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【小説】it's a beautiful place[18]そう、私も拓巳も許したい筈だ。全部、嘘になどしたくはない筈だ。

18
 
 雪が綺麗だと思った事など一度もなかった。自分が汚れたものだと思い知らせるようなあの白さが嫌だった。

 長靴を履いて学校までの道を歩く自分の足先を今でも覚えている。学校までは徒歩で普段は三十分。しかし、雪が降るとその倍以上時間がかかった。道路の横に積み上げられた雪は壁のように聳え立っている。灰色の雲からひたすらに降る雪で視界は埋め尽くされ、水気を吸った荷物が重かった。私がいた集落では私と同年齢の子供は一人もいなかったから、私はいつも一人で学校まで向かった。あの北風が吹き荒ぶ道を一人で歩いていた幼い私は、今でもあの道を歩き続けているのではないかと時折思う。永遠に辿り着く場所など見つからないような気がする、遠い遠い道だった。

 私が生まれた町は、田んぼと畑と山しかない東北の雪深い土地だった。都市部に出るには電車で三時間以上かかった。私の唯一の楽しみは夏の風景を絵に描く事だった。一斉に芽吹き緑の稲穂を揺らす田んぼ。シロツメクサを茂らせる林檎畑。吹き抜けていく風が一斉にそれらを揺らすあの土地の短い夏。

 私があの土地で心安らいだのは唯一その夏だけだった。北の方の土地の夏休みは短く、一ヶ月にも満たない。その時だけが私がこの土地をそう嫌いではないかもしれないと思える時間だった。

 立地のみならずそこに住む人々の何もかもが行き止まりになっているような場所だった。この土地に生まれた時点で未来は大体決まっていて、それを誰もが当たり前だと思っていた。それが一番最初に顕著に現れるのが、高校の入学時だ。農家の息子、娘は大体農家を継ぐ。成績が抜群に良い者は都市部の進学校へ行き、大学受験の為に勉強をする。成績が悪く何のと取り得もない子供は、この村から車で一時間かかるようなゲームセンターやホームセンターで意味もなくたむろし、そこで知り合った誰かと成り行きで結婚する。そして、クリーニング屋や飲食店などで女はアルバイトをし、男は誰か親戚の伝手を辿り、工務店や土木関係の仕事をする。あの土地で見える未来は、せいぜいその三つくらいしかなかった。

 私はその三つの未来のどれにもそぐわない自分を感じていた。けれど、高校生の時分にはそれ以外の何かを探す術など知らなかった。私に、その三つ以外の未来を初めて示したのは、有末だった。

 当時、大学生の有末は私の家族の親戚のそのまた親戚だとかの美大の写真部に所属している大学生だった。夏休みに日本の田舎の風景を撮りたいという事で伝手を辿り、有末は私の家に滞在する事になった。土地だけはある田舎の家にありがちな増築を繰り返した私の家では、私の部屋と有末が使っている部屋は遠く離れていて、夕食時ぐらいしか顔を合わせる事はなかった。私の家は、昔は本家だったそうで、来客が常に絶えなかった。だから、私は有末の事もよくいるお客の一人としてしか思っていなかった。

「奈都ちゃんは絵を描いてるんだって?」

 そう有末が言い出したのはある日の夕食時だ。私はそれを聞き、箸を止めた。家族達の目が一斉にこちらに向かってくる。私は食べかけていた漬物をやっとの気持ちで飲み込んだ。

「そうそう、この子は誰も何も言わなくても小さい頃から絵を描いててね。まぁ、下手の横好きってやつよ」

 母が笑いながらそんな風に言った。その拍子に母の口から米粒が飛び出した。私はその咀嚼された米粒を見ながら、無言のままでいた。私にとって絵を描く事は唯一の自分だけの世界を作れる大切なもので、それをこの場所で口に出されることはあってはならないものだった。しかし、その場で怒る事が出来る程、当時の私は気が強くなかった。だから、ただ、私は無言のまま、食事をするだけだった。有末が訝しげにこちらを見てきた。私は彼にこう答えた。

「昔は。でも、今は描いてません」

 その言葉は何故かあたりに響いて、場は一瞬凍りついた。このようにいつも私はここに上手く馴染めない。自分でわかっている事ながらもそれを再度確認させた有末が憎らしかった。状況を見かねて家族達は話題を移り変わらせた。私はそれにほっとして、有末の視線を避けながらまた食事を始めた。
 翌日、私はいつものように自転車で出かけた。スケッチブックと画材を持ち、有末に見つからないようあたりに気を配った。見知らぬ人間に土足で自分の領域に踏み込まれたくなかった。

 私の家の近くには山があり、その山頂には神社があった。開けたその場所は景色が一望出来、さまざまな植物が生い茂っていた。私はその場所を昔から気に入っていて、何かがあればいつもそこにいた。そこの絵は何枚も描いていたけれど、いまだに飽きなかった。そこにいればいつまででも心を遊ばせられた。その日、有末の一言がまだ胸に残っていた私は、それを忘れたくてそこへと向かった。

