしていた。
味もわからないからと塩のかたまりのようなつまみばかり食っている。
一晩だけ38度ほどの発熱があったものの市販の解熱剤でケロッと平熱に。それからはたいした症状もなく、持て余している体力と時間を潰すことにむしろ疲れているようだった。これを軽症というのだろう。だがまだ隔離期間は5日間ほど残っている。

ピピッピピッピピッ…
体温計が鳴る。
水銀のアナログの体温計だった時代は3分ほど脇をしめたまま背筋やこめかみの違和感を黙々と確かめていた。あの時間は長かった。だが今は10秒もあれば計測できる。その数字がたまに信用できない気持ちにさせることもあるが、女は自分の左脇から体温計を取り出した。
38.4度。
頭痛外来で定期的に通院していた女の薬箱には前々から処方されストックされていたカロナールがあった。
女は時計を見て少し頷き薬箱からカロナールを1錠出して麦茶で流し込んだ。空腹での服用は避けたかったが今は何も口に含みたくなかった。体は正直である。テレビに映る正月特番の豪華料理のローストビーフを視覚にとらえただけでうっと吐き気がする。
伝染された…
この目の前で尻を片方浮かせて放屁している上下毛玉でいっぱいのグレーのスウェットを着た男に。
「あたし、感染ったみたい。いや、感染された」
「まじで?油断したんじゃね?新年早々俺たち運ねぇよなー」
「いや、あんたに言われたくないし。俺たちでくくらないで…あんたは自業自得だけど。あぁ、もういいや。あたし、寝る」
「晩飯は?」
「は?」
「俺の晩飯だよ。何食えばいいわけ?」
「……」
女は聞こえないほどの声でシネと言った。
男はテレビのお笑い番組を観ながら手を叩いて爆笑して時折ドブ水が揺れるようなたんの絡んだけたたましい咳をする。
リビングから一番離れた寝室でガタガタと寒さで歯をならした女が布団の中で丸まったりあらゆる体勢で落ち着きなくもぞもぞしていた。時折意識が遠のいていくようで、その度に手で振り払う仕草をした。それは上がり続ける高熱と男への怒りで気が高ぶっていたことも重なっていた。パーカーのフードを被ってさっさと寝落ちしてしまいたいと瞼をずっと閉じてはいたが眠れないで何時間もうなされていた。

腐れ縁というが、腐り切っていたら縁は千切れてしまっている。
もう、この男と女はそれであった。
同棲してから十年は過ぎていた。
結婚をその間考えなかったことはない。こどもが出来ればその勢いで…ともなっていたかもしれないが、この男はなぜかそういうところだけは異様に気がまわるようで妊娠の二文字には慎重であった。はじめのころはそれを誠実だと女は思っていた。しっかりしている。けじめをつけているのだと。むしろ好感を持っていた。だが今はただ単に面倒なことを避けていたのではないかとしか思えなくなっていた。この男はこどもが嫌いだ。間違いなくこどものことが嫌いなのだ。友達の家に遊びに二人ででかけたときもその家のこどもに何の愛想もみせなかった。むしろ立ったまま顔も動かさず見下していた。近づいてくると足を引いて距離をとっていた。動く玩具をみおろすように。そんな目をしていた。これも今振り返ると…なのだが。その時は多少の疑いなどくしゃみのように忘れてしまう。

女は夢か現か曖昧な世界にいた。真っ白な光の世界。レースのカーテンが風に揺れていた。
女は赤ん坊の泣き声でふと我に返った。
女は絹に包まれた赤ん坊を抱いていた。
「わたしの赤ちゃん」
そこで男に生まれたての我が子を差し出していた。抱っこしてみてと。すると男は両手をポケットにつっこんで背を向けて去っていった。
「わたしたちの赤ちゃん…」
女は熱い赤子を抱きしめて泣いた。


スマホが鳴っていた。
もう部屋は真っ暗であった。
少しは眠れていたようだ。
女は汗だくになっていた。涙も混ざり頬は乱れた髪が蛇のようにうねってくっついていた。
慌てて枕元のスマホを手にとって電話に出た。
「てっちゃん家に泊まるわ」
男からだった。
喉が痛くて声もかすれるがなんとか言葉にする。
「は?あんた、まだ隔離期間じゃない。え?今どこ?家よね?」
「コンビニ」
「コンビニ?」
「だってお前何にも作ってなかったしさ。コンビニで買い出ししてたんじゃん。そしたらてっちゃんとばったり会ってさ。これから飲もうって」
「ば、バカ。てっちゃん、あんたが今どんな状態か知らないんでしょ?言った?陽性だって」
「マスクしてっから大丈夫。それに俺はもう治ったから。あとてっちゃんこの前かかったから大丈夫だって」
「あ、あ…、」
女はもう話したくなかった。
血の気が引いてくように、スマホがやたらと重たかった。

