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【小説】it's a beautiful place[27]一分一秒すら惜しむような気持ちで誰かを見詰め、ただそれだけでいいと思うこの気持ちが、今ここにあった。

27
 
 最後の日くらい、このアパートにいよう。そう言い合って私達は残っていた焼酎を飲み干し、冷蔵庫の余りものを食べ尽くした。朝方、クアージでの仕事を終えた悠一が拓巳と連れ立ってやって来て私達に大きなアルミホイルの包みを渡した。

「俺は仕込みで見送り行けないからさ。これ、大したもんじゃないけど餞別。うちのマスターが船の中で食べろってよ」

 包みを開けてみると私達がクアージでいつも食べていた、茄子のチーズ焼きやほうれん草のサラダが入っていて、私達は悠一に抱きついてお礼を言った。

 港までは拓巳が車で送ってくれた。私達はデイパックを持ち、空っぽになった部屋の写真を撮った。

「いつか別荘としてここ買い取ろうよ」
「ね。でも次に台風きたらここ倒壊してそう」
「確かに」

 そう言いながら私達は部屋の鍵を閉める。鍵はポストに入れておく。オーナーへのお礼の手紙も一緒に入れておいた。外階段の上にある洗濯機と物干しに衣類を忘れていないか確認する。重いデイパックは拓巳が二つとも車に積んでくれた。早くせんと船間に合わんよ。拓巳が車からそう叫んだ。

 ぎしぎしと鳴る階段を下りる。この格好で東京は寒いかな。そう言いながら私は半袖にパーカーを羽織っただけの服装を美優に見せる。空港着いたらすぐ家に戻りなよ。そう言って美優は笑った。きっと着いたらすごく買い物しちゃうよ、と美優は言う。そうかも、服選べなかったもんね、島じゃ。そう私は返す。拓巳はいつものように自販機で私達の分のジュースを買っている。投げられた缶を私達は上手にキャッチする。そして、車へと乗り込んだ。

 さとうきび畑、煌いては遠去かりまた現れる海、精糖工場から流れる甘い匂い。来た時と同じように対向車ゼロのこの道路。拓巳は思い切り車を飛ばしていた。私達は窓を開け、島の風を吸い込んだ。

 拓巳の車からはラルフローレンの香水の匂いがして、この車に乗るのもこれが最後だと私は気付いた。拓巳の痩せた後頭部を眺める。まだ実感が湧かない。けれど、今通る道を通る事はもうないのだ。あったとしてもきっと随分先になる。こんな風に当たり前のように海を見る事も。

 車窓が過ぎ去っていくのが早い。拓巳にもっとスピードを落としてと言いたい気持ちになった。けれど、船の出発時刻がもう近付いていた。

 右手に見える海に船影があった。あの船だ。私達はあれに乗って島から離れる。

 車が和泊へと近付いていく。このちゃちな商店街ですら狂喜して買い物をしていた私達。龍之介と偶然会った真二の店の前を通る。あの頃はこんな風に自分がここを出て行く事など考えもしなかった。港の前の倉庫街。この中に龍之介が働くマルがあって、龍之介の家もある。この道。タクシーの中。躊躇いながらも龍之介の家に向かった。帰る事を既に決めていた癖にあの時はそれを考える事すら出来なかった。こんな風な気持ちでこの道を通る事など思いもしなかった。

 今、思い浮かぶ事はただ一つだけ。

 会いたい。もう一度、会いたい。

 いつも、そうだった。例えば、和泊港で偶然に出会って「龍之介!」と叫んだ時、私を見つけて満面の笑みを浮かべる龍之介を、ただ一目見られればそれでよかった。惚れた欲目だと自分でも思う。けれど、龍之介は、島で一番、青い空が似合う男だった。何処までもすこんと抜けるように馬鹿っぽいくらい青いあの空みたいな笑顔で、私に、その瞬間だけは私だけに手を振る。それだけでよかった。その瞬間だけでよかった。

 きしむくらいに日に焼けた頬で何度も笑った。砂浜の熱さに騒ぎながら走った。約束した珊瑚をくれた。和泊から知名へと行く何人もが詰め込まれた車の中でそっと手を握り合った。真二の店で偶然に会った。誰もいない港で抱き合った。いつでも、空が海が青かった。

 今日、島を出る日も空は晴れていた。けれど、島に来た日よりも空はずっと秋に近い透明な色をしていた。強い風に雲が流れていく。こんな時でも島の空は馬鹿みたいに広くて、全て世は事もなしなんて言葉が思い浮かんだ。そう、いつだってどんな時だって、空と海を眺めていればいつでも心がほどけて、そんなのなんて事はないよ、と私はいつも笑っていた。けれど、この感情だけは、どうしても空と海に溶けてはくれない。

