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【小説】it's a beautiful place[17]島にいる間は自分が綺麗になれたつもりでいた。でも結局私はこうなんだって。

17
 
 時刻は午後三時を迎えていた。風呂にも入っていなければ全く化粧もせず、食事もしていなかった私は、そろそろ部屋に戻らないと店への出勤準備に間に合いそうになかった。まだ美優と顔を合わせたくはなかったが、私は仕方なくアパートへと戻った。

 部屋の空気は暗く沈んでいた。私はそっとドアを開け、美優がいるかどうかを確かめた。美優は何処かへ出かけているようだ。ほっとしながら私は部屋へ入った。西側の窓から遠く夕陽が差し込んでいた。私は冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。昨日使いっぱなしで流しにおいていたコップが綺麗に洗ってあった。私は壁によりかかり、部屋を見回した。ちゃぶ台の上にアクセサリーを入れるトレイで押さえられた一枚の紙片があった。私はそれを手に取った。それには細く右上がりの美優の字で、こう書いてあった。

 『島を出ることにしました』

 私は目を見開いてその紙片を眺めた。収まっていた怒りがまた再燃してくるのを感じた。もう、駄目だ。私はすぐさま携帯を手に取り、美優を呼び出した。しばらくの呼び出し音の後、電話は留守番電話に転送された。私は手紙を読んだ、今すぐに部屋に戻ってと押さえた声で伝言を入れた。
 
 美優がそれから部屋に戻ってきたのは十五分後のことだった。私はそれまでに必死で自分を落ち着かせようと努力していた。しかし、その努力は、美優がドアを開けた瞬間に破られた。投げやりな調子で入ってくるなりに、美優はこう言った。

「今、オーナーと話してきた。帰りの旅費が出なくなっちゃうけど、OKだって。荷物整理したら出てくから」
「ちょっと待ってよ。なんでこの結論になるの? 美優、全然わかってない」

 私は鋭くそう言った。美優はそれを防御するかのようにふてくされた調子を崩さなかった。私がいる反対側の壁にもたれて座る。こちらを見ないまま、美優が言った。

「もういいじゃない。出てくんだから。もう放っておいてよ」

 目の下の筋肉が何かに操られているかのようにぴくぴくと動いた。胸の中にどろどろとした熱い塊が押し寄せてきた。額も今にも破裂しそうに熱い。こめかみの血管が緊張して張り詰めていた。持っていた麦茶のグラスを握り締める。麦茶の表面にさざ波がたっている。それで、私は自分が物凄く怒っているということに気付いた。このグラスを美優に投げつけてしまいそうだった。

 美優は相変わらず私の方を見ていなかった。全てに投げやりな何もかもにふてくされたような気配を漂わせ、窓の方を見ている。窓の下には化粧品を置いているカラーボックスがある。私は美優の視線を追った。香水のボトル。ファンデーションや基礎化粧品のボトル、がちゃがちゃと置かれたグロスやアイシャドウ、アクセサリー。そして、そこには龍之介がくれた珊瑚の欠片があった。

 馬鹿にしないで。その時、私が美優に対して一番最初に思ったのはそれだった。けれど、何を馬鹿にして欲しくないのかはわからなかった。私を、拓巳を。確かに今話している事はそうだ。けれど、私はその珊瑚の欠片を見詰めた時、自分の本心にようやく気がついた。私じゃない、拓巳じゃない。私が本当に馬鹿にして欲しくないのは。

「島を」

 ここが地元というわけでもない私が、こういう風に言ってもいいのだろうか。その言葉を言う前にはそんな躊躇いがあったけれど、そう口に出した瞬間、私の脳裏にはあっという間に今までの様々な景色が溢れた。

 美優と二人で何度も見た海が、メヒルギの影で食べたトマトが、一緒に干した洗濯物が、音の出ないテレビが、分け合った布団が、網戸の外れた窓が、客の来ない店でだらだら食べるお菓子が、海亀もダチョウも山羊もクマノミが、泊浜やクアージや町民体育館の裏の夜明けの海が、そして、拓巳も、悠一も、龍之介達も、その中にいた私と美優がいっぺんに脳裏によぎる。

「馬鹿にしないで」

 美優が部屋に戻って来て初めてこちらを見た。私は感情を抑えきれずにまくしたてた。

「ねえ、美優。誰かをそんなもんだって思っちゃ駄目だよ。私、昨日そう思おうとした。美優の事をだよ。もういいや、って、放っておけばいいやって、思おうとしたの。だけど、悠一が昨日言ったじゃない。『お前の泣くところ見たくない』って、拓巳に泣きながら。私、その時、自分が恥ずかしかったよ。私はそれで思い直したの」