 山頂に一つだけあるベンチに腰を下ろした。眼下に広がる住宅と畑は小さく、どれが自分の家なのかももうわからなかった。まだ行った事のない土地が遥かに見えた。あそこに行きたい、と私は思った。別にそれで何が出来る訳でもないのに、あの子は絵ばっかり描いて。昔からことある毎に言われていた家族からの言葉を思い出す。何も出来なくてもいい、他のものも望みはしないから、絵だけ描かせてくれる所はないものだろうか。ふとそう思うけれど、そんな場所がある筈ないと私はすぐさま自分を笑った。そんな風に都合よくいく訳がない。私はここに生まれ、ここにいるしかない、他の場所に出て行ける何かがある訳でもない。

「やっぱりここにいた」

 誰も来る筈がない、と思っていた私は、無防備に自分の思考に沈み込んでいた。そこでいきなり声をかけられ、私はびくりとして振り向いた。有末だった。私はベンチの横に置いていたスケッチブックを慌てて隠した。けれど、もう見られてしまった事はわかっていた。どうしてこんな風にずかずかと。そう思いながら何も言えずに俯いた。有末はそんな私にカメラを向け、シャッターを切った。

 私は目を見開き、有末を見た。有末は何も気にしていないように笑っていた。私はそのカメラを奪い取りたい衝動と戦いながら、唇を噛んだ。私は写真が嫌いだった。学校での集合写真も家族の行事で撮る写真でも私はいつも笑顔を作れなかった。出来上がった写真には見るからに居心地が悪そうにそこにいる自分がいて、それを見る度に私はここにいるしかない癖にここに綺麗に馴染めない自分を感じた。私にとって写真は、自分が何処にいても誰といても上手くいかない人間だと思い知らされるだけのものだった。私は、自分の姿を見たくはなかった。

「何か絵になるからさ、撮っちゃった」

 有末はそう言って笑った。私はそれに何も答えず、スカートの裾を握り締めた。

「昨日はごめんね。気軽な気持ちで聞いたんだけど、言われたくなかったんだな、と思って」

 私は有末のその言葉に顔を上げた。バッグに隠したスケッチブックが気になって手で抑えた。そんな風に見透かされたような事を言われるのが嫌だった。お願いだからもう踏み込んでこないで。そう叫びたかった。けれど、言葉は喉の奥で詰まったままで、私はまた俯いた。そんな私に構わず有末は話し続けた。

「俺も昔そうだったな。田舎にいた時。誰とも話は合わないし、好きな事はあるんだけどそれをどう形にしていいのかもわからないしで、それでも必死で写真にしがみついてた。だから、ずかずか人に踏み込まれるのは嫌だった」

 私は有末のその言葉にも反感しか抱かなかった。自分の感情をありふれたもののように語られた事にかちんときた。何故、私にそんな事を話すのだろうか。ただ、写真を撮りに来た、それだけでいい筈なのに。そう思いながら私は、この場から逃げ出したくて堪らない気持ちでいた。

 有末は、体を強張らせた私を見て、少し笑った。舌で指を舐め、人差し指を空にかざした。今日は東から風が吹いてるね。そう言って、もう一度笑う。そして、また話を続けた。

「でも、ある日さ。俺、高校では写真部に入らずに一人で撮ってたんだけど、写真部の顧問の先生に撮ってたやつを見られちゃったんだよね。すごい恥ずかしかったよ。でも、褒めて貰えてさ。写真部に入れって言われて。それが俺、すごい嬉しかったんだ。自分でもびっくりするくらいに嬉しかったんだよ」

 有末は一度そこで言葉を切り、リュックサックからペットボトルの水を出してごくりと飲んだ。耳の後ろを掻き、私を見る。私は有末が何を言おうとしているのかがわからなくて、彼の方を見ていた。互いの目が合った。有末は、一瞬きょとんと目を見開いた後、小さく笑った。秀でた額に前髪がさらりとかかる。小鳥の囀りが何処からかぴぃちちちと聞こえてきた。風が足元の茂みを揺らしてから、山の木々をざわめかせ下へと駆け抜けていく。有末の着ているシャツが風をはらんで膨らんだ。そのシャツを抑え、それから有末は四角くすら見えるような太く無骨な指でカメラを撫でた。

 こんな風に何かを愛おしんだ事が私に今まであっただろうか。私はふとそう思った。スケッチブックも絵筆も画材も、もちろん大事にしていた。けれど、私はそれをいつも何かから守る為に大事にしていたのだ。誰かから奪われないように、誰からも触れられないように。今、有末は、カメラをただその場にいてくれる事が嬉しいと言うように撫でていた。しがみついていた、と言っていた時の彼はきっとこんな風にカメラを触る事は出来なかったのではないだろうか。そう思いながら、私は有末の言葉の続きを待った。

「それで、俺、わかったんだ。本当は知って欲しいんだって。自分が見た綺麗なものをさ、誰かにも綺麗って感じて欲しいんだよ。一人で抱えてるだけじゃ寂しいだろ。一人で見た景色でもさ、作品にすれば誰かと見た景色になるからさ。そういうのって嬉しいじゃない。怖い事なんて何もない。それはただ嬉しい事なんだって、その時、俺、思ったんだ」

 私は頭の中に直接吹き込まれたようなその言葉をただ何も言わずに聞いていた。

 ずっと怯えていたのだ。絵を描く事は私にとってはずっと後ろめたいものだった。後ろめたいから人に見せるなど考えもしなかった。絵を描く事を後ろめたく感じていた癖に私はそれを捨てる事が出来なかった。だから、誰にも見せなかった。酷評される事が怖かった訳ではなく、ただ、絵を描く事自体がいけないものだと、人に見せてはいけないものだと、私はずっと思っていたから。

