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【小説】it's a beautiful place[23]「じゃあ、俺は東京から来た女二人の幸せ祈るわ」

23
 
 あっという間に一週間が過ぎ、私が島を立つ日はもう七日後に迫っていた。龍之介から、連絡は全くなかった。自分から連絡しようか何度も考えた。けれど、出来なかった。予定を変える事など、もう出来ない。出来ない癖にもう一度会いたいなど言える筈もなかった。

 美優は、時折夜一人で泣いていた。私が店から帰ってくると泣き腫らした顔で、枕元にノートを広げて寝ている事もあった。今までの様々な事を思い出しているのだろう。ありったけ吐き出せばいい。そう思いながらも私は美優と拓巳を会わせる事がこの一週間の内に出来るかどうか不安だった。このままではいけない、と思いながらも、きっかけを掴めないまま、焦る気持ちだけが募っていった。

 LINDAへの出勤は残りあと二日だった。荷物の整理もあるだろうし、と残りの五日はオーナーが休みをくれたのだ。その日の店は客がほとんどいず、私は早上がりをした。そして、その足でクアージへ向かった。

 カウンターには暇そうにしている悠一がいて、私に気付くと手を振りボトルを出してきた。私が、ここでボトルを入れた事がないのに何故、と問うと、あまりのボトルだからいいのだと笑った。私はその言葉に甘えて酒を飲んだ。島で作られている黒糖焼酎。生産数が少ない為、内地には出荷していないそうだ。慣れ親しんだこの味とももうすぐお別れだ。そう思うと何だか寂しかった。物思う重さが何だか辛くて、私はカウンターに頬杖をついた。

「美優ちゃんはどう」
 悠一が何気ない口調でそう言った。
「一人でいろいろ考えてるみたい。拓巳は」
「まぁ、落ち着いたわ。二人、いつ島出るんだっけ」
「あと一週間」
「嘘」
「本当」

 私がそう返すと、悠一はぽつりと早いわ、と言った。本当に早かった。ここにいたのはたった三ヶ月。けれど、あまりにも沢山の事があった。

「私さ、島来て初めて話した島人は拓巳と悠一なんだよ」

 私はそう呟いた。

「すごく怖かったの。初めての島で、知り合いもいないし。でも、二人に会ってやっていけるかもって思った。二人がいてくれたから島楽しかった」

 悠一が自分もグラスを傾けながら頷いた。

「だから最後も一緒にいたいよ。出来れば美優も一緒に」

 悠一が一瞬逡巡するような様子を見せ、また焼酎を飲んだ。

「あ!」

 突然、悠一が声をあげた。そして、こう続けた。

「昇竜洞」

 それで私も顔を上げた。昇竜洞。拓巳と悠一が初めて島を案内してくれたあの日、私達が行けなかった場所だ。

「あ! そうだ、行ってない」
「それだ!」

 悠一が私を指差し、そう叫んだ。私達はカウンター越しに手を叩きあった。最高のアイディアだと思った。この観光名所などないに等しい島唯一の大きな観光スポット。最後に皆で行くにはふさわしい場所だ。

「拓巳と悠一の沖永良部観光ツアーファイナルよ」

 悠一は自慢げにそう言った。私はそのファイナルという言葉が切なくて、こう応えた。

「ファイナルって言うな」
「じゃあ、もっといろ」

 私はその言葉に更に泣きそうになったけれど笑って、また焼酎を飲んだ。
 四人で昇竜洞へ行くのは三日後に決まった。美優と拓巳の事は気になったがいざ会わせてしまえば何とかなるだろうと思った。私達は待ち合わせ時間を決め、乾杯をした。
 
 全長三千五百メートル以上ある沖永良部島で一番大きい鍾乳洞、昇竜洞はその内の六百メートル近くが一般向けに公開されている。島で一番標高が高い大山の方へひたすら登ると、駐車場だけがある広場へたどり着く。そこから徒歩で階段を下りると休憩所に毛が生えたような建物があり、そこで入場料を払ってから、洞窟へと入っていくようになっている。チケット売り場から出て細い道を歩くと、すぐに目の前に大きな洞穴が口を空けていた。縦は五十メートル、横は百メートルはあろうかという大きさだ。上からはガジュマルの根っこやシダが垂れ下がり、ほとんど整備されていない。太古の昔そのままの姿が保たれたその姿は、圧巻の一言に尽きた。