 美優はぽかんとして私を見ていた。不思議とおどけたような表情だった。私は、自分がそうまくしたてながら、どんどんと感情が整理されていくのを感じていた。悠一が思うように私も思うのだ。それは当たり前の事なのだ。だけど、美優はそれに全く気付いていない。だから、私は美優を真っ直ぐに見て言った。

「私だって拓巳の泣く所なんて見たくないよ。だけど、私は、美優の泣く所も見たくないの」

 この二ヶ月。たった二ヶ月だけれども、私と美優は誰よりもお互い近くにいた。私の中にある島の風景にいつも美優は含まれていたのだ。島を馬鹿にしないで。私の言ったその言葉は同時に、美優の事も馬鹿にしないでという事だ。一緒にいた時間を馬鹿にしたくないという事なのだ。

 美優はガラスのような瞳をして私を見詰めていた。私は自分の瞳に力をこめて言った。

「私は美優にそんなもんだよなんて、周りの事も自分の事も思って欲しくないんだよ」

 私はそれを言って口を閉じた。美優は身動き一つせず私を見ていた。窓から差し込む夕陽が刻々と色を変え、夜へと近付いていく。電気もつけぬまま、私達はしばらく無言のままでいた。美優は相変わらず何も映さず自分の中だけを見つめている瞳をしていた。真っ黒なシャッターが下りたような瞳だった。夕陽が美優の頬を撫で、美優の顔に橙色の光の線が出来た。その瞬間、美優の目が激しく動いた。様々な感情がその目の中に去来していた。それが部屋の中と同じように静まり返った頃、美優はぽつりと呟いた。

「ずっと、同じ事、繰り返してる」

 夕陽は沈み、部屋は薄青い闇に満たされていた。赤く照らされていた美優の顔が段々と部屋の隅に沈んでいく。美優の顔からは全ての力が抜けていた。先程まで、美優は頑なに何もかもを拒否するかのように膝を抱え込んでいた。その姿勢も、今は壁にもたれ足をべたりと畳につけた脱力したものに変わっていた。美優の顎は心持ち上を向いていた。口は半分ぼんやりと開き、その顔は無心だった。私はその呟きに何も答えずに、ただ美優をじっと見ていた。何故か祈るような気持ちだった。美優は私と一度視線を合わせた。それから、首を横に振り、口を開いた。

「私、私ね。島に来たのも結局同じ理由だった。私、昔から自分の事を好きだって言ってくれる人のことを断れなかった。だから、いつも男が何人もかぶってた。いつも、それがばれて揉めて、そういうのが何度も続いて。もう地元にいたくなくて、この島に来たの」

 美優はそこで言葉を一度切り、私の方を見た。私は何も言わず、話を続けるように瞳で促した。思い切り全部話せばいいと思った。どんな話でもよかった。何も言わずに島を出て行くより、ずっとその方がよかった。

 美優がまた口を開いた。

「頭ではわかってるの。断ればいいって。でも、断れる程自分は偉いのかなって思うの。そこまで価値があるのかなって。好いてくれたなら応えなきゃいけない気がして。答えるには相手が望むようにすればいいのかなって」
「それは応えてるって事じゃないよ」

 そっと私はそう言った。美優は一瞬怯えて私のほうを見た。もう私からは責める気持ちは消えていた。美優も私の表情からそれを確認したようだった。静かに息を吐き、また話を続けた。

「わかってる。でも、もうそれでいいやって。そう思っちゃう方がずっと楽だから。考えなくていいから」

 考えなくていい。私は美優の言葉を胸の内で繰り返した。私も、もう考えたくなくて島に来たのだ。それでいいや、どうでもいいや。そう思えば全ては悩むようなものではなくなる。思考を止め、求める事を止めれば何もかもは遠く色褪せて見える。何もかもを無価値だと思えばいいのだ。そうすれば、もう何も悩む事はなくなる。何かを大切にする事も、求める事も止めれば、もう何一つ苦しむ事はなくなるのだ。

 美優が堰を切ったように話し出した。

「でも、私、私ね。もう嫌だった。私、いつも誰か止めてって思ってたよ。男といる時、笑いながら時計を気にして、次の男とどうやって会うか考えて、次の男と会ったら前の男から連絡来て、どうやってアリバイ作るかまた考えて。それに疲れて他の男に逃げて、そうしたら更に疲れるだけで、結局同じ事の繰り返しで、毎日、誤魔化して逃げて嘘つくだけで」