 怖い事なんて何もない。私はその言葉をもう一度胸で繰り返した。それはただ嬉しい事。その言葉も繰り返した。

 眼前には遠い山並みが広がっていた。目の前を雲がゆるゆると流れていった。この地方の夏の空は薄く青く遠く高い。鳶がひゅうっと横切っていく。裾野にある湖が一瞬煌く。

 また、風が吹き、梢が揺れた。少し遅れて下に見える田畑の稲穂がざぁっと遠くまるで波紋のようになびいていく。私は、風に煽られた髪を抑えた。有末は顎を上げ、心地よさそうに目を細めていた。そして、小さく唇を上げ言った。

「きっと綺麗なものは誰の心の中にもあってさ。写真でも絵でもそれを映し出すだけなんだから、何も怖い事なんてないんだよ」
 
 それから有末が東京に戻るまでの二週間。私達は家族の目を盗んでその山頂で何度も会った。おずおずと私が見せた今まで書き溜めた絵を見て、有末は自分のいる美大を受けてみるべきだと言った。彼は奔走して私のいる村から電車で行ける距離の絵画教室まで見つけてきてくれた。

 いきなり、目の前に道が開けたような気がした。他の場所に行ってもいいのだと初めて思った。何も取り柄がないと思っていた自分が、初めて何かの価値あるものになれたと思った。私は必死で美大受験の準備を始めた。今まできちんと美大に向けての勉強をしてきた訳ではない私は落ちるだろうと誰もが言った。けれど、私は何とか合格し、東京へと発った。

 重い荷物を抱えて羽田空港へ降り立った時の事を、今でもありありと思い出せる。不動産屋は新宿にあり、私は鍵の引渡しを済ませた後、南口の紀伊国屋書店に向かった。あの町では、書店に入荷する事すらすらない写真集や画集がごまんとあるあの場所は、私にとっては宝箱のようなものだった。私は五千円の写真集を思い切って購入して、プレゼント用だと言い丁寧に包装してもらった。東京での第一日目を迎えた自分への贈り物だった。帰り道、線路をまたぐ橋の向こう側が明るく煌いて見えた。私はそれに吸い寄せられるように橋を渡った。小田急サザンタワーが聳え立つ場所。街灯が二列になって新宿駅へ行く道を照らし出している。行き交う人々は全て見知らぬ人間だ。嬉しかった。三月の末。もう雪は降っていなかった。

 一人で暮らすのは何かと心配だから、と親は有末の家の近くに部屋を借りるように言った。東京について一日目。有末は私を食事に連れて行き、私達はその日、初めて一夜を共にした。何も怖くなかった。これから全てが始まり、そしてその全ては終わりのないものだと思っていた。恐れなど何一つなかった。既に全てを手に入れたような気持ちだった。

 それから私は学生生活を始めた。有末はもう卒業も近く、単位も取っていたので学校に出る必要がなく、昼間のほとんどを高名なカメラマンのアシスタントをして過ごしていた。私もアルバイトをしなければならなかった。実家からの仕送りだけではとても暮らしていけそうになかった。ちょうど、その頃、その有末の師匠のカメラマンの事務所の人手が足りないという話があった。私は有末に紹介され、そこで働く事になった。

 聞いた所によると、そこは本来ならばアシスタント希望者が列を成して並ぶような名の通った事務所らしかった。いくら有末の伝手があったからといっても、何故、さして写真が好きでもなくカメラマンとしてやっていきたいとも思っていない私が選ばれたのかは正直言って謎だった。「熱い奴ばっかりでも疲れるからさ。お前ぐらい呑気な感じの奴がいてもいいかなって」。私を選んだ理由をカメラマンはそう語っていた。

 有末は、私に丁寧に仕事を教えてくれた。ゆっくりと順を追い、きちんと一つ一つの手順を片付けていく。有末の仕事のやり方は有末の性格そのままだった。

 私が入ってすぐにその事務所は猛烈に多忙になり、私と有末は二人とも深夜まで拘束されていた。有末と私は、毎日一緒に帰った。朝も彼が迎えに来てくれた。そうしている内に私達はどんどん馴染んでいった。私はほとんど自分の家に戻らず、有末の部屋で毎日を過ごすようになった。もう少し時間が経ったら家をきちんと引き払い一緒に住もう。そんな話も出ていた。

 彼の部屋には様々な写真集や画集があり、私はそれをよく読んだ。彼は言った。せっかく若い内から一流の人と関われるチャンスを貰ったんだから、もっと奈都は貪欲になったほうがいい。私は、彼とずっと一緒にいたかった。同じ景色を見ていたかった。彼はとても写真に対して誠実で、いつも写真の事ばかりを考えていた。暇さえあれば写真展に通い、写真だけではなく美術や映画などにも精通していた。彼が口に出すアーティストや芸術家の大半を私は知らなかった。私は彼に追いつきたかった。だから、写真にも絵にも力を入れるようになった。

