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【小説】it's a beautiful place[16]自分と付き合う事が夢みたいだと言ってくれた男に、何故そんな風に言えるのだろう。

16
 
 夜も八時を過ぎた頃、店の電話が鳴った。サリさんが電話を取るとそれは美優からで、今日は体調を崩したので休むとの事だった。今日、具合悪そうだった? とサリさんに聞かれ、私は別行動だったのでわからないと告げた。何処かの打ち上げで盛り上がって店に出勤するのが嫌になって仮病でも使ったのだろうか。たまにはそういう事もあるだろう。私はそう思って、サリさんが話す知名の運動会の様子に耳を傾けた。

 打ち上げから流れてきた客で店は盛況だった。私達はばたばたと動き回り、店は営業終了する一時まで満席だった。いつもより早く起きたので私は猛烈に眠かった。私は目をこすりながらアパートの階段を登った。

 今にも崩れ落ちそうな階段を疲れた足で登っていく。鉄製の階段はサンダルのヒールでかんかんと鳴った。廊下の一番奥にある部屋へと向かおうとした所で、部屋の前に人影があることに気付いた。両膝の間に顔を入れるようにしてうずくまっている。まだらの金髪に見覚えがあった。人影がばっと顔を上げた。拓巳だった。

「何してんの、そこで。今日もうち泊まるの?」

 いつものように私は拓巳に声をかけた。拓巳はぼんやりと私の顔を見た。その顔は何かが抜け落ちたように弛緩していた。頬がこの前に会った時よりも格段にこけている。目も青黒い隈の中に落ち窪んでいた。そして、その目の端が濡れていた。私は拓巳のただならぬ様子に息を呑んだ。

「え、何、どうしたの? え、何? 美優は? 部屋にいないの?」

 私は戸惑いながら、拓巳に聞いた。拓巳は力なく上げた顔をまた膝の間に伏せ、ドアを指差して言った。

「開けてくれん」
「え?」
「いるけど、開けてくれん」
「なんで」
「さっきから何度も頼んでるっちょ、だけど開けてくれん」

 拓巳は振り絞るような声でそう言った。
 私はうずくまる拓巳の前に立ち、バッグから鍵を取り出した。ドアに向かって声をかける。

「美優いるの? とりあえず開けていい?」

 そう言うとドアの中でがちゃがちゃという音がした。廊下に面したすりガラスの向こうに人影が映る。美優がドアの近くに来たのだろう。ドアの向こうで、美優は枯れた声で言った。

「奈都ちゃん、拓巳を帰して」

 震えながらもきっぱりとした口調だった。私はそれに驚いた。どういう理由でこうなっているのか、さっぱりわからなかった。拓巳が美優の言葉に弾かれたように立ち上がった。ドアに両手を突き、必死の形相で言う。

「なんでよ。嫌よ。話したいっちょ。何もせん。話すだけっちょ」
「嫌なの。帰って」
「嫌って。俺、怒ってないっちょ。ただ話聞きたい。なぁ、お願いだから話してっちょ」
「嫌。帰って」

 拓巳はドアにすがるように話しかけていた。腰を曲げ、まるで瀕死の犬のような姿勢で、ドアに手をぴたりと貼り付けていた。髪をかきむしりながら、ドアについている防犯用レンズを見上げている。少しでも届くように一目でも会えるように願っているかのように見えた。

「お願いっちょ」

 拓巳がもう一度そう言った。断末魔の声のような響きだった。私は思わず拓巳を押しのけ、ドアの前に立った。軽くノックをして言った。

「ねぇ、どうしたの? 何があったか知らないけど、ここまで言ってるのになんで」
「ごめん、とにかく」

 美優の言葉が終わる前に拓巳が言った。

「全部、嘘だった?」

 私を押しのけ、拓巳がドアに張り付いた。私はよろめき、呆然と拓巳を見た。拓巳はドアに手を顔を擦り付け、叫んだ。

「なぁ、全部嘘って事?」

 ドアの向こうの沈黙が重みを増したように感じた。美優は拓巳の言葉に何も答えない。廊下の隅に転がっていたジュースの空き缶がかたんと音を立てた。それに背中を押されたかのように拓巳が一気に言った。