 これでいいやと思えば、簡単にどんどんと流されていくものだ。私には美優の気持ちがよくわかった。そして、流されていく内、知らぬ間に沖に出ていてそうしたらもう簡単には戻れなくなっている。忙しく移り変わる場所ではいつでもそんな機能が渦を巻いていて、一端巻き込まれるともう足を着く事すら出来なくなる。

 無言の私に、美優はかすれたような息を吐きながら、言葉を続けた。

「だから、全部リセットしてやり直したかった。この島で奈都ちゃんと会ってそういう気持ちがすごく強くなった。奈都ちゃん、最初に『島の男には気をつけて』って言ってくれたでしょ。嬉しかった。一人じゃ駄目でも、二人ならちゃんと出来るような気がした。だけど、一度、地元に戻ったら、もう駄目だった。戻ってすぐ近所で前の男と偶然会ったの。地元では私、どうしようもない女って言われてる。いつでもやれる女、誘えば断れない女って。前の男も私の事そういう風に見てる一人だよ。お婆ちゃんの葬儀の後、喪服のまま来いよって言われた。断るなんてないだろう、って感じで」

 美優が自分の胸をどんと叩いた。お婆ちゃん、と噛み締めた唇の隙間から声が漏れ出た。美優はきっとお婆ちゃんの事をとても大切に思っていたのだろう。けれど、その時、その男は美優の心を何も汲もうとはせず、そう言ったのだ。何処かの下衆なアダルトビデオのような事しか頭になくそう言ったのだ。

 美優が歯の跡がついた唇を開け、また言葉を続けた。

「その時、私、思ったよ。島にいる間は自分が綺麗になれたつもりでいた。でも結局私はこうなんだって。そんなもんなんだって。一人と会ったら全部がどうでもよくなったよ。その後、私、八人と会った。一日で二人とかも」

 美優はそう言いながら、いつしか泣いていた。私の目の端にも涙が滲み出していた。美優は自分の膝を握り締めていた。暗い中でもその爪が刺さって膝が赤くなっているのがわかった。私は喉を詰まらせながら言った。

「そんなもんなんかじゃないよ」

 美優が唇を食いしばりながら泣いていた。その隙間から嗚咽が漏れ出た。私はそれを遮るように言った。

「拓巳は、あの時、美優と何もなかったのに、車出して必死で飛行機手配してくれてたじゃない」
「知ってる」

 かみ締めた唇の間から、喉から搾り出すように美優は言った。

「でも怖くて」

 畳に突っ伏し、美優は叫ぶように言った。

「戻って来てなんて、待ってるなんて、奈都ちゃんにも拓巳にも言われて、嬉しかったから、すごく嬉しかったから、怖くて怖くてどうしていいかわからなくて」

 美優がばっと顔を上げた。涙と涎とでぐちゃぐちゃになっていた。暗い部屋の中、美優の瞳だけがぎらついていた。その瞳があちこちを彷徨い動いた。手はだらりと垂れ、力をなくしたままだ。幾度か唇を震わせた後、美優は自嘲するように笑った。そして、静かな声で続けた。

「戻って来て船から下りた瞬間、拓巳の顔見てごめんなさいって思った。拓巳に好いてもらう資格なんて私にはないって思った。幸弘にもそう。幸弘にもそんな風に思ってもらう資格なんてないって思った。そう思ったらもうどうでもよくなって」
「どうでもよくなんか」

 私は美優の言葉に口を挟んだ。しかし、その言葉は途中で掻き消えた。美優の静かに鏡のようになった瞳から音もなく涙が落ちていった。畳の上に大きな染みがついた。

「逃げたくて逃げたくて逃げたくてここまで来たの」

 美優が静かな声のまま、そう言った。そして、何かを宣告するかのような口調で、こう続けた。

「でも結局また同じ事繰り返してる」

 それだけ言って、美優はまた畳に突っ伏した。広がる髪の間から、咆哮のような泣き声が聞こえた。私は目を伏せてその声を聞いていた。泣き声はいつまでもやまなかった。

 逃げたくて逃げたくて逃げたくてここまで来た。その言葉を私は胸の内で繰り返した。その言葉は、そっくりそのまま自分にも当て嵌まっていた。
 
そう、私も逃げてきたのだ。雪から、雪の降る街から、初雪を喜ぶあの人から。

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私の作品紹介

忘れられない恋物語

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。