素材主義について(絵画編)Ⅲ

皆さま こんばんは

前回の記事では 「舞踏」また「土方巽」について少しばかりですが触れていきました。
今回の記事では1950年代に興った「アンフォルメル」という芸術運動を取り上げます。簡単に言うと、絵画自体をものとして捉え、絵画自体の状態や性質に着眼した芸術運動と言えます。それは例えば、絵画=絵の具で主題を描くという通常の形式を疑い、石膏などで画面を創り「絵画」として扱ったりします。

そういった意味で、表現するテーマが「絵画自体」という面白味のなかで、それを評価した方の文章などを見ていきたいと思います。

第三章「マテリアリズムとアンフォルメル」


 第二章では、舞踏がいかに身体を凝視していたかを明らかにした。本章では、同様にアンフォルメルについて、その概要と作品の特徴を述べたい、特にフォートリエに焦点を絞りたい。 

第一節「‘マテリアリズムとアンフォルメル」

 「アンフォルメル」とは、その名の通り、「不定形」をあらわす語である。ここでいうアンフォルメルとはフランス語を中心として興った抽象絵画の動向であり、戦前までのバウハウスなどで興った幾何学的抽象に対して、厚塗りや即興性をその特徴としている。それらを試みた一群の作品を1952年にフランスの評論家であるミシェル・タピエが「アンフォルメル」と名付けたことが始まりである。特に、1945年から1947年に続けて発表されたジャン・フォートリエの≪人質≫、ジャン・デュビュッフェの≪厚塗り≫、そしてヴォルスの個展をその先駆的存在と位置付けながら、強力に唱導していくこととなる。

 また、アンフォルメルの特徴について、井関正昭は「イタリアの近代美術1880から1980」の中で次のように定義している。「フォルム(形態)の概念を美術の長い過去の歴史にあったように完成されたものという基準で決めないで、存在そのものを基準としながら、フォルムを形作る行為そのものや、表現のための素材自体を共通の起点として一瞬のうちに提示することである。したがって何かの対象を形作るという願望に対して、あらかじめ合理的に構成することに反対する。」
 この意味でアンフォルメルは、対象の形を再現することなく、抽象的ではあるが、決して幾何学的でも構成的でもない。そこでは、表現する行為そのものが問題になり、素材自体が強調される。

 またタピエは、同時代に興り始めた絵画の新たな探求をアンフォルメルによって一括し、国際的な枠組みへと展開しようとする意図があったようだ。アンフォルメルは、1950年代から、60年代にかけてヨーロッパのみならず、世界中の美術の動向に影響を与え、歴史的にも類を見ないほどの一大潮流へと成長する。 しかし、あまりにも多くの作家がその表現方法を取り入れたことで、1960年代に入ると形骸化に陥り、アンフォルメルは次第に影響力を失っていくいこととなる。だが、アンフォルメルが戦後美術の中に新しい表現を築いたことは紛れもない事実であり、その功罪を含めて今なお議論の余地が残されている。

 ここまで、アンフォルメルについて概観したが、この中にも紹介した、フォートリエの≪人質シリーズ≫を第二節でみていくことにする。

第二節「様々な表現手法」

 第一節では、アンフォルメルを概観してきた。本節では、第一節に書かれた、表現する行為そのものが問題になり素材自体が強調される。アンフォルメルの主張を、具体的にどのような手法が使われていたかジャン・フォートリエという人物が晩年に制作した≪人質シリーズ≫に焦点を当ててみていきたい。

表現する行為そのものが問題となり、素材自体が強調される。とは、この時代が、絵画自体のリアリティに意識が到達したことがまず挙げられる。その中で、様々な表現手法が生み出されていった。まず初めに、フォートリエを取り上げる。フォートリエは「アンフォルメル」を代表する作家だ。1898年に生まれ、1964年に亡くなる。極めて抽象的な絵の表層からは、作家の想いが滲み出た絵画自体の絵肌が特徴である。彼が初めて展示に参加した1922年にサロン・ドートンヌでは、憤怒するイノシシのような動物像を激しい線画で描き上げ、動物的感性に秘めた暴力性、また「表現主義風」と評価されていた。そこから、ジャズクラブを立ち上げ生計を立てるが、ゲシュタポ(警察)に捕まり。1943年より避難所で《人質シリーズ》を描き始める。石膏で平面を厚く塗りたくった後、水彩絵の具でさっと表面を塗る手法である。その手法より、画面にひび割れが起こり、そのマテリアルが「人間を鉱物のように捉える」と評価された。石膏の硬さ、ひび割れる質感、そこに「マテリアリズム」のあり方が存在するように思う。

 世界美術大全ダダとシュルレアリスムではフォートリエを紹介する記事の章末に以下の文章が添えられている。「絵画自体の存在、絵画自体の現実に関心が到達し、そこに画家の、個別的であると同時に、同時代を生きる人々に共有される現実を刻印していくこと、それが、画家の意識の最も上層に浮上する。別の言い方をすれば、物として存在する絵画と直接向き合うようになると、画家にとってのリアリティは絵画自体との間で結ばれる。〈中略〉このことは絵画を抽象・具象の差で分けることを無効にしてしまうし、第二次世界大戦後の絵画を広く方向づける重要な側面でもある。」(山梨俊夫)
 この意味から、第二次世界大戦後が色濃く残る当時の風景に、フォートリエの《人質》というシリーズと、その硬派でありながら柔らかな抽象主義が、当時の人々を震撼させたことが理解できる。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

だいぶ端折りましたが、「アンフォルメル」をみてきました。
「素材主義」は「素材の”在り方”を追求する思想、または主義」。まさに「アンフォルメル」もその一つの運動と言えます。

ただここで大事なのが、結局、”何がいいのか”ということ。素材の質感のみを漠然と追求するのではなく、その質感の何がいいのか、何を思い起こさせるのか。というような問いが必要になると考えられます。

例えばフォートリエは、世界大戦を経験し、砂を用いた作品を手掛けた、そこには戦時中の記憶のにおいが感じられるかもしれないし、それは人に伝えるためのものではなく、個人の記憶の中からどうしても、アウトプットしたかったものかもしれない。そのような意味で、質感や厚塗りは、様々な解釈が可能になる絵画と言える。

民藝の柳宗悦も「工藝的絵画」という論考の始まりに、「ともかく私は工藝的な絵画が好きなのである。好きな絵は皆どこかに工藝的性質がある」と語っている。

工藝的性質とは一体何なのだろう。

私は、先日ふと思いましたが、
私が良いと思う絵画には、「すべてを包み込むもの」そのような側面があるものがあると回想しました。またそのような「もの」を創出したいのだろうなとも思いました。

”すべて”を包み込み、時に力となるもの。

そのようなものの創出に「素材」または「テクスチャ"材質感覚"」という概念は、かかせない要素であるように思う。

次の記事では、この素材主義(論文)2018シリーズの最後として、「マテリアリズムを再定義する」を添えたいと思います。

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