「でも、いい。俺、そんなの信じないっちょ。俺、他の誰に何言われたって信じない。美優が言ってくれた事、全部信じる。だから何も怖い事ない。何も言わん。だから、お願い、話して。お願いよ」

 悲痛な声でそう一気にまくしたて、拓巳はそのままずるずるドアの前に折り崩れた。私はドアノブを注視した。冷たく光るドアノブはそれでも動かない。私は鍵をそれに回し入れた。きしんだ音をたててドアが開いた。

 美優は部屋の隅にうずくまっていた。部屋の明かりはついておらず、暗い部屋の中、美優の体だけがぼんやり浮かび上がっていた。拓巳は放心したように玄関に蹲ったままだ。私は美優の前に立ち、言った。

「何があったか知らないけど、二人で話してきたら」

 美優が私の顔を見上げた。拓巳と同じように放心したような顔だった。

「ほら」

 私は、拓巳の方を指して美優を急かした。亡霊のように美優がふらふらと立ち上がった。そのまま、何も言わず出て行こうとする。私はその後姿に声をかけた。

「もう夜で風が冷たいよ。これ羽織りなよ」

 近くにあった美優のパーカーを手渡した。美優はそれを受け取りながらも相変わらず放心したような顔のままだった。私の方を向いたまま動かない。私は美優の肩を掴み、くるりと拓巳の方を向かせた。その瞬間、美優の体が強張った。けれど、私はそれに気付かない振りをした。

「廊下で話すと近所迷惑になるから、町体とかで話してきて」

 そう言って私は二人を外へと送り出した。
 
 一体どういう事なのかまるでわからなかった。私が、拓巳と会ったのは美優が島に戻ってきた日以来だった。あれから、十日が経過していた。その十日間の間、二人に何があったのだろうか。今日、美優と二人で和泊の体育大会に行った事が遠い昔のように思えた。知名の体育大会で何かあったのだろうか。どんなに考えてもどうしてこんな事になっているのかは皆目わからず、時刻はもう二時近かった。いきなりの修羅場に眠気は既に吹き飛んでいたが、私はとりあえず化粧を落とし、部屋着に着替えた。

「奈都ちゃん」

 控えめなドアのノックの音に続いて、声がした。美優でも拓巳でもないが、聞き覚えがある声だった。私は上着を羽織り、ドアを開けた。そこにいたのは悠一だった。

「悠一。どうしたの? 何かさっき拓巳がいて、美優と理由知らないけど揉めてて。とりあえず、外で二人で話しなよって言ったんだけど、何が何だか全然わかんないよ。何かあったの?」

 玄関先でそう言った私に悠一はしっと人差し指を立てた。私もあたりを見回し、口を閉じた。とりあえず入ってと私は悠一を招き入れた。

 ちゃぶ台の前に座り、悠一はポケットから煙草を取り出した。灰皿をちゃぶ台に置き、私は何か飲む、と悠一に尋ねた。悠一は、焼酎、と言いかけ、いや、お茶でいい、と言い直した。私は怪訝な気持ちになりながらも、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いだ。悠一はいつも穏やかで、私は彼に対して入り江の中の海のような凪いだ印象を持っていた。だが、今の悠一は珍しく感情を見せていて、しかし、それを必死で抑え込もうとしている様子だった。私は、急かすような言葉は言わず、悠一が話し出すのを待った。煙草を一本吸い、悠一が口を開いた。

「あいつ」

 吐き捨てるような口調だった。私はそれに驚いて顔を上げた。悠一は自分の強い物言いを恥じたかのように下を向いていた。しばらく無言が続いた。グレーのTシャツを着た胸が上下している。悠一が何度か大きく息を吐いた。それから、またぽつぽつと話し出した。