抗原検査キットもなく陽性判定も出来ない。
陽性以外考えられないがこの目で認めたかった。得体の知れないウィルスが女の体の中で暴れ回っていることを覚悟したかった。
このウィルスは女の体で一体何がしたいのか。
上半身は汗が止まらないほど暑い。なのに腰から下は寒くて仕方ない。腰が抜けそうに痛い。だるま落としにでもなったようだ。足の指先から冷気が放出されているように。咳は出ないが時折痰の用水路に溺れそうになる。ひとつ去ってはまたひとつ新たな症状があらわれる。
後遺症のこともただ頭の中でぐるぐる駆け巡る。まだウィルスと戦っている最中だが全く未知のウィルスへの恐怖と不安で思考がネガティブになつている。
嫌な夢だった。
女の抱いた体温の熱い赤ん坊を抱こうともしないで去っていったあいつ。
今天井を見上げながらこのアパートで一人ぼっちだと言い聞かせる。
あいつはなんて勝手なやつだろう。きっと季節型のインフルエンザや夏風邪なんかではこう思わなかったかもしれない。
約束も守らない。女に感染させた罪悪感を微塵も感じていない。感染はあの男からだけでも経路不明の火種に今現在もなっている。もう止められなかった自分が情けなくて仕方なかった。毎日ニュースで発表されてきた新規感染者数が不思議でしかたなかった。日本の人口を改めて調べ直したくらいだった。
よくも毎日こんなにも感染するものだと。ひとごとだった女は体内に確かに存在するそのウィルスと一体になったことでやっと理解できた気がしていた。

5日間40度近い高熱が続いた。
女は死ぬのかなと考えた。
平熱が35度の女にはこの高熱は細胞を破壊されてる気がしてならなかった。
急変という言葉も何度もちらついた。
突然…なんてこともないとは言い切れない。
誰にも気づかれずくたびれたパジャマのまま髪もぼさぼさで息絶えてしまうかもしれない恐怖。
もし無事に回復しても何か失っているのではないか。断言できる人間が今この世にいるだろうか。偉い学者だってわからないだろう。これを普通の風邪とかわらないと言い放っていた専門家の顔が浮かんだ。これが普通の風邪なわけがない。口の中が痰なのか血なまぐさいのか、くっと奥歯を噛み締めたら甘ったるさに棘が刺さった。

男はてっちゃんという友だちの家に泊まってその日から何度も外泊するようになった。
女の熱が下がるまでは少なくとも戻ってこないだろう。男にとってもう女は母親になっていたのだろう。飯炊き女。高熱にうなされながらもふっと笑っては咳き込んでいた。
女に食料や飲み物を買ってくるわけでもなく熱が下がって元気になったら連絡してくれとメールを残したのが二人の最後のやりとりだった。

微熱でも体はすこぶる楽に感じていた。
女は男に一切の連絡をしなかった。
うなされ続けた5日間で女は夢の赤ん坊の熱を下げてやらねばと考えるようになっていた。
あの男とこのまま一緒にいたらあの赤ん坊はずっと高熱に泣きわめいたままである。
熱せられた石にひしゃくで水をかけてもすぐに蒸発してしまう。整っている場合じゃなかった。
はやくしないと腕の中で溶けてしまうかもしれない。
あれは女の最後のこどもなのかもしれない。
最初で最後の赤ん坊なのかもしれない。
まだ現実でこの腕に抱きしめることのできる命なのかもしれない。女にはそう思えた。

女は11日ぶりに風呂へはいった。
髪を何度も洗った。シャンプーが空になるまで押した。使い切ってしまいたかった。
浴槽のお湯を流して体を拭いて髪をドライヤーで乾かした。

女はこたつの上の散乱したゴミを見下した。
正午ぴったりにブレーカーを落とした。
女はアパートの鍵をしめて郵便受けに入れた。
そしてキャリーケースを転がして駅へとつづく道を歩きはじめた。


(おわり)



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