 そうして一年が経過した。私は学校とアルバイトで多忙になり、時折、有末に八つ当たりをする事もあった。けれど、有末はいつもそれをさらりと受け止めて、緩やかに流した。有末は、初雪を喜ぶように、何にでも喜びを見出す人間だった。道端に咲いたたんぽぽにも、奇跡的なくらいに美味しく出来たカレーにも、フリーマーケットで格安で見つけたドイツ軍のモッズコートにも、神保町の古本屋で見つけた希少な写真集にも、潰れた熱帯魚屋の前で何故か水槽に入っている二匹の猫にも、彼は同じように喜び、笑って、シャッターを切った。そういう彼を見ているとちょっとの事で苛々している自分が馬鹿馬鹿しく思えて、私も笑っていた。

 雪だよ、とあの時に言ったように、有末は、猫だよ、とか、犬だよ、とか、トイプードルだよ、などといつも言って、それから、肉まんだよ、とか、アイスだよ、とか、今日は俺が作った手作り餃子だよ、などと言う。私はいつもそれに、誤魔化さないで、と言いながらも、なんだかんだと丸め込まれて、そうしたらいつの間にか笑顔になっていた。本当に呑気な人。そう思いながらも、私は有末がとても好きだった。

 精力的に作品を作り始めた私に、アルバイト先のカメラマンも大学の教授も目をかけてくれた。カメラマンからは様々な人々を紹介され、その中には彼が個展をやったギャラリーの店主がいた。私はその店主に気に入られ、更に様々な現代美術のアーティストやキュレーターに紹介された。大学の教授は私が教室で絵を描いているさまをよく見に来るようになった。それまで私は小作品しか描いた事がなかった。けれど、教授はもっと大きな作品を作ってみろ、と言った。私はそれに従い、絵を完成させた。

 私は何の為に教授がそう言ったのかは全く知らなかった。だが、その絵は有名なアーティスト主催で開催するアートの祭典のコンクールに出品される事になった。そのコンクールには前にカメラマンから紹介して貰った人々が何人も審査員になっていた。私はいつもの酒の席と同じような呑気な気持ちでその会場にいた。私は、成り行きでこうなっただけで、その賞を目指していた訳ではなかった。こういう経験をしておくのもいいかも。それぐらいの気楽な気持ちで私は流れに乗っただけだった。

 けれども、私の絵は高い評価を得た。グランプリまではいかなかったが、多くの審査員の評を集め、私は審査員特別賞を貰った。

 カメラマンも、大学の教授も喜んだ。「お前はぼうっとしてるけどいつかはやると思っていた」、「やる気を出してくれてよかった」。そう言われた。私は自分がそのように見られていた事を不思議に思いながら、様々な人に囲まれて祝福の言葉を貰った。私は、背伸びをして、人の頭の上から、その時一緒に来ていた有末が何処にいるのかを探した。私が受賞した事を、誰よりも喜んで欲しかったのは有末だった。

 有末は私から離れたテーブルの前にいた。私のいる方に背を向けて。その背中が暗く沈んでいるように見えた。私は人波を掻き分け、そちらへ行こうとした。けれど、そこでまた人に声をかけられ身動きが取れなくなった。どちらにしろ一緒に帰るのだ。後で話せばいい。私は、そう思い、声をかけてくる人々の応対に専念した。有末は知らぬ間にその場から消えていた。

 これは後から人伝に聞いた話だ。その頃の有末は卒業を間近に控え、就職に悩んでいた。有末は、出来る事ならそのままカメラマンのアシスタントとしてその事務所に勤めたかったそうだが、カメラマンの方では現在レギュラーのアシスタントは足りている状態で、それは難しいようだった。美大にいる者は卒業間近になると急に焦り出すとよく聞く。写真や絵がいくら好きだと言っても、それだけでいきなり食べていける筈もない。学生という大義名分がなくなる時期はもうすぐそこに迫っている。行く当てもなく居場所もなく、この四年間は結局無駄だったのではないだろうかと考え出す時期。今ならばわかる。けれど、その時、ただ開かれた新しい道に、東京の新しい生活に浮かれていた私には、その有末の気持ちが全くわからなかった。

 それからの私は更に多忙になった。カメラマンも教授も今までよりも輪をかけて私を様々な場所に連れて行き、沢山の人々に紹介した。当時の私は自分が恵まれている事を知らなかった。私は呼ばれた場所に行き、紹介された人々と話し、その場を楽しんだ。私にとってそれは単なる成り行きだった。それは誰でも出来る事で、大した事ではないのだと思っていた。

 有末の素振りが段々と変わってきたのはそれからすぐの事だった。

「すごいな」「すごいよ」「すげぇな」。私がその日にあった事を話す度、有末はそう言った。最初は明るく、けれど、段々と苛立つような調子がその声音に混じるようになった。私はそれに気付きながらも、その原因がわからなかった。多忙になった事、あまり一緒の時間がとれなくなった事が原因なのかと思った。だから、私は、なるべく有末と一緒の時間を作ろうとした。だが、丸一日を何とか休みにして、一緒に過ごそうとしても、有末は具合が悪いだとか、今日は家で寝たいとかで断るばかりだった。私は何が何だかわからないまま、作品を作り、大学へ行き、夜は誰か美術関係者と会う生活を続けていた。

 その日、私は久々に彼の家に向かっていた。元麻布であった賞の審査員をしていた美術館のキュレーターとその友人達の集まりに出た後の事だった。彼にどうしても報告したい事と渡したいものがあった。私は胸に大きな包みを抱いて、駅から彼の部屋へと続く道を走った。