 美優は、初めて会った時と同じ服装をしていた。Tシャツにデニムのミニスカート。靴は鍾乳洞に行くのだからといつものビーチサンダルではなかったが、無造作にかぶったキャップはこの島に着いた時と同じものだった。久しぶりに会う拓巳は少し痩せていた。相変わらず伸びた金髪をそのままにして、オーバーサイズのパンツを履いている。悠一は、その日珍しくジャケットを着ていた。何か今日ちゃんとしてるじゃん、とからかうと「ツアー主任者だからな」と気取って答えた。

 昇竜洞の中はひんやりと冷たかった。いきなり視界の一面が白い鍾乳石で染まった。天井からは無数のつらら状の鍾乳石が垂れ下がり、そこから水滴がぽたぽたと落ちてきた。拓巳の頭にそれが当たり、拓巳は「つめてっ」と声を漏らし、体を跳ねさせていた。そうしたら足元がずるりとすべり、危うく転びそうになった。相変わらずの拓巳のおっちょこちょいぶりに私達は笑った。島の大雑把さを現すかのように、昇竜洞内の道の整備も適当で、中には幅五十センチくらいしかない所まであった。私達は体を横にしてそれをすり抜けた。『クリスマスツリー』『金銀の瀧』『ダイヤの御殿』。大袈裟に名づけられた鍾乳石群を見ながら四人連なって洞窟を進んでいく。私達以外、観光している人間は誰もいなかった。

「すごいね。鍾乳洞がこんなにすごいものとは知らなかった。でも、こんなにすごいのにどうして誰もいないの?」
「島人はもうこんなの飽きてるっちょ。あ、でも昔、テレビの取材が来たときはすごい人出だったわ」

 私が発した言葉に悠一が答えた。洞窟内に不思議にその声が反響した。拓巳と美優は車の中からずっと無言のままだった。

 昇竜洞内には昇竜神社という神社があり、小さな鳥居と祠が設置されていた。私達はそこでお参りをした。小さな祠に小銭を投げ込み、二礼二拍手一礼をして祈る。

「何をお祈りした?」

 悠一がそう声をかけてきた。

「島がいつまでも綺麗でありますように。島人が皆幸せに暮らせますように」

「俺の幸せも祈ってよ」

「ちゃんと悠一も島人に含まれてるってば」

 私と悠一はそんな風にいつものような話をしていた。その時、美優が今日初めて言葉を発した。

「私も祈っていいかな」

 そう言う美優の瞳は真剣で、声は思い詰めたように切羽詰っていた。

「なんて」

 拓巳がそれに答えた。それだけ言って拓巳は美優の言葉に答えてしまった自分に驚くように目を伏せた。美優と拓巳の視線が一瞬交錯した。美優は意を決したように言った。

「島人の幸せを」

 祈りなよ、幾らでも祈ればいい。そう私が言おうとした矢先に悠一が満面の笑みで頷いた。拓巳が美優を見詰めていた。美優が拓巳をもう一度見た。その目から、決意が漲っていた。拓巳はこくんと頷き、こう言った。

「じゃあ、俺は東京から来た女二人の幸せ祈るわ」

 ぱんぱんと大きく手を叩き、拓巳は言った。

「美優と奈都がいつでもどこでも幸せでありますように」

 私がそれに続けた。

「拓巳と悠一とこの島のいい男全員が、いつでもどこでも幸せでありますように」

 美優に続けて、と声をかける。美優も同じ台詞を言った。そして、私達は顔を見合わせて笑った。

「しっかし、奈都ちゃん。この島のいい男全員って誰よ」
「え? 内緒」
「何よ。本当、奈都は気が多いわ」
「俺らだけで百人分よ」
「足りない足りない」
「本当欲張りだわ」

 私達はそんな会話をして、また笑った。白い鍾乳石が視界いっぱいで輝いていた。洞窟の奥へと笑い声が吸い込まれていく。ぽたぽたと垂れる水滴の音もかき消して私達ははしゃぎながら洞窟を探検した。まるで小さな頃のように。まるで昔からの友達のように。
 
 それから私と美優はいったん家に戻り、私は出勤の準備をした。そして、美優と共に連れ立ってLINDAへ行った。店の前には拓巳と悠一がいた。今日は私の出勤も最後の日だった。だから、拓巳と悠一を呼び、美優も呼んで四人で盛り上がろうという事になったのだ。