「あいつって言ったらいかんけど。どっちもどっちって言ったらそうだけど。奈都ちゃんの友達だしこう言うの嫌だけど。でも、あいつ、ちょっと、酷い」
「美優の事?」
「あぁ」

 悠一は苦々しげに頷いた。

「今、ちょっと名前も呼びたくない。ちょっとないわ。奈都ちゃんも拓巳があいつの事好きだったの知ってるだろ? 拓巳とあいつ、付き合ってたんよ」
「え」
「知らなかった?」
「うん、聞いてない」
「やっぱり」
「島に戻ってきてすぐそうなったらしい。拓巳は浮かれて、いろんな奴に言ってた。今日も体育大会で字の連中に紹介して。そうしたら、その中に幸弘先輩の親戚がいて」

 そこで悠一はまた言葉を切った。続く言葉は予想がついた。私は聞きたくはない事を聞かなければならないこの状態から逃げ出したくなったけれど、それが出来る筈もなかった。悠一が、また口を開いた。

「幸弘とも付き合ってたんだって、あいつ。それもちょうど同じ時期によ。島に戻って来てすぐ、その日の内に拓巳が告白して。それにOKしたと思ったら翌日には幸弘先輩と」

 悠一はそこで言葉を切り、息を吐いた。

「あの日、拓巳、馬鹿みたいに浮かれてクアージ来てさ。付き合う事になったってもう踊りながら言ってた。あの布団使ったって。夢みたいだって」

 あの布団、奈都は使うなよ。そう言ってはにかんで笑った拓巳の横顔を思い出した。車の中、みちみちに布団を詰め込んで持ってきた拓巳。美優が好きだと私に言って、照れるあまりにハンドルに突っ伏す拓巳。そうだ、きっと夢のようだったろう。あんな風に全身全霊で思い続けた相手がやっと答えてくれたのだから。

「今時、そんな言葉使うかって俺、思い切り茶化した。でも、拓巳、何度も言ってた。夢みたいって、何度も」
「拓巳」

 私は戸惑いながら口を開いた。

「今日、さっき、ぼろぼろの顔してた。美優、拓巳と話そうとしなくて。それで何度もドア叩いて。『全部嘘だった?』って聞いてた。すごい、悲しい声で」

 悠一が、あぁ、と呟き頭を抱えた。私は膝を引き寄せ、膝頭に顎を乗せた。胸が痛くてならなかった。馬鹿でお調子者で間抜けで浮かれたうるさい拓巳。拓巳のあんな顔を見たくはなかった。

「でも、拓巳、その後、それでもいいって、言ったの。嘘でもいい、って。美優が言った事、全部信じるって。でも、それでも美優、ドア開けなくて、私が鍵開けたんだけど」

 悠一の顔が一瞬歪んだ。だが、悠一はそれを何とか押さえ込み、麦茶を一口飲んだ。

「あかん、今、俺、怒りそうになった。奈都ちゃん全然関係ないのに。ここで俺が怒っても仕方ないのに」
「無理ないよ。そんなのってないって私だって思う」
「だよな」
「ないよ、そんなの」

 私はもう一度呟いた。同意するように悠一は首を傾け、頷いた。

 一緒に暮らしてはいるけれど、私は、美優の事など実は何一つ知らなかった。出身地と年齢、名前、知っている事と言えばそれくらいだ。だが、どんな過去があろうとしてはいけない事がある。少なくとも、私達が島に着いた日、最初から、あんなにも歓迎してくれて、あんなにも一緒にいてくれた拓巳をこんな風に傷つけてはいけない筈だ。