 会いたい。もう一度、会いたい。

 港に向かって曲がるまでの道、私は後ろを振り向き、和泊の町をずっと見ていた。

 荷物を車から降ろしたら、後は乗船の合図を待つだけになった。私達は港を意味もなくぶらついた。

「なーんか波荒れてるけど大丈夫かなー」

 拓巳は呑気にそんな風に言っていた。私は振り向きずっと島の町並みを見ていた。

「これで出航できんとかだったら笑うな」

 拓巳が一人呟いた。そんなのは無理だ、と私は思った。もう一度、知名から港まで車を走らせるなんてもう出来ない。胸の中から記憶が溢れ出しそうで、もうこれ以上詰め込まれたらぱんと破裂してしまいそうだった。

「奈都ちゃん」

 美優が私の肩を叩いた。町を見ながら自分の思考に入り込んでいた私はそれに気付かずしばらくぼうっとしていた。美優が私の肩を掴み、港の方を向かせた。

「あれ」

 美優が指差す先にいるのは、フォークリフトに乗った龍之介だった。

 私は龍之介を見詰めた。龍之介はまだ私に気付いていなかった。大きなフォークリフトを自在に操り、荷物を運んでいる。見せるのが恥ずかしいといったあの制服姿で。

 あの制服姿で珊瑚を探してくれたのだ。私はそれを思い出した。あの制服姿で短い休憩時間の間、砂浜を必死でさらって。

 龍之介が歌った『島人ぬ宝』を思い出す。あの曲を聴く時、いつも私はこう思っていた。島人には宝がある。けれど、私に宝はあるのだろうか。私には、帰る場所など何処にもなかったから。宝だと誇れるような場所など何処にもなかったから。

 けれど、今、フォークリフトを操る龍之介を見ながら、私はようやくわかったのだ。
 
 宝物はこの人だ。

 そう、それは美優も拓巳もこの島で起きた全ての事がきっとそうなのだ。
 
 私は何も言えずに龍之介をただ見上げていた。美優が私の手を引っ張った。

「行かなきゃ」

 美優が言う。

「でも」

 そう言いかけた瞬間、美優が私の手を更に強く引っ張って言った。

「知らない」

 そして、美優は龍之介に大きく声をかけた。

 フォークリフトの上に乗る龍之介は私の頭上十五メートル先にいた。一瞬驚いた顔をした後、いつものあの笑顔をした。あの皺くちゃな、心底嬉しそうな掛け値のない笑顔だ。

「ちょっと待っとけ」

 そう言って龍之介は場所を移動した。倉庫の影にある駐車スペースにいったんフォークリフトを止めるようだ。美優が更に私の手を引っ張り移動しようとした。私はそれに引きずられて龍之介の所へと向かった。

 フォークリフトの影にいる龍之介を見つけた瞬間、私は走り出していた。龍之介が腕を広げて私を待っていた。今この時、この先の全てがどうでもよかった。私は龍之介の腕の中に飛び込んだ。

 制服の胸は湿った感触で、汗の匂いがした。龍之介の腕は相変わらず長く、私の体をすっぽり包んだ。手のひらが頭に乗せられる。自分の頭が小さなボールになったような気持ちになる大きな手のひらだ。

 私は龍之介を見上げて言った。

「見送りなんて来てくれないと思ってた」
「馬鹿、言ったろ。男は女を見送るもんだって」
「仕事中でしょ」
「いいっちょ」

 そう言って龍之介は私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。髪が乱れる、と私は笑った。乱れとけ、と更に龍之介は私の髪をかき混ぜた。私も龍之介の帽子を取ろうとするも腕で阻まれてなかなか出来なかった。ずるい、と私は言った。実力よ、と龍之介が笑った。

「私達の荷物、運んでくれた?」
「おうよ。任せとけ」
「貴重品入ってるから大切にね」

 私がそう言うと、龍之介は額から落ちる汗を拭いながら笑って言った。

「ったく、これだから東京の女は。高いもん身につけやがって」
「違うよ。龍之介から貰った珊瑚が入ってるの」

 額を拭っていた手が落ち、龍之介の目がきょとんとして、一瞬止まった。瞳には私の姿が大きく映し出されている。ばちりと大きく龍之介が瞬きをする。その目が大きく揺らいで見えた。

 私は慌てて龍之介の額に自分の額をぶつけた。勢い余ってごつんと音がした。けれど、龍之介はそれに構わず私の頭を両手で持った。唇が近くなる。互いの息がかかる。互いの瞳が一瞬迷う。けれど、私達は同時に唇を重ねた。唇が潰れるかのような激しいキスだった。

 互いの唾液で濡れた唇を少し離し、私はからかうように笑って言った。

「港でこんな事して明日には島中の噂になってるかもよ」
 龍之介は私のその言葉につんとした調子で答えた。
「噂の男か。格好いいっちょ」
「馬鹿」
「何よ馬鹿って」
「嘘よ。龍之介は最高だよ。ミスター宅配便だよ」
「どうせならミスター沖永良部って言え」

 私は、それに喉をそらして笑って、そうしたら龍之介が私をまたぎゅっと抱き締めた。両腕で頭を抱え込まれ、何度も体を揺らされる。それから龍之介は私の顔を上げさせ、頬をそっと撫でた。

