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コンテンツ制作における分業について

最近、動画制作に対してあまりモチベーションが高くないのですが、そのモヤモヤの原因になかなか理解できずにいました。

しかし以前古本屋で購入した、フランスの哲学者が記した本を読み返したところ、このような記述がありました。

マルクスとエンゲルスによれば、生産の進歩が分業を生じさせ、交易・軍の指令・行政府が独自の機能を得るにいたったとき、はじめて抑圧は確立する。(中略)なにゆえ労働分業が必然的に抑圧へと転化するのか。

S・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

命令を与える人間と命令を受ける人間に社会が分離されて以降、社会的生はあまねく権力闘争に支配されてしまった。

S・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

今まで「分業」という概念について深く考えたことがなかったですが、考えていくと、とても納得感があることに気づきました。

動画制作における分業

動画制作(特に広告案件)は、予算の規模感や専門性の高さが故に分業化されるのが一般的です。クライアントや代理店のみなさまのおかげで、私は動画ディレクターとして長らく飯が食えております。

分業にはもちろんメリットもありますが、クライアントとの距離が遠くなり、さまざまな条件が不利になればなるほど、不平不満が溜まることが多くなる。当事者の方であれば、容易に想像できるかと思います。

分業のメリット
・専門性が磨ける
・様々なクライアントと仕事ができる
・属人化を防げる
・業務コストが削減できる   etc

分業のデメリット
・手段が目的化する
・クライアントとのコミュニケーションコストがかかる
・価格競争を強いられる
・制作物の効果がわかりづらい 
・専門分野以外の知見が薄くなる
・業務がワンパターン化する etc

分業がもたらした近代社会の発展や問題を論じた『社会分業論』という、かなり分厚い本を読みまして、印象的な部分を引用します。

分業の想定するものは、労働者がその仕事にへばりついていることではない。その協力者を見失わず、彼らに働きかけ、彼らからの作用を受ける、ということである。したがってまた、労働者はその方向も知らない運動を反復する機械ではない。多少ともはっきり理解している目的に向かって、どこをたどってるのかを知っている。彼はまた、自分が何かの役に立つことを感づいているのである。

E・デュルケーム『社会分業論』

個人が相互に依存し合い、社会や集団に大きな利益をもたらすことが、分業の基本的な姿だといえます。ところが…

分業の原理がその適用をいよいよ完璧にしてゆくにつれて、技術は進歩をとげるが、職人は退化する。

E・デュルケーム『社会分業論』

効率化が進むと機械による大量生産が可能になり、労働力も安価なものに置き換わる。それによって支配者に資本が集まり、資本の再分配を目論み激しい競争が起きる。動画をはじめ、コンテンツ界隈もそうです。

分業がコンテンツを増やした?

最近では「映画を早送りで観る」「冗長なシーンは飛ばす」など、視聴者が制作者の意図通りに観ない現象が起きています。

様々な理由がありますが、プレイヤー同士の競争によって、需要を無視した供給量の爆発的な増加の影響も、一因ではないかと思ってます。

市場はいわば無限であるから、生産者はその限界を想像することができないのである。結果として、生産には抑制も規制も欠落する。(中略)生産量があちこちで過剰になることは避けられない。

E・デュルケーム『社会分業論』

テレビ番組や映画は参入障壁が高く、物理的に流せる枠にも限りがありますが、インターネットは参入障壁がゆるく、制限も無きに等しいので、まさに無法地帯です。

特にコンプレックス広告は、商材のメーカーやメディアは関与せず、あくまで代理店や個人のクリエイターが勝手に作ったという言い分がまかり通っています。これも分業によって、責任の所在やモラルが曖昧になった結果でしはないでしょうか。

さらに、クライアントのネットリテラシーの低さにつけ込み、代理店に売れない広告や使いこなせないソリューションを受注されてしまう。そんなケースも聞きます。

連帯感が失われると…

私は新卒から3年間テレビ番組の制作会社でADとして働いていました。ゴールデン帯の情報番組を担当していましたが、企画から取材・撮影・編集・テレビ局への納品まで全て自社で行っていました。

全ての工程に関わり、使命感と責任感に溢れる、職人的な仕事に触れられたことが、その後の自分のスキルに活きているなと、改めて思い出しました。

その後担当した某番組では、テレビ局の社員+制作会社が10数社関わっており、放送回やコーナーごとに担当が異なっていたのですが、演出のちぐはぐさや、会社ごとの縄張り意識が少なからずありました。

坂上忍さんも『バイキング』を振り返る中で語っています。

「バイキングは1つの番組に見えるけど、曜日ごとに制作会社が違っていて横の繋がりがない」「月曜日に話した反省が火曜日に反映されない」

街録ch(5:47〜)

古い話ですが、フジテレビ自体もかつて1970年代に経費削減を目的に、社内の制作部門を分社化した結果、スタッフの士気が低下し視聴率が低迷しました。その後経営者が変わったことで元に戻し、やがてヒットコンテンツが次々に生まれるようになった歴史があります。

こちらのnoteでも触れられていますが、強みだと思っていたことが、時代や環境の変化で、実は「弱み」に変わっている可能性もあります。

職人ばかりの組織では、営業力や発信力に欠け、また技術が陳腐化すると競争力や収益性も失われます。逆に営業やマーケティングが強い組織では、目標値を達成することに重きが置かれ、それ以外の部分はドライに扱われる。

いまさら不可逆だと思いますが、最後にこの言葉を引用して締めます。

唯一の救いの可能性は、社会的生の漸次的な脱集中化を目指して、強きも弱きも力を合わせて方法的に協働することだが、それがいかに不条理な考えであるかは一目瞭然である。(中略)この協働なくしては、中央集権化へと向かう偶然任せの社会的な機械仕掛けを押しとどめることはできまい。

S・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』

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