「何なのよ」

 私はそう呟いた。

「本当よ、なんであんな四人で楽しかったのに」

 悠一がそう答えた。

「そうだよ、あれ、ついこの前じゃん」
「そうよ。本当、なんであのままでいられんかった」
「本当だよ」

 私と悠一は矢継ぎ早にそう言い合い、それからまた口を閉じた。はぁ、と同時にため息が出た。二人で顔を見合わせて少し笑った。

「仕方ないよ。何時になるかわからないし。とりあえずもう飲んじゃおうよ」
「だな。もう、俺ら関係ないのになんでこんな巻き込まれてるんだか。もう知らん。飲むわ」

 私達はそう言い合って、私は店からくすねてきた期限切れボトルを取り出した。その場にある麦茶で焼酎を割り、私達は二人で飲み出した。
 
 飲み疲れて畳の上でそのまま眠った私と悠一が起き出したのは、もう夜も明けた時刻だった。拓巳と美優が部屋に戻って来ていた。私と悠一は目をこすり、二人を見た。

「何、二人で飲んでたの?」
「何よ、俺らも混ぜてっちょ」

 美優と拓巳がまるで何もなかったかのように、私達を見て笑った。寝惚けていた私と悠一はぼうっとしながら二人の様子を眺めた。

「二人で仲良く寝ちゃって怪しいな」
「まさか二人くっつくとか? 悠一、こんな髪型してるけど結構しっかりしてるっちょ。俺のお勧めよ」

 美優と拓巳は相変わらずそんな事を言って笑い合っている。昨日の夜の出来事は全部夢だったのだろうかと思ってしまうくらいいつもの調子だった。頭が働かなくていまいち状況が把握できなかった私は、ぼんやりとその場を眺めていた。すると、後方から悠一の低い声が聞こえた。

「俺らの事はどうでもいいっちょ」

 その声は明らかに怒っていて、私はそれに思わずびくりとした。いつも穏やかな悠一がいつになく怖かった。美優と拓巳もその声に恐れをなしたようだ。からかうような言葉が止まった。

「ちゃんと話したのかよ」

 悠一が低い声のまま、そう続けた。

「うん」

 美優が俯いた。拓巳が目をそらすようにしてそう答えた。

「本当に」

 悠一がそう食い下がった。

「話したっちょ」

 拓巳がもう一度言った。けれど、拓巳の顔は相変わらず心許ないような顔だった。話して何らかの納得がいったかのようにはとても見えなかった。美優は相変わらず下を向いたままだ。その様子はふてくされた子供のようで、私はそれにかちんと来た。美優はさっきから誤魔化すような言葉以外、一言も発していない。頼まれた訳ではないけれど、ずっと二人を待っていた私と悠一に、何か一言あってもいい筈だ。なのに、美優は何も言わないままだ。私は、俯いている美優を見た。美優はここにいる事が不服だというかのように畳の目を爪でいじっていた。

「本当なのかよ」

 悠一がもう一度繰り返した。

「大丈夫だってば。気にしないで」

 美優が一瞬顔を上げ、投げやりにそう答えた。その瞬間、悠一の顔が一気に膨らんだように見えた。怒りが今にも吹き零れそうに渦巻いている表情だ。悠一が口を開きかけた。だが、すぐに大きく息を吐き、何とか自分を抑えようとしていた。胸に手を当て、手近にあったグラスから麦茶を飲む。私はその悠一の様子を眺めながら、胸に諦めの感情がよぎるのを感じていた。

 もういい、と思った。こんな風に待っていてくれた悠一にも何も言わず、何事もなかったかのように誤魔化すなら、もういい。もう何かを言う気すら起こらなかった。美優は、どうせ後一ヶ月したら島を出るのだろう。一ヶ月だけの辛抱だ。たまたま一緒に住んでいるだけの関係だ。流して踏み込まずに付き合えばいい。拓巳もそれでいいようだし、もういい。もう知らない。知った事ではない。もう巻き込まれたりしない。

 そう思ったら拓巳も美優もぐんと遠くに離れて感じられた。切り捨てれば楽になる。そう思った。所詮、他人事だ。そうも思った。大体、なんで他人の事で私がここまで煩わされなければならないのだ。