 ところが、私のその目論見は外れ、店は大盛況となり、三人の席に着く時間はほとんどなかった。夜にしか咲かないドラゴンフルーツの花を持ってきてくれた人々。わざわざ船を出して伊勢海老を取ってきてくれた人々。何度か一緒に飲んだだけの間柄だというのに最後に会いに来てくれた面々の応対に追われ、私は慌しくあちこちを走り回っていた。

「なんで帰るのよ」
「島にいい男がいなかったか?」

 そんな風に日に焼けた男達は言う。

「ううん。いい男がい過ぎて選べなかったから帰るの」

 私が笑ってそう言うと、案の定彼らは、
「なーによ、今からでも遅くないから俺に決めろっちょ」
などと言って、私はそれに全く島の男は相変わらずだ、と思いながらも笑った。

 使い捨てカメラのフラッシュが何度も光った。ねぇ、あれ歌ってとせがむと島人はまた『島人ぬ宝』を歌い出した。それが、それこそが宝なのだと私は思う。宝物をただ来て帰っていくだけの私にすら手渡そうとする、その気持ちが宝なのだ。

 結局、店は閉店までそんな調子で、私が美優と拓巳と悠一のいる席に戻ったのは店の営業が終わった後だった。

 テーブルの上には焼酎の瓶が三本空になって置かれていた。

「これだけ飲んだの?」
 私は驚いてそう聞く。
「そうよー。奈都が来ないから俺らやけ酒よ」
 拓巳が真っ赤な顔をして言う。
「奈都ちゃんもラストでしょ。今日は飲んじゃおう」
 美優は明るい調子でグラスを掲げ、また飲み干す。
「あかん、俺、久々飲んだわ。明日仕込み行けるかな」
 悠一はそうぶつぶつ言いながらもやっぱりグラスを傾けていた。店はもう誰もが閉店の準備をしている。

「奈都ちゃんお疲れ様」
 サリさんがそう言って私の前にビールの大瓶を置いた。「これ私からのおごりよ」。そう言ってにやりと笑う。

 途端に一気コールがかかって、私はそれを瓶ごと傾ける羽目になった。途中で飲みきれなくなって拓巳に回すと拓巳はそれを飲み干し、それから思い切り吹いた。

「もう! あんたってば本当」

 そう叫んでおしぼりを用意しながらも私は笑った。悠一も美優も笑っていた。拓巳は相変わらずごほごほとむせている。あぁ、この調子だ、と思う。私がこの島に来て最初から一緒にいたのはこの子達で、私達はこんな風にいつも遊んでいた。最初から最後まで。

 それから私達はピュアゴールドに行ってカラオケをして、町体の裏の海で缶ジュースを飲み、名残惜しい気持ちで私達のアパートの前で別れた。会ったばかりと同じ調子で、それでも最後は更に名残惜しくて四人で抱き合った。

「また遊べる?」
 美優がそう聞いた。
「俺らはいつでも島にいるっちょ」
 拓巳が力強く答えた。

 美優がこくんと頷いて、その頭を拓巳が撫でた。悠一は私の頭に腕を回してそのままヘッドロックを決めた。

「痛い痛い痛いってば」
「絶対また島来いよ」

 ヘッドロックの隙間から悠一がそっと言った。
 
 二人を見送り、私と美優は顔を見合わせた。ちょうど時刻は明け方を迎えていた。微かに見える海の方が段々明るくなっていくのがわかる。私は、そちらを指差し言った。

「ねぇ夜が明ける」
「本当だ」

 美優が少しだけ唇をあげて笑った。髪が海風になびき、頬にかかった。こんな風に毎日見ていた横顔を見るのもあと少しだ。そう思ったら私はこう言っていた。

「海、見に行こうよ。疲れてなければだけど」
「私も今そう言おうと思ってた」

 美優はまた少し笑って、私達はもう一度海へと戻った。

 白砂が段々と差し込んでくる日差しで序々に煌き始めていた。ぐるりと私達を囲む水平線は薄紫色で、その上にはピンクとオレンジと紫がグラデーションになってそのまま空へ溶けていた。町体の海。この島ではここは海とは呼べない代物だ。泳げる訳でもない。特別に綺麗な訳でもない。けれど、私達は飲んだ後にスーパーの帰りに、いつもここに立ち寄って、いつでもここで気持ちを溶かして眠りについた。珊瑚もない、魚もいない、ただの海。けれど、私達が島の海といって真っ先に思い出すのはいつもここだ。拓巳と悠一と何度も夜明けまで遊んだこの海。

