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【コラム】スカウターにIQ

この世の中に絶対はない。
絶対と呼ばれるいくつかのものでも99.9…%が限界である。
が、ひとつだけ100%絶対と呼べるものがある。
「死」である。
生きとし生けるものは必ず死ぬ。絶対に死からは逃れられない。
もし、ここで肉体の死はあっても魂は生きつづけ滅びない。だから絶対は存在しないという論理を持ち出してこられないとも限らないが、証明できないこの説はここでの「絶対」に該当しないので今回はないものとする。

この世の中には「死」以外すべては諸説ありきで回っている。
絶対の正解などない。正解を真実と変換しても絶対の真実さえもないということである。
すべては水掛け論。落ち着く先は多数派。数で正解を強引に仮定という決定にさせているにすぎない。

私には今とても知りたいことがある。
「IQ」についてだ。
Intelligence Quotient
知能指数と呼ばれるものである。
知能指数とはなんぞや。これも今述べたように諸説あることになる。異論はあるだろうが「理解能力」「判断力」「想像力」「空間認知力」等の能力すべてを総合的に判断して知能や発達の水準を表すものを「IQ」と呼ぶこととされている。

学力とは違うのか。違うともいえるし違わないともいえる。それは「IQ」が高ければ学力も高くなることが多いからだ。多いとはすべてではないということでもある。「IQ」が高くても学力が低いこともある。が、これも数の力でいうならば「IQ」が高ければ学力も高いと呼べることが多い。

「IQ」は鍛えられるのか。上げられるのかを調べてみても諸説ある。上がらないというもの。こどもの頃までなら上げられるというもの。大人になっても上げられるというものまで。
この研究はこれからもつづいていくが持って生まれた能力であると私は思っている。

意識せずとも教育を受ければ「IQ」の高いものは「IQ」の低いものより優秀な成績を残す。そしてその差は広がってゆく。

はて、私は「IQテスト」なるものをしたことがあったろうか?
幼稚園を卒園する時、なんとなくの記憶だが学力検査みたいなものをさせられた気がする。
横一列に数人座らされ一斉に筆記のプリントをさせられたことをうっすら覚えている。あれが「IQテスト」だったのかは確かではない。
ただその室内の雰囲気が異様な緊張感に包まれており、何か下手をやらかしたらどこかへ連れ去られてしまうのではないかと怯えていたように記憶している。

私たちは動物や果物のイラストが書かれているプリントを一斉にめくり仲間外れはどれでしょう?と尋ねられたと思う。
知能を計られていたのか。それが小学校への進学には何も関係なかったのはいわゆる私立へのお受験などなかったからである。
卒園後は皆居住地から近い公立の小学校へ進学していった。
そしてもしあれが「IQテスト」だったとしてもその結果を私は知らされていない。
私の「IQ」の数値はいくつなのかいまだに知らない。
偏差値なら勉強すれば上げることはできるし偏差値なら私も私の数値を知っている。

私は「IQ」は地頭の能力だと思っている。
あぁ、あの人は賢いなとか会話していて頭の良い人だなとか感じるものが「IQ」だと思っている。
記憶力やコミュニケーション能力も「IQ」が関係しているとのことなので、自覚するに私は「IQ」は低い。はずだ。と、思う。

テレビを観ていて特に知りたいと思ったのは俳優の堺雅人さんと上川隆也さん、作家の松本清張さんの「IQ」の数値だ。
台詞を記憶する能力と表現する能力、趣味のアニメから歴史まで何から何まで博識な宇宙規模の知恵。頭の回転のはやさがトークからにじみ出る。堺雅人さんも上川隆也さんも地頭の良さがびんびん伝わってくる。
松本清張さんなんかはドラマ化された作品を観てもそのトリックや完璧に組み立てられた物語に理解が追いつかない。それを0から考え書き上げたというのは想像を絶する神業である。

天才だなと思う人は大勢いる。
言い換えればその人たちは皆「IQ」が高いに違いない。

「IQ」を前に出されるとお手上げである。
「IQ」の高い人にしか見えていない景色があるのだろう。その景色を私には見ることは出来ない。
その話に耳を傾けその欠片でも覗ければ御の字であり、同時にどうしようもない無力感と欠力に脱力する。

天は二物も三物も与えるし、ひとつも与えないこともある。

人は皆平等ではなく、公平でもない。
それを大さじ計量カップの砂糖をすり切るように皆同じにしようとする考えがおこがましいと気づかなければいけない。

見上げる者、見下ろす者、だが決して見下してはいけない。
挙動不審に辺りを見渡し迷いながら生きていこう。
恥じることなどないさ。
どうせいつかはみんな絶対死ぬのだから。







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