 そう思った時、悠一が拓巳に詰め寄って、口を開いた。

「お前がいいなら、それでいい。それでいいけど、俺には本当の事言えっちょ。お前は俺に嘘はつけんよ。生まれた時からの付き合いっちょ。そうだろ」

 拓巳が目を見開いて悠一を見詰めた。悠一の目は血走っていて、拓巳の腕を掴んだ手には血管が浮いていた。悠一が息せき切るように言葉を続けた。

「お前、ここ最近、ずっと泣いてたろ」

 悠一のその言葉に拓巳はこくんと頷いた。悠一は、それを見詰め、一瞬苦しげに顔を歪めた。そして言った。

「俺はもうお前の泣く所、見たくないっちょ」

 私はその言葉に虚をつかれて、悠一と拓巳を眺めた。悠一はすがるように拓巳を見ていた。全く悠一は関係のない事なのに、自分まで心が痛いと言っているかのようだった。

 悠一が、もう一度言った。

「だから、本当の事言え。本当にそれでいいの?」

 拓巳はしばらく悠一の瞳を見詰めたまま、ぽかんとしていた。瞳が左右に揺れ動き、惑った。私と美優は息を呑んで二人を見詰めていた。拓巳が首をがくりと折り、小さな声で言った。

「よくない」
「だったら」

 悠一が美優を見た。美優はすぐさま悠一から目をそらした。自分が恥ずかしいのだろう、と私は思った。そして、私も、今の自分が恥ずかしかった。
「俺はもうお前の泣くところを見たくない」。悠一のその言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。それは、何もしようとせずにもういいと諦め、切り捨てようとした私の対極にある言葉だった。そうやって切り捨てるのは誤魔化すのと一緒なのだ。「全部嘘だったの?」。拓巳の言った言葉が脳裏をよぎる。

 今、私も、美優と過ごした時間を嘘にしようとした。もういい、どうでもいいと流す事は美優と過ごした今までも流すという事だ。拓巳と悠一のように生まれた時からの付き合いというわけではない。けれど、私と美優は二人でいて、二人でしか見られない景色を一緒に見た。何度も。それは、嘘じゃない。嘘にしてはいけないのだ。

「美優は?」

 私は掠れた声で美優に聞いた。

「私は」

 美優がそう言い掛けて言葉を止めた。拓巳が寂しそうに美優を横目で見た。

「嘘も誤魔化しももういい。本当の事、話して」

 私はもう一度、言葉を重ねた。

「いいっちょ、もう、俺は」

 拓巳が遮るように話に入ってきた。

「拓巳は黙って」

 私は拓巳の言葉を遮り、言った。これは、拓巳と美優の問題だ。けれど、これは私と美優の問題でもあるのだ。私は、美優の本当の気持ちを知りたかった。

「奈都ちゃんと二人で話したい」

 美優がそうぽつりと呟いた。拓巳が何かを言おうとしたが悠一がそれを制した。

「わかった。もう朝だし。俺達は帰るわ」
「でも」
「また今日の夜でも話せばいいっちょ。お前、大体、今日仕事だろ」
「仕事なんて」
「いかんって。とりあえず帰るわ。奈都ちゃん、ご馳走様」

 むずがる拓巳を引きずるようにして悠一は帰っていった。

 時刻はもう朝の七時を回っていた。子供の声が何処からか聞こえてきて、もう朝なのだ、と私は思った。美優はあれから一睡もしていないようだ。瞼が垂れ下がり、いかにも眠そうだった。

「とりあえず、寝ようよ」

 私はそう声をかけた。お互い体力の限界だろうと思ったのだ。しかし、美優は首を横に振った。

「眠れそうにない」

 私は台所に立ち、コーヒーを二人分入れた。いつものマグカップ。百円均一で美優がついた初日に二人で買った色違いのものだ。あれが二ヶ月前。それから私達はいつも一緒にいた。部屋で店で海でいつも、島と島人達の間でいつでも笑っていた。ちゃぶ台にコーヒーを置いた。どんという音が響いて、美優が一瞬体を強張らせた。私はその荒々しい音で私は自分がとても怒っているのだ、と気付いた。