「聞いて聞いて聞いて」

 ドアを開けた瞬間、私は靴を脱ぐまでも待てずに叫んだ。洗面所を改造して作った暗室から彼が顔を出した。その顔は煩わしいものを見るように曇っていたが、その時の私はそれに気付かなかった。私は、靴を玄関に脱ぎ散らかしたまま、彼に飛びついた。

「神宮寺さん、わかる? 有末が大好きな写真家の人。有末が教えてくれて私も大好きになった人。今日、会えたの。賞の審査員してた人が紹介してくれたの。私、もう嬉しくって本屋に走って写真集買ってきてサインして貰ってきちゃった。有末、これ、まだ買ってなかったでしょ。プレゼントする。すっごい素敵だよ」

 私は有末の手にその写真集が入った包みを渡した。有末はそれを受け取ったものの、言葉を発しようとしなかった。下を見たまま、同じ姿勢で固まっている。不思議に思った私は有末の顔を見上げた。そうしたら、有末は私から目をそらした。

 まだ途中だから。そう言って彼は写真集を床にそのまま置くとすぐに暗室に消えた。彼は本、とりわけ写真集を大事にしていて、けして床に直に置くことなどしなかった。私はその様子に驚きながらも、おとなしくリビングに戻り、テーブルの上にその写真集を置いた。人から何かして貰ったら必ずありがとうと言う有末が、何も言わないのも不思議だった。私は冷えた床に座り、膝を抱えた。先程までの高揚した気持ちは何処かへ消えてしまっていた。どうしたらいいのかわからないまま、冷たい床の温度が体に移ってくるのを私は焦るような気持ちで感じていた。

 その日、結局、彼は暗室からなかなか出てこず、待ち疲れた私は一人でベッドに入り眠った。朝起きると彼はベッドではなくソファでコートを上にかけ、眠っていた。私はそれを、一人静かな部屋でじっと眺めた。どうしてベッドに来ないのだろう。そう思ったけれど、それを聞くのが怖かった。私は「忙しいみたいだね。また来るね」とメモを残し、自分の部屋へと戻った。何かが変わりつつある事を感じながらも私はそれを考えたくなかった。

 その次の日、私は、同じコンクールに出品し私と同じ審査員特別賞を取ったアーティストが個展をやるというので、青山のギャラリーに行った。ギャラリーでは店主に名刺を渡され、個展をやるなら是非うちで、と言われた。そのアーティストは私にこう言った。「早く奈都ちゃんも上に上がりなよ。奈都ちゃんなら出来るって」。私はそんな風に自分が買われている事が相変わらずぴんと来ていなくて曖昧に笑った。それよりも今の私は有末の方が気がかりだった。

 カメラマンの事務所は青山にあり、私はギャラリーの帰りにそこへ寄った。事務所でのアルバイトは私が多忙になった事もあり、自由出勤に近い形になっていた。カメラマンが「お前には絵の方が才能あるからそっちをやれ。ここは時間がある時だけ手伝えばいいよ」と言ってくれたので気まずくならずに済んだ。

 手土産の菓子を片手に事務所に顔を出すと、久しぶり、と声がかかった。カメラマンが手を振って私に近付いてくる。私はお茶を入れ、菓子の包みを開けた。他愛のない噂話の後、カメラマンが私に小さく手招きをした。私は何故呼ばれるのか怪訝な気持ちになりながらも、カメラマンの部屋へと向かった。

 八畳程の部屋は深い色合いのフローリングで、部屋の家具は全て白でまとめられていた。来客用のテーブルはガラス製で、その前には北欧製の椅子がデザイン違いで何脚か無造作に置いてある。棚には本とレコードが溢れ、机の上にはプリントアウトされた写真やフィルムがライトボックスの上にばさばさと置かれていた。カメラマンは私に椅子を薦め、自分はデスクの椅子に座った。私は椅子に腰掛けた。

「調子はどう?」

 机の上のペンを弄びながらカメラマンが言った。私は頭を下げながらこう答えた。

「おかげさまで順調です。いくつか個展をやらないかってお話も頂いて。何だかとんとん拍子で嘘みたい」
「そうだな。お前はラッキーだよ」

 私はその言葉に笑って頷き、また頭を下げた。

「はい。先生みたいな人にも会えて、良くして頂いて。本当にそう思います。本当、いつもありがとうございます」
「お前のそういう所」

 カメラマンはそこで言葉を切った。私はカメラマンの言いたい事が何なのかわからず首を傾げた。カメラマンは机の上の写真を何枚か手に取り、また元へと戻した。そして、私から目をそらしたままこう言った。

「あいつにはきついのかもな」

 私はカメラマンのその言葉に目を見開いた。あいつとはきっと有末の事だ。カメラマンは気まずそうにまた手元にある写真をめくっている。私は唇の震えを抑えながら、聞いた。

「有末がそう言ってたんですか」
「まぁ、な。俺も悪かった部分もあると思うんだ。お前は面白いし、若いからさ。連れて歩くと周りも新鮮で喜ぶだろ。それであちこち連れて行ってあいつの事を放ったらかしてたからな。そうしているうちにお前の絵が受賞して、ますます俺もお前をあちこちに連れて行くようになって。そういうところデリカシーがなかったかもしれないと思うよ」
「私、そんなつもりじゃ」
「そうだな、それもわかる。お前はずっと何も変わってないよ。だけど、周りが変わった。そういうのがきつかったのかもな」
「周りが変わった事がですか? それとも私が変わらない所がですか?」
「両方だよ」

