ドライブ・マイ・カー

2022/1/23

見ていたほうがいいかな‥と見たドライブ・マイ・カー。しんどい映画ではあった。これだけ手触り感の少ない映画も珍しいのではないか、とも思った。それはある種、見かけではそう見えないSFなのかもしれない、と、村上作品を思い出しながらそう思う。

鏡合わせの大人たちのLabyrinth、喪失の痛み。

けれど我慢強い現代人というのはもう次のステップに開かれていかないと、というメッセージもその裏地から強く発されていると受け取った。あるいはそれは自分の希望的補足的解釈かもしれないけれど。

演ずること、作品化すること、そのすべてが自己言及的にも俎上に上げられている、しんどさに向き合う作品だ。

ワタシの苦手な'演劇'の要素がギュッと詰まっていた。この閉塞感を支えるメカニズムが明かされる最後の展開、だが、辛さそのものを肯定しともに生きる、それはある種、ほんとに尊いと思う。

村上春樹のこの原作を読んでいない。村上春樹ということで噴出するエロティシズムを予想してはいたけれど‥

痛みに向き合う役者さんの演技はほんとに尊いものだと思ったけれど。そのテーマに仮借なく向き合うこの映画も。

諸々のハラスメントともなりうる要素がそのまま俎上に上げられている作品でもあり、それは村上作品の秘儀だとしても、文学の領域であれ、そこに届き客体化する批評のことばなり視点はまだ我々のものになっていないように思う。なのでそれをさらに映像で視覚化することの難しさはまだ色濃く漂っているようにも思えた。冒険である。視覚化することで見えるもの、より見えなくなるもの‥それもあるような気がした。

劇中演技者は演技に自らを差し出す‥そんな言葉があったが、私の立っていた舞台では、エモーショナルなものは出入りするものではなく、むしろ手で扱うような客体であった。
舞台と、映像での演ずるということの位相の違いを結果的に逆説的に提起されているようでもあった。

瀟洒なビルディングに住まい、チェホフを扱っていながらも、歴史から切り離され現在に漂う孤独な現代人の姿、という感じもした。戯曲を上演する、って、そういうことなのかもしれないけれど。やはり歴史とは、手触りである。少し泥臭いくらいのほうがほっとする、それが時間というものの救いなのかもしれない。

チェホフの舞台の最後の台詞では神さまが出てくるが、ここに出てこない時間、歴史こそがじつは救いなのかもしれない。そういった事柄を裏側から表現する、あるいはそれが手法として選択されているのかもしれない。他の作品も見てみないと、それは分からないな、と思った。


***


(そして今朝になってシモーヌ・ヴェイユの云う'暴力force brutale'という言葉を想い出した、それはこんな一節にある

「神にとって永遠の英知であるものと、宇宙にとって完全な服従であるものと、われわれの愛にとって美であるものと、われわれの肉体にとって暴力(force brutale)であるものとは、ただ一つの、同じものなのである。
‥真理への回帰は、なかんずく、肉体労働の真理を明らかにするであろう。」(『根を持つこと』より)

以前卒業論文に引用し、長年引っかかりながら刻まれているものである。ここで名指されている'force brutale'が、殊更にこの劇中の俳優さんたちの演技を尊いものにしたのかもしれない。

ヴェイユの云う'肉体労働―travail physique'ということの意味を、またすこしつらつらと考えなければならないのかもしれない。また、それが何かの助けに‥なにか見えないものに対して力学的に働く力の一助に―あるいはもしかしたらなっていくのかもしれない‥)



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