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監獄としてのメディア - 形式の恣意性からの脱獄 -

この記事は Goodpatch Design Advent Calendar 2022 13日目の記事です。

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まえがき 豊かさを求めて

私にはデザイナーを続けていく上でのポリシーというかスタンスというか、そういう一つの軸みたいなものがある。
それは思想のバランスを維持するということだ。

たとえば、

  • デザインの力を信じる自分/デザインを心から疑っている自分

  • 良いUIの哲学を信じる自分/それは果たして我々人間のためなのかと疑う自分

などである。
常に両極端の姿勢を許し、同居させながら振り子のようにスタンスを切り替えなければ私たちは多面的なモノの見方はできないと思っている。そしてデザインを始めた本来の目的であった「豊かさを創る」という本質にはなかなか辿り着けない。

もう3年目となったこの活動もある種のバランスをとる行為だ。1年に一度自分を裏切る瞬間を意図的につくりながら、自身が普段考えていることを、自身で否定し、この一年のスタンスの調整をする。常に中立でありたいという気持ちでこれを書いている。

全体を通して小難しく書いてしまうのが自分の悪い癖なのだが、一貫して言いたいことは「豊かさ」や「創作」や「人間」を考えることなのかなと思う。普段私たちが提供しているモノが世界を豊かにしているのかという問いに向き合い、時には否定することでデザイナー人格とのジレンマを生み出す。

わたしにとっての豊かさはこのなんとも言えないジレンマの中にいることなのかもしれない。

失われたメッセージを求めて

世界で初めて描かれた絵は、今から4万5500年前の洞窟壁画だった。その絵が描かれた瞬間、世界こそが大きなキャンバスだったのだろう。また、その絵が何かのメッセージだったとするなら、世界は便箋そのものだっただろうし、世界こそがインターフェイスだったと捉えることができるのかもしれない。

MAXIME AUBERT

カナダの英文学者であり、『メディア論―人間の拡張の諸相 (1987)』の著者であるマーシャル・マクルーハンは「メディア論」において「The medium is the message. (メディアはメッセージである)」という言葉を残した。おそらくこれがマクルーハンを語る上で最も有名な言葉の一つだろう。あれから35年ほどの月日が経過したが現在までの間でかなり技術の進化がなされた。マクルーハンが「メディア論」を発表した頃にはもちろん今のようなポータブルデバイスなどは存在せず、社会実装される前のコンピュータがあるかないかくらいの時代であった。にも関わらず、マクルーハンはその時代から現在のスマートフォンと人間の生活を予言していたと言われることもしばしばある。

目にうつる 全てのことは メッセージ

荒井由実「やさしさに包まれたなら」

私たちがソフトウェアデバイスを使用して扱っている情報の大半はメッセージだ。この文章も読者へ向けてのメッセージだし、SNSのPostも動画配信サービスもメッセージ。しかしマクルーハンのいうメディアはメッセージであるという文脈の本筋は実は別のことを語っていた。

マクルーハンはメディアが持つメッセージは内容と形式の両方に存在していると考えていた。先ほど例に挙げたSNSのPostは内容としてのメッセージであり、私たちが想像する「メディア」というのはおそらくこれにあたるだろう。しかしマクルーハンの「メディアはメッセージである」の“メディア”は形式のことを指していた。GUIやスマートフォンといったハードウェアもメディアでありメッセージを放っているということだ。

またマクルーハンは、内容は常に形式によってあり方を決定づけられているとしていた。「Hello」という内容を手紙で送信するのか、メールとして送信するのか、SNSで投稿するのかでは、内容は一緒だが形式が違うのでそれぞれで受け取る時の感じ方が異なる。同じ手紙でも手書きの方が嬉しく感じるのもこれと同じことだろう。

しかし、この形式が放つメッセージを私たちは普段意識することはない。内容としてのメッセージを捉えることに注目しすぎることが原因だ。前述のとおり、内容はそれ自体が確立しているのではなく常に形式があり方を決定づけている。世界中の誰にでも好きな時間に言葉を送信できるという身体の拡張は「メッセージを送ること」への関心や感受性を低下させた。
簡単に伝えられることへの便利さゆえに、伝えたいことが一番伝わる形式をわざわざ考えなくなったわたしたちが送信する言葉は、今や全てスマートフォンが規定するメッセージの枠に閉じ込められているといっても大袈裟ではない。