「拓巳とはいつから」

 吐き捨てるように言った。美優は観念したかのようにぽつりと答えた。

「島に戻る前、電話があって。告白されて。島に戻ったら俺と付き合ってって言われて」
「幸弘とは」
「島から出る前。いったん東京戻るって言ったら告白された」
「それで」
「それで、戻って来て、そうしたら二人とも自分と付き合うものだと思ってたみたいでそのまま」
「何それ」

 冷たく言った私の言葉に美優は固まった。

「馬鹿じゃないの」

 私はまた言葉を重ねた。

「人のせいにしないでよ。何、その自分は悪くない、みたいな言い方。拓巳は一言も美優の事、悪く言ってないよ。でも、それはどう考えたって美優が悪いよ。そんなにちやほやされたい訳? そんな風に人の気持ち弄んで何が楽しいの?」
「違う」

 美優が初めて顔を上げて言った。その声は怒りを含んでいた。

「違わないよ。やってる事が現にそうじゃない。なんで、悠一や私に何も言わないで、何にもなかった顔が出来るの? 悠一、仕事終わってすぐうちに来てずっと待っててくれたんだよ。それなのに、適当に誤魔化して。あれはないよ」

 美優は俯き、また黙り込んだ。業を煮やした私は息を大きく吐いてコーヒーを飲んだ。なんて面倒な事をしているんだろう。自分でもそう思った。けれど、私はそれをしようと決めたのだ。今更後戻りは出来なかった。

「ごめん」
「いいよ、思ってないなら」
「思ってる」
「私に謝るんじゃないでしよ。拓巳と幸弘でしょ」
「もう謝ったよ」
「謝ればいいって話じゃないよ」
「じゃあどうすればいいのよ」

 美優がまた叫んだ。私は、部屋の隅にたたんであった、拓巳が持ってきた布団を指差し言った。

「拓巳、この布団持ってきた時、私に美優が好きなんだって教えてくれた。それで言ったの。この布団、奈都は使うなよって。すっごい照れながら、だけどすっごい嬉しそうに。悠一が今日言ってたよ。美優と付き合う事になって拓巳は夢みたいだって言ってたって。幸弘もきっとそうだよ。ねぇ、そういう気持ち、踏みにじった事がどういう事だかわかる? 応じられないのはしょうがないよ。それが人の気持ちだから。だけど、中途半端にいい顔して、面倒になったらなかった事にして。そんなのないよ。そんな風に簡単に人の事を扱っちゃ駄目だよ」
「なんでよ」

 美優が私を見据えていた。私が初めて見る、挑むような燃えるような瞳だった。

「男なんてそんなもんじゃない」

 美優がもう一度、こう繰り返した。

「男なんてそんなもんでしょ」

 目も眩むような怒りを感じて、私は思わず天を仰いだ。よくもそんな事が言える。心からそう思った。空港で祈るように美優を見詰めていた拓巳。和泊港で犬のようにきゃんきゃんといつ美優が来るかを待っていた拓巳。自分と付き合う事が夢みたいだと言ってくれた男に、何故そんな風に言えるのだろう。嘘でもいいと、嘘でも信じるとまで言ってくれた男を、何故そんなもんだなどと言えるのだろう。それ以上の何かが何処にあるっていうのだろう。こんな簡単な事、私達がこの島で毎日感じていたような事が、どうして美優にはわからないのだろう。

