コンテンツ制作における分業について
最近、動画制作に対してあまりモチベーションが高くないのですが、そのモヤモヤの原因になかなか理解できずにいました。
しかし以前古本屋で購入した、フランスの哲学者が記した本を読み返したところ、このような記述がありました。
今まで「分業」という概念について深く考えたことがなかったですが、考えていくと、とても納得感があることに気づきました。
動画制作における分業
動画制作(特に広告案件)は、予算の規模感や専門性の高さが故に分業化されるのが一般的です。クライアントや代理店のみなさまのおかげで、私は動画ディレクターとして長らく飯が食えております。
分業にはもちろんメリットもありますが、クライアントとの距離が遠くなり、さまざまな条件が不利になればなるほど、不平不満が溜まることが多くなる。当事者の方であれば、容易に想像できるかと思います。
分業がもたらした近代社会の発展や問題を論じた『社会分業論』という、かなり分厚い本を読みまして、印象的な部分を引用します。
個人が相互に依存し合い、社会や集団に大きな利益をもたらすことが、分業の基本的な姿だといえます。ところが…
効率化が進むと機械による大量生産が可能になり、労働力も安価なものに置き換わる。それによって支配者に資本が集まり、資本の再分配を目論み激しい競争が起きる。動画をはじめ、コンテンツ界隈もそうです。
分業がコンテンツを増やした?
最近では「映画を早送りで観る」「冗長なシーンは飛ばす」など、視聴者が制作者の意図通りに観ない現象が起きています。
様々な理由がありますが、プレイヤー同士の競争によって、需要を無視した供給量の爆発的な増加の影響も、一因ではないかと思ってます。
テレビ番組や映画は参入障壁が高く、物理的に流せる枠にも限りがありますが、インターネットは参入障壁がゆるく、制限も無きに等しいので、まさに無法地帯です。
特にコンプレックス広告は、商材のメーカーやメディアは関与せず、あくまで代理店や個人のクリエイターが勝手に作ったという言い分がまかり通っています。これも分業によって、責任の所在やモラルが曖昧になった結果でしはないでしょうか。
さらに、クライアントのネットリテラシーの低さにつけ込み、代理店に売れない広告や使いこなせないソリューションを受注されてしまう。そんなケースも聞きます。
連帯感が失われると…
私は新卒から3年間テレビ番組の制作会社でADとして働いていました。ゴールデン帯の情報番組を担当していましたが、企画から取材・撮影・編集・テレビ局への納品まで全て自社で行っていました。
全ての工程に関わり、使命感と責任感に溢れる、職人的な仕事に触れられたことが、その後の自分のスキルに活きているなと、改めて思い出しました。
その後担当した某番組では、テレビ局の社員+制作会社が10数社関わっており、放送回やコーナーごとに担当が異なっていたのですが、演出のちぐはぐさや、会社ごとの縄張り意識が少なからずありました。
坂上忍さんも『バイキング』を振り返る中で語っています。
古い話ですが、フジテレビ自体もかつて1970年代に経費削減を目的に、社内の制作部門を分社化した結果、スタッフの士気が低下し視聴率が低迷しました。その後経営者が変わったことで元に戻し、やがてヒットコンテンツが次々に生まれるようになった歴史があります。
こちらのnoteでも触れられていますが、強みだと思っていたことが、時代や環境の変化で、実は「弱み」に変わっている可能性もあります。
職人ばかりの組織では、営業力や発信力に欠け、また技術が陳腐化すると競争力や収益性も失われます。逆に営業やマーケティングが強い組織では、目標値を達成することに重きが置かれ、それ以外の部分はドライに扱われる。
いまさら不可逆だと思いますが、最後にこの言葉を引用して締めます。
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