 カメラマンはすぐさま即答した。

「両方がきついんだよ」
「どうして」
「自分とは違うんだって思い知らされるから」
「そんなつもりは」
「なくてもそう見えちまうんだよ」

 見えちまう方が悪いんだけどさ。カメラマンはそう続けたが、私にはその言葉はもう頭の中に入ってこなかった。私は何一つ変わっていない。けれど、それすらも有末を傷付けるのだろうか。いきなりの話に私の頭は鈍器で殴られたように麻痺していた。呆けた私に、カメラマンは静かに言った。

「まぁ、ちゃんと話してみろよ。俺にとっては二人とも可愛い弟子だからさ」

 私はぐるぐる回る思考に翻弄されながらもかろうじて頷いた。
 
 それからすぐ私は有末の部屋に行った。電話をしても有末は出なかった。私は合鍵を使い部屋へ入った。今まではずっと当たり前のように使っていたこの鍵。けれど、今日はこの鍵を使うのが怖かった。有末がどんな顔で待っているのかが怖かった。これからどんな話になるのかが怖かった。けれど、このまま誤魔化していく事は出来そうになかった。私は、大きく息を吸い、ドアを開けた。

 彼はテーブルに突っ伏して眠っていた。私があげた写真集が横にあった。まだそのビニールは破られていないままで、私はそれを呆然と見詰めた。有末の寝息だけが微かに部屋に響いている。昼間だというのにカーテンは閉め切ったままだ。久しぶりに見る有末は何だか縮んだように見えた。部屋の暗さが何だか怖かった。私は有末を起こすべきかしばらく考えた。けれど、今日を逃したらもう話は出来ないような気がした。私は立ち上がりカーテンを開けた。

 光に照らされた有末は目をこすり、私がいる事を確認して、眩しいだろと言った。その声はいつも柔らかい口調で話す彼とは全く違う声で、私はそれに怯えた。思わず手が震えた。けれど、それを押さえ込んで私は声を出した。

「ごめん。でも、どうしても話したくて」
「何」

 用などない、と言わんばかりの口調だった。その不機嫌さに気圧されて、私は息を呑んだ。感情的になってはいけない。冷静に話さなければ。そう思って私は口を開いた。

「最近、様子おかしいじゃない? どうしたのかなって思って。何か、私、悪い事したかなって思って、それを聞きたかったの」

 有末はそれを聞き、面倒臭そうに頭を掻いた。一度、大きなあくびをする。私は有末の言葉をひたすら待った。有末が目をこすりながら、言った。

「お前はすごいよ」

 言葉とは裏腹にその口調は冷めていた。私は顔を上げ、有末を見上げた。髭をしばらく剃っていないようだ。頬がこけ、顔色が悪い。その色の悪い肌の上には、投げやりな表情が浮かんでいた。

「お前は何も悪くないよ。呑気に気楽に無邪気に人に擦り寄って、それでうまくいっちゃうタイプなんだよ。それは別に悪い事じゃないよ。お前は悪くない」

 そんなつもりはない。そんなつもりはないのだ。胸の中で警報が鳴り響くようにその言葉が浮かんだ。けれど、私は何も言えなかった。なくてもそう見えちまうんだよ。カメラマンの言った言葉が蘇る。そうだ、この間、私は有末に何をしただろうか。ただ夜遅くに帰ってきて、今日出会った人々の事をひとしきり話した後、「有末の調子は?」と聞いただけだ。酒と人の熱気で頬を紅潮させてはしゃぐ女に、冷や水をかけるような事を言える訳はない。そうして、有末は気持ちを埋めたのだ。私が浮かれている間に。

 埋め続けた鬱屈が溢れ出していくのを少しでも逃がそうとするように有末は大きく息を吐いた。苛立つような後姿で煙草を探している。テーブルの上にあったパッケージを手に取るが、それは空だった。有末はぐしゃりとそれを握り潰し、部屋の隅に投げた。立ち上がり、壁にかかっているコートの近くに行き、ポケットを探り出す。私はその後姿を追いかけて聞いた。

「でも、今までと全然、態度違うよ。どうして。私は何も変わってないよ。なのに」

 その言葉が終わる前に有末が振り向いた。その顔には般若のような表情が浮かんでいた。憎しみとしか言いようがない感情が、動かしがたくそこにあった。いつでもまるで大切に作られた陶器のようにつるりとしていた秀でた額に、今は血管がぴくぴくと浮いていた。私はそれを呆然と見た。体が凍り付いて動かなかった。有末は、私の頭上で唾を飛ばしながら怒鳴った。

「お前、自分がどれだけ恵まれてるかわかんないだろ。そういう風にしたくても出来ない人間の気持ちわかんないだろ。お前が何の気なしに手に入れたもの、どれだけの人間は欲しがってるか、全然わかんないだろ」

 その激昂した声に怯え、微動だ出来ずに私は有末の顔を見ていた。般若のような顔が早変わりのようにいつもの彼の顔に戻っていた。その顔に深い自省の色が見えた。言った側から自分のその言葉を後悔しているようだった。けれど、それでも、彼はまた口を開いた。

