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日台交流の未来とKANOの奇跡。

1972年に日本が中国と国交を樹立して以降、日本の台湾との事実上の外交窓口を担ってきた日本台湾交流協会。その設立50周年を迎える今年、日台関係の次の50年を見据えた日台関係シンポジウムが台北で開催され、私も登壇者の1人としてご招待頂きました。

臨時国会明けの早朝の飛行機に乗り込み台北へ。小雨が降っていましたが、会場である圓山ホテルの特徴的な大きな赤い建物は遠くからでもすぐわかります。

会場となった圓山大飯店は台湾のランドマークの一つ。

午後のスタートは、小野寺五典代議士、鈴木馨祐代議士さんらが登壇する「地域情勢」のパネルから。緊迫する東アジアの安全保障環境の中で、日台が如何に連携して地域の平和と安全を守っていくか、詳細は書けませんが、中身の濃い踏み込んだ議論が展開。小野寺代議士は、翌日、党内での防衛三文書の取りまとめのためなんと日帰り。肉体的にも精神的にもタフじゃないとこの仕事は務まりません。続く「経済貿易」パネルでは、三宅伸吾参議院議員ら日台の有識者が、台湾の誇る半導体産業の将来や経済的結びつきの深化に向けた方策について意見交換しました。

そしてシンポジウムのラストが私の登壇する「社会文化」パネル。冒頭で会場の皆さんに「近藤兵太郎さんという方をご存知ですか?」と尋ねると手を挙げる人はパラパラ。でも「近藤さんが主人公のKANOという映画をご覧になった方は?」と尋ねると、おお!というどよめきと共に大勢の手が上がりました。

会場には日台の政治家、官僚、経済人、学者など大勢の方々にご参加頂きました。

近藤兵太郎氏は、かつて松山商業高校の野球部の監督を務めた方。台湾にわたり、1931年に台湾の嘉義農林高校を、甲子園準優勝に導いた監督です。日本統治下で台湾の暮らしが特に貧しかった時代。グラウンドもボロボロ、劣悪な栄養状況、グラブやボールを買うお金も満足にない環境でした。そんな中、漢人、日本人、台湾の先住民の混成チームが、劣悪な条件や差別と戦いながら次々と強敵を打ち破っていく快進撃は、日台両国の多くの国民にプレーを通じて感動を与えました。

KANOの奇跡から90年以上経つ今日、緊張感を増す地域の平和と安全を守っていく上で、こうした民間レベルの社会文化交流の重要性が一層増していると感じます。平和を守るコストは、ガソリンやパンの値上がりといった形で、私たちの暮らしに直接降り掛かってきます。それでも大切な価値観を守るために我慢できるか。連帯できるか。紛争を回避していくための抑止力を考えていく上では、軍事や経済だけでなく、こうした私たち市民一人ひとりの連帯と当事者意識も大切な要素なのだと改めて気付かされます。

左から順に張錫聰さん(交通部観光局長)、蔡清華さん(教育部政務部長)、川島真さん(東大教授)。

幸いなことに、日台間では現在75%以上の市民が相手に対して「親しみを感じる」「どちらかと言えば親しみを感じる」と回答。長年の努力によりとても良好な関係が築かれてきました。私の地元愛媛でも、先月行われた「サイクリングしまなみ」に、台日関係協会の蘇会長をはじめ、最も多い外国人サイクリストが台湾から参加してくださり、スポーツを通じた感動を持ち帰って頂きました。また、日本の修学旅行の海外訪問先の一位は台湾となっており、2019年に松山の城南高校が訪台した際には蔡英文総統がサプライズで挨拶に来てくださりました。とはいえ台湾を訪問したことのある日本人は26.5%にとどまり、まだやれることはたくさんあります。引き続き日台双方の協力により、LikeをLoveに変えていくことが、これからの50年の新たな日台関係を築いていく上で大事なのではないか。そんなお話をさせて頂きました。

クロージングでは、自民党三役として19年ぶりに訪台した萩生田政調会長が登壇。「今回の取り組みを来年以降も続けていきましょう。大学生など若い世代にも参加してもらいましょう。」と力強く呼びかけ、大きな拍手の中で閉幕しました。

萩生田政調会長の訪台は翌日の地元紙朝刊でも大きく取り上げられました。

90年前の甲子園球場。「台湾人に野球なんてできるのか」という意地悪なマスコミからの質問に、「彼らは民族を問わず同じ球児だ」と切り返した近藤監督の言葉。時代は違えど、その覚悟と思いを改めて胸に刻み、地域の平和と安定に向け取り組んで参ります。

松山市・坊っちゃんスタジアムに立つ近藤兵太郎監督の記念碑。
映画「KANO〜1931 海の向こうの甲子園」もおススメです。


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