形式が持つメッセージが社会に与える影響というのは内容よりもはるかに大きい。しかしそれ自体に気づくことは難しい。便利になる世の中で、私たちが送るメッセージの最適な形式は何か。という問いに向き合うのは、豊かさとは何かを考える上で重要なテーマになると私は思っている。

私たちは、透明になり、失われたメッセージを捉える必要がある。

透明になったメッセージ

道具の透明性

バイオハザード8ではチェーンカッターを使う際、キャラの身体は見えない。これは身体そのものがチェーンカッターとして拡張され、チェーンカッターは透明化したと考えられる。 
ピコピコブログ「バイオ8体験版『メイデン』レビュー。洋館脱出と5つの謎」

多くのメディア(形式)は道具として認識することができる。
車もビルもiPhoneも本もギターもおそらく自身の身体を拡張するための道具だろう。
そして、道具はインターフェイスだ。インターフェイス(Interface)とは、異なる概念同士を接触させるための界面であり接点である。

道具の発展に伴い大きな力が得られるようになった一方で、人と対象の間に機械や情報処理が入り込み、人間の操作は対象に対して徐々に関節的になってきている。<中略>
これは反省し、人間にとってのインターフェイスの重要性が意識されるようになった。そうしてヒューマンインターフェイスの研究では、石器時代のような道具のあり方、すなわち原因と結果が直接的な関係になることをひとつの目標とするようになった。たとえばハンマーのように、手荷物とそれ自体を意識せずに、釘を打つこと(対象)に集中できるようなあり方を理想であると考えるようになった。これを「道具の透明性」という。

渡邉恵太「融けるデザイン」

良い作用をしている時はインターフェイスは透明になる。これを「道具の透明性」という。釘を打つという内容に集中するために、ハンマーという形式を透明化することがインターフェイスデザインの文脈としては是とされていて、UIデザインにおいては形式が持つメッセージをより暗黙的にすることが正しいと解釈される。

多くの場合、形式を透明にしコンテンツに集中してもらうために、UIはデフォルトな状態を目指して設計される。普通であることが良いし、周りと同じであることが良い。スピードは早い方が気づかれにくい、ユーザーの予想通りの結果を表示する方が気づかれにくい。これらのデザイン思想はだいたいのところこの道具の透明性に直結する。
しかし私たちデザイナーは、透明性を作り出すと同時に「メディアが持つメッセージを捉えること」の難易度を上げているのかもしれない。
道具としての利便性を求めるのならばそれでいいのかもしれないが、ソフトウェアデバイスがこれほどまで生活に浸透している今日では、それが道具として「便利」かどうかよりも「豊か」であるかどうかを判断しながら選択する必要があり、それを判断するためにはその道具の中にある内容はどのような形式に“切り取られるのか”までも考えなければいけない。

ヒューマニズムとしての四角の誕生

デイリーポータルZ「街には四角が多いのか」

思い返してみると、世の中は四角いもので溢れていると感じる。スマートフォンも本も、あらゆる建造物の普遍的な形も基本は立法体であり四角形の組み合わせだ。しかし自然物に目を向けてみると実はそんなことはなく、むしろ四角いものはとても少ない。ということは人間が加工したものには四角形が非常に多いということになる。
なぜそうなのか?ということを一応検索してみたのだが、「面積を広く利用したいため」とか「単に機能美である」とかでもっともらしい答えは見つけることができなかった。
もっともらしい答えを見つけることはできなかったということに調子にのって私もそれらしくない答えを考えることにした。

なぜ人工物は四角形が多いのか?
なぜ人間が作るメディア/インターフェイスは四角形が多いのか?