「うまくいってる奴にはうまくいってない奴の気持ちはわかんないんだよ」

 先程よりずっと静かな口調のその言葉に、私はそれまでよりもずっと恐ろしさを感じた。嫌だった。その続きを聞きたくなかった。私は有末の元に駆け寄り、有末が握り締めていた拳をほどこうとした。瞬間、手が振り払われた。そして、有末は壁をどんと叩いた。

 私は微かに痛む自分の手を見て、叩かれた壁を見て、それから有末を見た。有末は首が肩に埋まったかのようにうな垂れていた。嫌だ、言わないで。私がそう思った瞬間、有末は口を開いた。

「俺、もうここにいるの辛いんだよ。うまくいってる奴の横に意味なくいるのが辛いんだよ」

 そう言って、有末は壁をもう一度叩いた。私は、その手に触れようとして手を止めた。先程手を振り払われた時、有末の指輪があたり、手の甲が少し切れていた。滲み出る血を眺めながら、私は、言葉を見つけられずに、ただ有末の背中を見ていた。
 
「私、どうすればいい?」

 そう私が言ったのはもう終わりだと知っていたからだ。謝る事も有末を傷付けるだけだとわかっていた。けれど、どうすればよいのかわからなかった。だから、私は彼の言う通りにしたかった。私は何も気付かず、何も出来なかった。だから、せめてそれぐらいの事ぐらいはしたかった。

 有末はもう考えるのも嫌だというように投げやりに言った。

「好きなようにしろよ」

 その冷たい響きに、私は抑えていた涙が溢れるのを感じた。どうして、誰も悪くないのにどうして。問い始めたらきりのない言葉が頭の中を回り始める。私は有末に食い下がった。

「だったらまだ一緒にいたいよ」
「やめてくれ」

 即答された答えに、私は固まった。呆然としながら、それでも私はまだ有末と一緒にいる方法を考えていた。うまくいっている奴の横に意味なくいるのが辛いんだよ。有末の言葉をもう一度思い出す。

 ならば、私がうまくいかなければいいのだろうか。「辛いの」「嫌なの」「もう止めたい」。そんな風に言えば有末は安心するのだろうか。そうしたら、有末は「しょうがないよ、まだ若いからな」などと言うのだろうか。そうすれば、有末は楽になれるのだろうか。

 私は、こちらを向く事を永遠に拒否しているように見える有末の背中を見ながらそう考えた。それでもいい、と思った。有末がそれを望んでいるのなら別にそれでもいいのだ。けれど、どうしてか、有末が本当に望んでいる事はそうではないような気がした。少なくとも有末はそれで幸福になれる訳ではないだろう。一体どうすればよいのだろう。一体、何を私は間違えたのだろう。まだこの状況を何とかできると思った私は、恐る恐る口を開いた。

「ごめんなさい。私も、調子乗ってた所あったかもしれないって思う。自慢っぽく思う気持ちもあったかもしれないし。だから、そういう所が鼻についたのかもって思うから、これから気をつけるから、だから」

 もう一度食い下がろうとした私を有末は激しく首を横に振って制した。

「もうやめてくれ」
「じゃあどうすればいいの」

 空いた口から何もかもが抜け出ていってしまいそうな気持ちで私はそう聞いた。有末は一瞬何故か嬉しそうに笑った。露悪的な笑みだった。その笑顔のまま、有末はこう言った。

「俺の前から消えろ」

 目の前にいきなりどんと黒い幕が降りたように思えた。消えろ。その言葉が意味をなして頭に入ってこなくて、私は呆けた。消える。何を何処にどういう風に。私は涎が落ちそうなくらいに口を空けてそれを考えていた。有末の言った言葉をもう一度頭の中で組み立てようとした。けれど、それが出来上がる前に、有末はもう一度言った。

「俺の前から消えろよ」

 有末が指差す部屋のドアを私は呆然と眺めた。もう一度、首を回し、有末の顔を見上げた。二回目でようやくその言葉の意味がわかった。けれど、その言葉を有末が言った事が信じられなかった。嘘だよね。そう聞き返したくて私は口を開いた。けれど、その言葉を発する前に、有末がまた壁にどんと額をつけた。そして、もう一度、消えろよ、と言った。

 私はそれを口を空けたまま聞いた。私の浅い息継ぎの音だけが部屋に響いていた。

 それから、私はその部屋を出た。去り際、有末が言った言葉は、あの写真集も持っていけ、という一言だけだった。
 
 それからこの島に来るまでの間。あの頃、私が覚えているのはアスファルトの色と自分のつま先が進むさまだけだ。今でももし描けというなら、あのひび割れや変色、歩行者用の白いラインがどんな風に走って何処で途切れているのかを描けるだろう。それぐらいずっと下を見ていた。他には何も見えなかった。体をただ巻き込むように丸めてただ泣き叫びたいだけなのに、どうして歩けるのか自分でもわからなかった。

 それでも私は絵を描こうとした。私には有末の部屋とカメラマンの事務所と大学くらいしか行く場所がなかった。有末とはもう会えず、カメラマンは気にしなくてもいいと言ってくれたもののあの事務所に顔が出せる筈がない。そうなると大学で絵を描くしかなかった。幸い、作品が溜まったら個展を開こうと言ってくれたキュレーターがいた。次の絵を是非買いたいと言ってくれた画廊の店主もいた。私はそれにすがりついた。それぐらいしかやる事がなかった。

