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「連帯責任」を言い渡す重みについて考えた事はあるだろうか?

私は学生の時「連帯責任」が大嫌いだった。

私は真面目な学生だった。
「なんで真面目にやってた私たちが、やってない奴らと同じ罰を受けないといけないんだ!!」
と、若い私は怒り狂っていた。

大人になった今でも好きではない。

そんな私が先日、「連帯責任だー!」と子供たちに言い放ってしまった。
連帯責任を言い渡されたのは、わが子2人と下の子のお友達。


連帯責任を言い渡してきた先生たちは、どこまで考えていたんだろうか?

連帯責任を言い渡すって、ものすごく高度なことだよな、と思う。



  • なんで連帯責任なのか

  • やってはいけない連帯責任

  • 連帯責任を言い渡した人の責任

  • 目的はあくまでも「自分たちで考える」こと



連帯責任にする目的は何だろうか?


「一人でも遅刻したら、連帯責任で校庭10週!!」

昭和生まれの人はすんなりと受け入れられるフレーズだと思います。

これを言う先生は何を思っていたんでしょうか。

  • お互い声を掛け合ってほしかったのだろうか?

  • 遅刻はよくない事をしっかり教えなくては。罰があればがんばるだろう。そう思ったのだろうか?

  • いやがらせ的に罰としてはしらせたかったのだろうか?

個人的見解は②か③だと思っている。

連帯責任を課すことで、コミュニケーションの向上を期待している先生はほどいないんじゃないだろうか。
その後の先生の言動を見ていれば、なんとなくそんな気がする。


連帯責任は平等じゃないと成り立たない

例えば、部活の同級生で怖い存在のいつも遅刻してくる子に
「連帯責任らしいからな。明日遅刻してくんなよー。朝起こしてやろうか?」なんて言えるだろうか?
無理だ。

真面目にやってる側としては成すすべがない。
ただ怖い存在のその子が遅刻してこないように祈るしかない。

こんな状態で連帯責任を負わせるって、何なんだろう?

班単位、部活単位、クラス単位、学年単位、、
色々な連帯責任を見てきたが、あの時自分はどうすべきだったのか?と今考えても、やっぱり祈るしかなかった


連帯責任を言い渡す前も、言い渡した後もよりしっかりとした観察が必要


「祈るしかない連帯責任」にならないために、言い渡す側がすべきことを考えてみた。

  • 声を掛け合える関係であることを確認し

  • 罰を回避できる手段があることを伝え

  • 罰は萎縮しないような内容にし(重すぎない)

  • 前向きに取り組めれるような状態


最低限、これらをそろえる必要はあるかなと。
つまり、普段からそのチームを観察し、言い渡した後はよりしっかりとした観察が必要だという事だ。

そして、言い渡した後は、陰でジーっとみて「はいダメー」って言うのではなく。

「あれ?大丈夫?そのままだと、、、」とヒント的なものを与えることも必要だ。

それを何度か繰り返して、それでも出来なかったら、みんなで明るくスクワットをしよう!と声掛けをしたいな、と。
(したいな、って私は人にものを教える立場の人間じゃないんですけど^^;)


目的は罰を与えることじゃなくて、考えること

え?それじゃ次も同じことを繰り返す?明るくやるのは罰じゃない?

それでいいんですよ、目的は罰を与える事じゃないですから。その問題を解決することですから。

問題を解決するために、当事者である自分たちが
とるべき行動について考える」これが大事ですから。

だからこれを平等にできる関係性のところにしか連帯責任を言い渡してはいけないと思うんです。

罰も明るくできるけど、ちょっとめんどくさいよねー、くらいのボリュームでいいと思います。

そして。
もし繰り返してしまっても、それが良くない事でも、まじめにやっている子に完全不快な罰を与えるよりは、全然いいと思っています。


連帯責任を不服に感じたら、相手に意見を求めよう。意見を求められたら、真摯に答えよう

答えられないなら、それは間違った連帯責任の課し方なのかもしれない


最後まで読んでいただきありがとうございました♪

連帯責任で、何か嫌な思いをした経験はありますか?
逆にいい経験をしたことはありますか?

いつも応援ありがとうございます^^

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