 怒りを通り越して、私は、悲しい気持ちになった。そんなもんだと思い続ける事は何ひとつ美優の中で喜びを生み出さないだろうから。

 私は、息を吐き、そっと言った。

「そんな風に、何でも、そんなもんだよって思って生きていくの?」

 美優の表情が止まった。何処かきょとんとした子供のような顔だった。瞳は何も映さず、自分の心の中だけを覗き込んでいるかのようだった。その鏡のような瞳が揺らいでいった。涙が目の幅と同じくらいの幅でぼたぼたと垂れていく。嘔吐を抑えるかのように美優が口に手をやった。

「ねぇ」

 私はもう一度聞いた。もはや、先程までの美優を責めるような気持ちはなくなっていた。ただ、私は胸に冷たい布が貼り付けられたような気持ちで、美優の事を悲しく思っていた。そんなものだよと誰かに対して思う事は、そんなものに囲まれている自分もそんなものなのだと何処かで思う事だ。私は、美優に怒っている。けれど、同時に、美優に自分の事をそんなものだとは思っては欲しくなかった。

 美優は何も答えないまま立ち上がり、サンダルをつっかけてドアを開けた。階段を駆け下りる音がした。私は美優を追わず、ただ、まだ半開きのドアを眺めた。陽がちらちらと刺して埃が宙を舞っていた。陽射しの色は夏特有の強い光からもう秋のものへと変わっていた。もう立ち上がりたくもないという気持ちを押さえ込んで、私はドアを閉めた。

 眠気は消えたけれど、体も心も鉛のように重かった。私は疲れ果てていて、しばらく美優の事は考えたくなかった。けれど、この部屋にいる限り、いつかは美優は戻ってくるのだ。そう思うと、もう一度寝直す事も出来そうになかった。

 私は適当にそのあたりにあった服を身に着け、外に出た。ほとんど睡眠をとっていない体が重かった。陽射しの暑さにくらりと来た。少し歩いただけで何処かに座りたくてしょうがなくなった。私は、一人でゆっくり出来る場所に行きたかった。図書館へ行こうとふと思った。図書館の二階には子供たちが絵本を読む為に作られたじゅうたんのスペースがあった。そこでなら眠れる筈だ。私は重い足を引きずって図書館へと向かった。

 大きく窓が開けた図書館からは、いつもの知名の海が見えた。今日の天気は曇りで、海はグレーの空を映し出すかのように何処か鈍重な色で凪いでいた。少し開いていた窓の風が肌寒くて、私は窓を閉めた。昼間に寒いなどと感じることは今までなかったというのに。まだ海にも入れる気温のこの島では今が十月だという事も忘れてしまっていたが、季節はもう秋の盛りなのだ。夏はとっくの昔に終わっている。

 島に来たばかりの頃。八月の真ん中を過ぎていたとはいえ、季節はまだ迷いなく夏だった。陽射しは濃く煌いて、サンダルを履いていても砂浜から熱気が押し寄せてきた。Tシャツの上からでも肩にかかる陽射しが熱くて痛かった。私は今自分が履いている美優が来てから一緒に和泊で買ったビーチサンダルを見た。花がついた完全に夏仕様のサンダル。ぴんとしていた花びらが砂や土ぼこりで萎れ、横についていた葉っぱはもう取れかけている。そう、もう夏も終わりなのだ。この島でも。

 無理矢理に引き伸ばしてきた夏にも時間切れが迫っている。美優との事で私はそれを実感した。ただ島を楽しんでいればいい時期は終わったのだ。いつまでもずっとここにいれたらいい。私はずっとそう願っていた。本当にずっといるつもりならば、そんな風に願わなくてもよかった。ここに残る事はとても簡単なのだから。けれど、わざわざそう願ったのは、きっと何処かで私はいつまでもここにはいられないと知っていたからではないだろうか。

 椅子の上に膝を立てて座り、私はしばらく海を眺めた。海は何かを溶かしてくれるんだよ。美優が言った言葉を思い出した。そう、きっと既に私は溶かしてもらったのだ。そう思いながら私は毎日見ていた知名の海をひたすらに見ていた。
 

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私の作品紹介

忘れられない恋物語

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。