 けれど、私はそれすらも出来なかった。キャンバスの前で私はただ呆然と座り込むばかりだった。描こうとした。無理矢理に描こうとした。けれど一本、線を引いただけでこれでは駄目だとわかった。広がりもない、輝きもない、息がない、生きていない。

 『世界の全てを驚きを持って見詰めていた幼い頃を思い起こさせる』『ありふれた風景に美しさを吹き込む奇跡のような視点』。賞で評された私の絵の美点が欠片もない絵だった。

 それでも私は描き続けた。こんなものは違う。そう思いながらも、延々と私は醜い線を描きつらねた。その間、ずっと、自分の体に自分でナイフを突き立てているような気持ちだった。どうしようもないもの、醜いものを作り出しているだけ。そう思うといつも有末の顔が浮かんだ。あの時の般若のような有末の顔。

 私が寒いといったらいつも毛布を三枚も出してきたような有末に、あの顔をさせたのは私なのだ。雪だと言って、何度も見慣れている筈の雪だというのに、初雪だと言って喜ぶような彼に、あんな悲しい言葉を言わせたのは私なのだ。私が有末を醜くした。綺麗なものは誰の心の中にもあると言った有末をあんなにも醜くした。何も怖い事なんてないと言った彼をあんなにも辛い気持ちにさせた。あの絵、あの賞を取った絵さえなければこんな風にならなかった。あの絵、あんな絵など描かなければよかった。でも、あの絵は。
 
 私が賞を取った絵は、雪の絵だった。あの頃、あの時、雪だと言った有末が見せてくれた、初めて私が美しいと思えた雪の絵だった。
 
 消えたかった。もう、何処かに溶けるように消えたかった。ただ雪のようにただふわりと何もなかったように消え去りたかった。忘れたかった。忘れられたかった。もう誰からも思い起こされる事もないようにいなくなりたかった。作品が溜まったら個展を開こうと言ってくれたキュレーターとも、次の絵を是非買いたいと言ってくれた画廊の店主とも連絡を絶った。大学に休学届けを郵送で出し、教授からかかってきた電話も、カメラマンからの電話も捕らなかった。たかが男の事で逃げたんだ、あいつは。そう周りに言われている事は予想がついた。けれど、どうしても駄目だった。

 そんな時に、カメラマンから私に電話が来た。有末の行方を知らないかという電話だった。ずっと多忙だったカメラマンは久々に休暇をとり、家族との長期旅行へ行ってきて、帰ってきたばかりだと言った。

「旅立つ前、しばらく声かけないかもしれないけどまたよろしくなって言ったんだよ。その時、あいつ、何かどっかに消えちゃいそうな顔で笑って。そうしたら、お前と別れたって話も聞いて。お前も全然外に出てないみたいだし、何だか心配でさ。お前、あいつの居場所知らないか」

 受話器が、持ちきれない程に重く感じた。手から滑り落ちてしまいそうだった。私は震える手でそれを支えながらこう言った。

「多分、消えたいんだと思います」

 私が、なのか、彼が、なのか、もしかしたら二人共。続く言葉は言わずに電話を切った。

 消えろ。彼の言葉は私の中に映って、今度は私が私にそう言っていた。消えろ。もう絵だって描けないのに、もうアスファルトの色しか見えないというのに、だから、こんな風に何もかもに背を向けて、消える準備をしたというのに。まだ、消えない。

 消えられなかった私は雪の降る場所にもういたくなくて、だから、この島へ来た。
 
 けれど、私はこの島に来た瞬間に驚いたのだ。そう、島に来た瞬間、那覇からの船のタラップを降りた瞬間に、私はいとも簡単にこの場所を綺麗だと思った。胸にしみつくアスファルトの色は、この島の景色が消してくれた。そして、やがて、目に映る景色全てが、綺麗だと思えた。この島が、ここで会った人々が、そしてここにいる事が。
 
 美優は畳に突っ伏したまま泣いていた。もう声は枯れ果てていた。がさがさという音がしそうな声で美優は幾度もしゃくりあげていた。私は、美優の側に行き、震える肩に手を置いた。

「美優。駄目だよ。このままじゃ。このまま出て行ったら後悔するよ。ずっと同じような事しちゃうよ。そんなんじゃ駄目だよ。そんなんじゃ悲しいよ」
「もう今更」
「違う。もう、じゃないよ。ねぇ、一緒にいて楽しかったじゃない。拓巳と悠一と一緒に遊んで楽しかったじゃない。だから、もう一度、そうしようよ。そうなれるようにしようよ」

 美優は私を虚ろな目で見詰めた。

「許してなんかくれないよ」
「違う」

 私はきっぱりと言った。

「許したいんだよ」

 そう、私も拓巳も許したい筈だ。全部、嘘になどしたくはない筈だ。許せないものを抱いているのは残酷な事だ。一緒にいた時間全てを許さないでいる事だ。

 私は、美優の事を許したかった。あと一ヶ月。きっと今しかない時間だから。

「許したいの。だから、許せるようになってよ」

 その言葉に美優は虚を疲れたように顎を上げ、私を見た。私はもう一度頷いた。美優もそれにつられるかのように頷いた。私は、それに笑って美優の頭をなでた。

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私の作品紹介

忘れられない恋物語

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。