 見詰め合う瞳の奥、そのまた奥に同じ気持ちがある事を知っていた。頬に触れる指先の硬い感触も、腰に回された手のひらの熱い温度も全てが焼き付けるように体に刻みついた。

 首筋の後ろを太陽がじりじりと焼く。

 空が今日も青い。きっと、この島の空は今日も明日も明後日も青い。

 会えてよかった。私は、今、心からそう思った。出航までもうあと数分もない。また島に来る事は出来てもそれはずっと先の話で、今の龍之介と今の私が出会う事はきっと二度とないのだ。けれども、今、その全てがどうでもよかった。一分一秒すら惜しむような気持ちで誰かを見詰め、ただそれだけでいいと思うこの気持ちが、今ここにあった。
 
 そう、そして、ただそれだけが、いつでもいつの時も全てなのだ。
 
 船の上から船員がタラップを下ろした。乗船客が一斉に動く気配がした。もう出発の時間が迫っている。私は龍之介の胸をそっと押した。

「奈都」
「龍之介」

 私は、無理矢理に口角を上げて笑った。龍之介にも笑って欲しかった。龍之介がそれに応えて笑った。その目尻の皺が寄っていくさまがスローモーションのように見えた。そのさまを、見られるものならいつまでも見ていられると思った。

 龍之介の手が私の背中を押した。美優は既にタラップの前まで荷物を運んで私を待っていた。拓巳がその横に私の荷物を持って立っていた。私は、龍之介に背を向け、そこに向かった。そして、拓巳と美優と三人で抱き合った。

「本当にありがとう」

 拓巳に向かってそう言うと、拓巳は手のひらで鼻水を拭ってうんと答えた。

 後ろを振り返り、龍之介を見た。フォークリフトにもたれて、龍之介はただ私をじっと見ていた。私も龍之介をじっと見詰めた。もう乗船客は私達を残して全て船に乗り込んでいた。船員が上の方から私達を急かした。私達はタラップを上り始めた。

 船員にチケットを渡し、エントランスホールに荷物を置いてすぐに私達はデッキへと立った。拓巳がずっと船を見上げていた。龍之介がフォークリフトの前にいた。デッキから港までは三十メートル程も離れている。二人が小さく見えた。それでも、手を振った。何度も手を振った。

 まだ目の前にいるのにもう会えない。もう声も届かない。触れない。話す事も出来ない。甲板から港までの距離で、私はそれをようやく実感した。手すりをぎゅっと掴んだ。少しでも距離を減らしたくて身を乗り出した。おい、危ないっちょ、と拓巳が船の下から叫んだ。けれど、そう叫ぶ拓巳も泣いていた。

 龍之介がフォークリフトの前に座り込んだ。膝に顔を埋めていた。嫌だ、泣かないでと私は胸の内で叫ぶ。最後だから笑った顔を見たいのに。

 汽笛の音が鳴る。錨が船に巻き込まれて消えていく。エンジン音が響き、船が揺れた。そして、船が港を離れた。ごうっとスクリューが鳴る音が下から響いてくる。足元が波と同じ間合いで揺れていた。

 拓巳が港を横切り、沿岸を走り出した。何だか滅茶苦茶なフォームの走り方だ。私と美優はそれを見て、泣きながらも少し笑った。それを追い越していく影があった。龍之介だ。

「町民運動会より早いじゃない」

 私は涙の間から一人呟いて笑った。龍之介に向かって、両手を思い切りぶんぶんと振った。龍之介も大きく手を振った。奈都。唇が呼んだ。でも、もう声は聞こえなかった。龍之介。私も名前を呼ぶ。届かないと知りながらも。

 美優は、静かに泣いていた。

「拓巳」

 そう呟く声がする。随分遅れていた拓巳がようやく龍之介に追いついた。手足のペースがばらばらのみっともない走り方で手を振りながらひたすら走っている。そして、拓巳はそのまま、沿岸部の縁まで行き、海に飛び込んだ。

「えっ」

 涙を一瞬止めて、私と美優は顔を見合わせた。水面は一度泡立ち、静かになる。拓巳が一向に浮かんでこない。

「ちょっと」
「え、拓巳」

 私達が叫んだ瞬間、拓巳がばっと水面から顔を出した。その顔はぐしゃぐしゃで、けれど、そこには満面の笑みが浮かんでいた。

「何、もう拓巳」
「あいつ財布とか携帯とか大丈夫かな」
「ちゃんと陸に置いてくるなんて発想はなさそうだよね」
「もう、本当馬鹿なんだから」

 私と美優はそう言い合って拓巳を指差した。拓巳がそれに答えて水面から手を振った。

 龍之介の手を借りて、拓巳が港にあがったところで船が曲がり始めた。もう二人の姿は小さなシルエットになっていて、どちらがどちらだか見分けがつかない。船は那覇に向かってゆっくりと曲がっていく。二人の姿が視界から消えていく。

 私達は、沖永良部島の島影が消えるまでデッキに座っていた。和泊港から知名を通り過ぎ、船は那覇へと向かっていった。遠去かる島影にちぎれるほどに手を振り、声をあげて泣いた。私達の美しい島が消えていくまで。
 
 

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私の作品紹介

忘れられない恋物語

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。