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アコースティックとエレクトリック

「羊と鋼の森」を読んだ。面白かった。小説を読んだのはどのくらいぶりだろうか。近所にある市立図書館のベストセラーコーナーにあったのだ。タイトルと装丁を見て数年前に本屋大賞をとった小説だということをぼんやり思い出した。数ページ走り読みしてビッときた。ピアノの調律師の話だった。ピアノがやって来て以来2ヶ月余、没頭という言葉がぴったりなほど毎日飽きもせず弾き込んでいる。この熱心さが音大生時代にあったなら違う人生を歩んでいただろう、と思えるほどだ。調律師がピアノの音を作るのは知っていた。それはピアニストの求めに応じてコンサートの前に行われる特別な調律に限られると思っていた。しかし家のピアノを定期的に調律に来てくれている彼らにも「最高の音を作り出す」という目標があることは正直余り意識していなかった。

ヤマハP515は最高の音が「いつでも、誰でも、どこででも」簡単に出せる。初めてグランドピアノを弾いた時のことを思い出す。小学生の時だ。家のヤマハU1Eアップライトピアノと全く別物。慣れぬ子供の手では音を出すことだってままならない。重いのだ、鍵盤が。ピアノはハンマーと呼ばれる、羊毛が巻かれたバチのようなもので弦を叩いて音を出すのだが、アップライトは手前から奥にハンマーが動くのに比べ、グランドピアノは下から上に動く。つまり重力に逆らって動かさなければならない。このことで鍵盤の弾き方一つで音色が変わるのだ。難しい。特にピアノが大きくなると大変だ。コンサートグランドと呼ばれる一番大きなピアノは弦がおそろしく長い。上手に弾かないと鳴らない。その最高峰のコンサートグランド・ヤマハCFXを名手が弾いた音がサンプリングされている。最高の音が思うように鳴る。いつまでも聞いていたくなる音につられ、つい没頭することになる。

ここで電子ピアノのメリットをいくつか。まず音量が調整できる。ヘッドホンを使えば無音にさえなる。ピアノはとにかく音の大きな楽器だ。いままではあまり気づかなかったが、実家に行って久々にアップライトを弾いて音の大きさに驚いた。電子ピアノならマンション暮らしだって夜中まで練習ができる。2つ目は録音が手軽にできること。練習していて間違ったりするのは自分でもすぐにわかるが、音の粒がそろっているか、おかしなところにアクセントがついていないか、などはなかなか演奏しているとわかりにくいものだ。電子ピアノなら録音ボタンを押すだけだ。しかも外部の雑音は一切入らないし、マイクの位置を調整する必要すらない。3つ目は多彩な音色で演奏できること。「楽器の王様」ピアノは確かにどんな曲でも演奏できる。しかしオーケストラなどで慣れ親しんだ曲がピアノの音では少し興ざめる。電子ピアノであればイングリッシュホルンでメロディーを奏でながら、ストリングスの伴奏をつけてドボルザーク新世界よりを「それっぽく」弾ける。楽しい。またクラシック以外の曲を弾く際にはエレキピアノや同じグランドでも少し違う音色を使えるのがいい。その気になる。そして「羊と鋼の森」で書き出しておいてなんだが、調律がいらないということ。調律師の皆さんには申し訳ないが、これは趣味で弾くものにはありがたい。ランニングコストがセーブできるのもあるが、なにしろチューニングが狂うことが一切無いのだ。アコースティックは調律してもらってしばらくはいいが、少しするとやはりずれてくる。気になったとしても数か月は我慢だ。都度調律を頼んでいたらあっという間に破産だ。

一方デメリットは何だろう。プロではない奏者が自宅で練習や自分の楽しみに弾くのであれば、おそらくデメリットは無い。タッチが違うから本物の(という言い方が既にアコースティックより下に見られている証拠だが)ピアノを弾いた時に上手くいかない。そうだろうか。筆者にはP515のタッチは小学生の時に歯が立たなかった昔のヤマハグランドピアノに似ているように感じる。何しろピアノに向かうのを避けてきた元音大生が2時間でも3時間でも没頭して弾いているのだ。

これではアコースティックに分が無いように思えるので、アコースティックピアノが優れていることを書く。まずは存在感だ。美しく塗装された上質の木はやはり美しい。プラスチック外装の電子ピアノには真似できない。続いて音だ。さっきさんざん電子ピアノをほめておきながらだが、やはり実際に弦を叩いて出す音は、人間の可聴域の音を出しているだけではなく、聴こえないが空気を振動させている感触が確かにある。あとはぬくもりだろうか。人間の手によってたくさんの工程を経て作られる、定期的に調律師にメンテされる。そういった「いい音楽を作ってほしい」と思っている職人さんたちの想いがアコースティックピアノには込められていると思うのだ。

ここまで書いて類似性に気づいた。それはレコードとCDの関係とだ。1980年代前半。たしか高校生だった筆者は晴海展示場で開かれたオーディオ展でCDの再生するオーケストラを視聴した。これだ。と思った。まったくノイズの無い録音というのは聞いたことが無く、衝撃的だったのだ。当時のLPレコードでは無音状態の時でも「サーッ」というホワイトノイズが必ず鳴っていて曲間やピアニシモの部分でとても気になっていた。クラシック音楽ばかり聴いていたので特に強く感じたのだろう。また、レコードをかける際にはちょっと厄介な儀式があった。まずはターンテーブルの速度を微調整し、正しい音程が出るようにする。続いてレコード盤の表面に静電気防止スプレーを噴霧。専用の道具で埃を取り去る。そして慎重にレコード針をレコード盤の数ミリのスペースに下ろすのだ。まかり間違ってレコード盤を落としたり、レコード針の扱いを間違えれば、永久に修正不可能な傷が付く。見た目が悪くなるだけではない、傷の部分は雑音となるのだ。

CDが発売されて数年が過ぎ、世の中からLPレコードが消え始めるとCDを批判する声が出てきた。「CDの音は機械的だ、デジタルの波形なので本当の音を再現しているわけではない、温かみが無い。」そんなところだろうか。もちろん善し悪しは個人的なものなのでどちらが正しいというわけではないだろうが、筆者にはノイズの無さ、手軽さ、コンパクトさの方が個人的に楽しむオーディオにはメリットに感じられたのだ。それと同じ感覚が現在の電子ピアノにはある。コンサートホールで完璧に調律されたグランドピアノを弾く機会はあるはずもない、趣味で弾く身には電子ピアノは最良の選択と思っている。とは言え、たまに実家で弾くヤマハU1Eはテンションを上げてくれる。実際、甲乙つけがたい。

季節の移り変わりは早いもので、教えているワインスクールの新学期募集が8/30より始まる。来期は音楽とワインの1 dayコースもある。モーツァルトにまつわるエピソードを世界的古典音楽の権威が語り、筆者がそれに合わせたワインを選び、楽しみながらモーツァルトを聴くという優雅な内容だ。すでに案内はこちらのスクールのWEBにされているのでご覧いただけると嬉しい。

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