私はこれを人間が意図的に自然と区別するためにとった形式の差別化なのではないか?と考えた。形式のメッセージとして「四角形でできているものは“人間のものだ”」という情報を発信するためだったのではないのかと。そして自然との形式を差別化することでそれが作られた時の文明活動の歴史を残すためではないかとも妄想した。
たとえばエジプトのピラミッドは石を加工して、巨大な三角錐(上部からみると四角形である)を建てることで当時の王の権力を誇示したものだと考えることもできる。それがもし自然にあるような曲線で作られていたとしたら私たちはそのメッセージに気づいただろうか。

建造物以外の媒体、たとえば写真や本であってもそれらが四角い形態であることは記憶や物語を収納することに良い形態だったのだろう。ともすると人間にとって内容を摂取するときには四角形が一番適しているということなのだろうか?いずれにせよ、人間が主に取り扱うメディアやインターフェイスはある概念を格納している器として捉えるなら、四角形というのは人間が人間を表象するためのメッセージを持っている。

縮小される四角

メディアは四角形ということに続いて、もう一つの疑問がある。それは四角形(メディア)は常に縮小しているという点だ。古くから親しまれるレコードジャケットもCDやMDと縮小しつつ、現在の形はUIとして表示されるサムネイルにまで小さくなった。ほんの数センチになってしまっている。ウェアラブルデバイスとなればさらに小さくなり、もはやある一定の視力でなければ細部まで確認することもできない。
写真というメディアも元々は部屋という大きな四角形の壁に穴を開けてそこから溢れる光が映し出す風景を模写したもので、それは今のように縮小されたメディアではなかった。絵画も本だとしてもそれが発明されてから今までを比較すると全ての四角形は小さくなっているように思える。

有史以前、世界がキャンバスであり便箋だったときに世界に描かれたメッセージとその形式(世界)がもつメッセージはより広大だったと感じることができる。しかしこのように縮小化したメディアが私たちの生活においてとても大きな影響を及ぼしていることを鑑みると、メディアが縮小することのメッセージを見逃すことはなかなかに危険なのではないだろうか。

広大なメディアとしての世界が年々縮小し、私たちは囚われはじめているようにも思えるからだ。

監獄としてのインターフェイス

身体拡張と精神のコントロール

ダミアンの八つ裂き刑 画像は「Wikipedia」より

フランスの思想家ミシェル・フーコーの『監獄の誕生―監視と処罰(1975)』は国家権力の集中機構としての監獄システムを説明している。この本においてフーコーは刑罰というのは身体を罰するものから精神を罰するものへと変遷した歴史があるとしている。
フーコーは、1700年代のヨーロッパでの身体刑の仕方を引用(あまりにも悲惨なので省く)しながら、刑罰というものは権力の誇示であるということを説明した。それをマクルーハン的に解釈するならば罪人を罰するという内容を包括しているメディアとしての身体刑は権力の誇示というメッセージがあったと翻訳することができる。

ところが、18世紀の終わり頃から身体刑は少なくなり、人を部屋に閉じ込めるという監獄的システムへと移り変わっていった。人間の刑罰の対象が肉体ではなく、精神(心、思考、意思、素質)へと切り変わり、それが刑罰としてふさわしいという進化を遂げた。これに対しフーコーは刑罰の対象が切り替わった理由を社会の権力システムが変化したからであるということを説明した。今までの王の絶対権力システムから組織的に社会をコントロールする権力システムに切り替わったからこそ、多くの人々の精神をコントロールし"道具化"すること自体が懲罰として作用するとした。
フーコーはマクルーハンのいうメディア(形式)に対するメッセージを読み解いているように思える。内容はその形式が持つメッセージに決定づけられるということを軸に、刑罰の変化とそれを行う権力の変化に目を向けている。

規律・訓練型権力の主な機能は、搾取や天引きの代わりに訓育を課すのである。あるいは多分もっと巧みに天引きしたり、より多く騙し取ったりするために訓育を課すといった方が良いだろう。規律・訓練こそが個々人を作り出すのであり、それは個々人を権力行使の客体ならびに道具として手にいれるそうした権力の特定の権力である

ミシェル・フーコー「監獄の誕生―監視と処罰」

前節の「縮小された四角」もこの考えに乗っ取るなら、インターフェイスは人間の生活に極めて近い場所へと常駐し、しかも没入性の高さから透明になれることで、より人間をコントロールしやすいメディアになっていった。と考えることもできるのではないか。

