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男性教師が育休をとる際の罪悪感と「人生のウソ」

育休をとる際に、
①職場への迷惑
②子どもたちに申し訳ない
といった点で苦悩するのが一般的かと思います。やはり私も考えました。
本日は①の部分だけ。
職場への迷惑については多少起こりうるとは思いますが、私の職場での役割は代替可能だと考えています。


もちろん職責は一生懸命全うしてきましたし、自分のした仕事に誇りも持っています。

ただ、明日私が死んだとしても、
世の中はなんの影響もなく動き続けます。
社会的に、また学校的にも自分はやはり代替可能だということはまぎれもない事実です。

これは2名の同僚を亡くしたことからも、自分にすんなりと当てはめることができました。

お二人が亡くなったことはとても痛ましいことではありましたが、翌日からも世の中や学校はすすんでいきます。

「学校の中での私」は代替可能であり、これはどの教師にも当てはまる事実です。
でもこれを認めたくないために、「育休をとると職場に迷惑がかかる」という理由を原因として持ち出したかったのだと思います。

これをアドラー心理学では「人生の嘘」といいます。
ではその嘘の裏にあるのは何か。
それは「嫌われるのを避けたい」という目的です。
保護者に嫌われるのが怖い、子どもにどのように思われるのかが怖い、同僚に白い目で見られるかもしれない。
こういったことが怖いのです。これらを回避するために、「職場に迷惑がかかる」という理由を持ち出したくなるのです。

しかし前述のとおり実はそこまで職場に迷惑はかかりませんし、万一学年や学校に多少の負担が起ころうとも、それを解消できないのは実は育休をとった教師の課題ではありません。これも事実です。

私は、
人生の選択の際
人生の嘘を持ち出すことなく
自分の人生にしっかりと向き合う自分でありたいと思っています。
そういう人になりたいです。
また、生徒たちにもそうあってほしいと思います。
そのためには他者の人生を生きるのではなく、自分自身の人生を生きる必要があります。
そこで必要なのが
「嫌われる勇気」です。
これはあえて人に嫌われろと説いているわけではありません。
社会に過度に適応したライフスタイルを持つのではなく、嫌われることを恐れずに自分の人生を生きるための「勇気」を持つべきであるということです。

人生の判断に迷ったとき、私はこの「人生の嘘」と「嫌われる勇気」について考えます。

敢えて考えなければならないところからみると、アドラーの提唱した生き方をまだ自分のものにできていないことがわかります。
私はまだまだ嫌われることが怖いですし、人生の随所で人から嫌われることを恐れている自分を実感します。

そういうとき、岸見一郎著の【嫌われる勇気】のなかに出てくる内容が思い出されるのです。
曰く、アドラーの生き方を体得するにはそれまでの人生の半分の時間が必要である、と。

私がライフスタイルを変えようと決意したのが5年前でした。少なくともあと8年はリハビリが必要なようです。

これにはとても納得します。
まだまだ私は人生の嘘を持ち出したくなりますし、嫌われる勇気は相当に自分に言い聞かせないと発動してくれません。
けれどもまだまだリハビリを続ける予定です。
私は、難しいけれども自分の中で善であると思えるこの生き方に自分を染めたいし、それか広まれば世の中も教育も変わると思っているからです。
学校再開で忙しいなか、長い文章を読んでいただいてありがとうございました:スマイル:

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