 美優は私の前に立ち、スカートを風になびかせていた。はためくスカートから覗く足は真っ直ぐで、いつものビーチサンダルを履いていた。ざくざくと砂を踏んで歩き、少しだけ水に足をつける。すぐに冷たい、といって戻ってきた。

「もう水が冷たいよ。ついこの前まで海に入れたのに」
「もう十月だもん。私も忘れてたけど」
「そうだね、もう十月なんだよね」

 私達はそう言い合いながら空を眺めた。いつも何処までも馬鹿っぽいくらい青かった島の空も、何だか秋の色をして薄く遠く高い。むき出しにした足が少し寒かった。私はバッグをぶらぶらとさせながら、美優に近付いた。

 美優の髪がせり上がってくる太陽に透かされ、金色に光っていた。細い腕が何かを探すように宙に浮いた。さっき海につけた足がまだ濡れて、砂浜に足跡を作っている。波音が、響いた。自分が生まれる前からもこの音は続いている。ふとそんな事を思う。波は寄せては返す。さらっていくだけじゃない。そう思いたいのに、何故かそう思えなかった。

 私達が今ここで一緒にいる事が、きっと二度とないであろう事を私はもう知っていた。こんな風にただ同じものを見て、同じ気持ちを感じる事がどんなに得難いものなのか、私達は既に知っているのだ。また会える。幼い頃にはいつでも信じられたその言葉を、また無邪気に信じる事など私達にはもう出来ない。

 私達は同じ東京といえど全く別の場所から来て、こんなに遠く離れた場所でどうしてか出会った。きっとこれからも私達はこういう事を繰り返していくのだろう。私達は、ただ交差する一点で会っただけだ。そして、すぐにどうしようもなく別れていく。

 それは、きっと何度も繰り返す事だ。きっと誰もが繰り返す事だ。けれど、その、当たり前のどうしようもない事が、こんなにも胸に迫って仕方がない。

 この町体の裏でくだらない話をして海を眺めている事が、こんなに当たり前だった事が、また私達に訪れる事はきっとないだろう。「また一緒に海を見ようよ」。そんな言葉は簡単に言える。けれど、それを叶えるのはたやすくはないのだ。これから私達は別々の暮らしをしていく。そうしたら日々の忙しさにまぎれて今の気持ちなどすぐに消えていくのだ。

 そう思うと何も言えなかった。私はただ無言であと三日で離れていく島と美優の後姿を見ていた。

 太陽が目を射した。夜明けの瞬間、さっきまでの微妙な色合いの空は消えて全部が燦然と輝き出す。水面に光が踊る。遠く徳之島の影が見える。私は眩しさに顔をしかめた。美優が、振り向いて言った。

「奈都ちゃん、ありがとう」
 私は目をこすりながら答えた。
「私は何もしてないよ」
「違うよ。何かしてくれた事にじゃなくて、一緒にいてくれてありがとうって言ってるんだよ」

 私は美優のその言葉に一瞬呆けた。その後、その言葉の意味が腑に落ちてきて、私は思った。そうだ、何かをしてくれた事にじゃない。この景色を一緒に見る事が出来た事、ただ今の一瞬だけでもそう出来た事、ここでこうして出会えた事、今一緒にいる事に、だ。形になどけしてならない。約束などない。確証もない。けれど、私達が今ここでこうしている事、ただそれだけが感謝をすべき事なのだ。

 風上にいる美優からは海辺で思う存分遊んだ後の陽射しと潮の香りがした。きっと私からも同じ匂いがしているだろう。こんな風に海の匂いをさせる日々もあと少しで終わる。それでも一緒にいた事は、一緒に過ごした時間は、けして消えないのだ。

 それから私達は桜貝の欠片を拾い、持っていた使い捨てカメラで二人の写真を撮った。島に着いてすぐ二人で買ったビーチサンダルを履いた足元。白砂に映えるペディキュアが何だか眩しかった。美優はピンクにゴールドの縁取り、私はベージュにターコイズブルーでクロスを描いたペディキュア。二人が持っていたマニキュアをお互い交換して作った爪だった。島の写真屋はおじいがやっているせいかとても出来上がりが遅く、今日出さなければ島を発つ前に受け取れない。私達は、今日はカメラ屋に行かなくちゃと言い合いながら帰路についた。毎日、今日はAコープが特売だから洗剤を買っておこうだの、知名商店街のスタンプが二倍の日だからまとめ買いをしようだの言い合っていたのと同じ調子で。
 

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私の作品紹介

忘れられない恋物語

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。