最近になって割と聞くようになったUIの「ダークパターン」も、認知バイアスや心理学を利用してユーザーを都合のいいようにコントロールするためのものだ。視覚的に安く見せたり、回転率を上げるためにわざと店内の椅子と机の高さをバラバラにし違和感を与え続ける。これもある種の精神コントロールであり、フーコーに言わせてみれば刑罰なのかもしれない。

技術的装置はおのずと人間の習慣を変えた。そして、そうすることによって必然的に社会の構造と機能を修正した

ハロルド・A・イニス「メディアの文明史 コミュニケーションの傾向性とその循環」

そしてインターフェイスというメディアは道具の透明性という一つの是を元に設計されているがゆえに、私たちはこのパターンに気づくことも、これらのメッセージを捉えることもできないのである。
形式を透明化させる手法が体系的に実践されてきている分野であるインターフェイスデザインは、実は人間を道具化するための危険性を孕んでいるのかもしれない。

パノプティコン・ワールド

ジェレミ・ベンサム「パノプティコンの構想図」

建物の中心に監視塔があり、その中心に向けて囚人の独房が放射状に仕切られて配列されている。独房には監視塔に面した窓と、建物の外に向かった窓があるだけで、各独房は仕切りで隔離されている。囚人の姿は塔からの光線を受けてつねに見えるようになっており、塔の監視所にいる看守から監視されている。囚人はほかの囚人と接触することはできない。囚人は看守からつねに監視されていることを意識しているが、看守のようすは知ることができない

コトバンク「パノプティコン」

理想的な監獄システムの象徴として一望監視施設パノプティコンというものが18世紀の終わりに設計された。囚人が収容されている全独房を看守側からは一望でき、囚人の所在も確認できるが、囚人からは看守は見えない。これによっていつどのように監視されているかに怯えた囚人は逆らうことなく勤勉に働いた。

フーコーは、パノプティコンを例に権力に監視されているかもしれないという恐怖から権力を内面化し、より形式が定めた通りに道具化される様を表現した。そしてこのパノプティコンも功利主義を軸に考案された監獄システムであった。
全体的な幸福の総和を高めるためにこのような監獄が生まれたことは、"ユーザー"インターフェイスと名付けられながらも、次第に"ユーザー"をコントロールするためのものへと変化していっていることと似ている。
広大な世界としてのキャンバスから、もう身動きが取れないほど小さなスクリーンに張り付く毎日で、私たちは常に誰かの恣意性にコントロールされているのかもしれない。

このパノプティコンと化した世界は、簡単には抜け出せない。

表現の脱獄

形式と対峙するコンクリート・ポエトリー運動

新國誠一「川または州」

1950年代にドイツ・ブラジルで同時多発的に起こったコンクリート・ポエトリー運動は、これまでの詩という表現方法、あるいは道具としての言語のあり方から、文字本来の物質が持つメッセージを研究する運動である。視覚詩とも言われるその詩は一般的な詩としては理解しづらい。どちらかというとより絵画的で風景的であり、強い構造的なデザイン性を感じる。
コンクリート・ポエトリーの大きなテーマとして、本質の追求があった。言葉は一般的にコミュニケーションの道具として扱われるが、コンクリートポエトリーは言葉を道具としてのメッセージではなく、言葉そのものが持つメッセージに注目することを実験する。つまりメディア(形式)のメッセージを捉える作業である。そして視覚詩人たちは、メッセージを捉えるために"形式の外"へ出ようとしたように思える。道具的な言語には形式の恣意性があり、言葉本来の存在を解き明かすならばその形式自体を客観的に捉えることが重要だったのかもしれない。だからこそコンクリート・ポエトリーは、線形の言葉を脱線させた構成を取ってみたり、詩集という四角形から脱獄し、展示をメインの表現場所として見せたのかもしれない。

太平洋戦争のさなかに、多感な青春時代を送り、抒情詩を書いていた新國は、20歳で迎えた終戦とともに、戦時中の一切を否定するようになった社会の変化を前にして、言葉の意味というものに対して決定的な不信を抱くようになる。この言葉に対する信頼と不信。そこから、新國誠一は、言葉を裸にし、言葉そのものに還ろうとして、独自の方法を見い出すことになったわけだが、その意味では、新國誠一のコンクリート・ポエトリーとは、もうひとつの「戦後詩」なのだと言えるだろう。

Edge「コンクリート・ポエトリー新國誠一の楽しみ方」


産業革命と大量生産がもたらした結果や第二次世界大戦終了直後であることも実はコンクリートポエトリーと関係している。日本でのコンクリートポエトリーの第一人者である新国誠一は戦争を経験したことによる言葉の不信感(あらゆるプロパガンダや市民をコントロールするような言説など)からコンクリートポエトリーの制作へと踏み出したと考えられている。

メディアはメッセージであり、形式が持つメッセージを重要としたマクルーハン。
社会権力のシステムはより多くの人間を小さな労力でコントロールすることが現在の刑罰の対象だとしたフーコー。
そして、社会システムへの違和感から言葉の四角形から脱獄し、客観的に形式が持つメッセージを捉えようと試みた視覚詩人たち。それぞれのテーマは違えど、彼らは形式へのメッセージを捉えようとしたように私には思えた。

四角からの脱獄

はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。自分自身とのこのような戯れは舞台裏に隠されてさえいればいい、とか、結果が出てしまえばおのずから消え去る準備作業の、せいぜい一部分なのだ、とかいずれ言い出す人もあるにちがいない。しかし、哲学──哲学の活動、という意味での──が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とはいったい何であろう? 自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう?

木澤佐登志「失われた未来を求めて」(フーコー「性の歴史Ⅱ 快楽の活用」序文からの引用)

マクルーハンの「メディアはメッセージ」から話を始め、道具の透明性と形式が持つメッセージへの盲目性を重ね合わせて考えてみた。
そして形式が持つメッセージとはいつの時代も大きな権力システムに大きな関係があるのではないかという考察をフーコーから引用し進めた。

私たちは外の世界へ出かけるよりも、この小さなスクリーンの世界に没入している。それは「より多くのユーザーを獲得したい」「より多くのユーザーに課金をしてもらいたい」「より多くの時間をサービスに費やして欲しい」という勝手に定義された「ユーザーの豊かさ」とそれが「デザイン」であると信じて疑わない我々作り手側の恣意性が生み出した監獄なのかもしれない。ユーザーエクスペリエンスと称してユーザーの直感を利用してはいないか?ユーザーインターフェイスとしてユーザーの行動を誘導しているのではないか?それは果たしてデザイナー側が介入するべき場所なのか?これらを私たちは常に考えながらモノづくりをする必要がある。

大袈裟にいうならば体験への没入から、よりユーザー自身がそれらを客観視し、「選べる」という道を提供することを真剣に考えるべきなのかもしれない。

あとがき “離れる”をデザインする

大スクリーンに移された映画に没入している時間は、実はそれほど重要ではないと私は思う。
重要なのは映画を観る前と見た後の世界であって、その対象について客観的に想いを馳せている状態だ。
e-mailという形式が良かったのは、相手からの返信を待つという「形式からあえて離れる時間」がデザインされていたことだった。あえて距離をとって客観的にその空気感に想いを馳せる。この時間の経過に豊かさがあった。

相手が読んだかどうかが瞬時に分かり、入力されていることが分かり、受信と返信のタイムラグが極限まで短くなった現在のチャットでは、永遠に「会話すること」自体の内容に集中してしまう。それはフィジカル的な要素をデジタルでより拡張し表現された道具の行き着く未来といえばそうなのだが、そうではなくあえてそれらを体験しない時間を長く取れるような設計を目指すことが、ユーザーにとっての本来の豊かさなのではないだろうか。

デザインも技術もきっと魔法ではない。
デザイナーはあくまで「デザイン」しかできない。

その「デザイン」という言葉の範疇が表すものに、もう一度向き合いながらものづくりをしていくべきではないだろうか。


【接触編】コントロールコントローラー

【憑依編】コントロールコントローラー



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