日本の伝統色

私が株式会社イグジィットを解散するわけ をさらに

世界で最も優秀だといわれた色の再現性が消えた?

以前はデザイン事務所をやられていて、美大の先生になられた方と一緒にお昼を食べていたときのこと。かつては繊細なアートディレクションをお願いしたり、うちがウェブサイトの制作を依頼されたりと、同業者としてもっとも濃いつながりだった。

いまでもランチのお誘いがあるので、いい関係ではあると思います。

授業内容について話していて、印刷の話題になりました。

このところうちで手がけているような印刷は、ほぼネット専業の印刷サービスに入稿です。印刷の管理(つまり扱い)はうちではありません。クライアントは刷り上がりの色が良くないと怒ったりするけれども、それでもネット専業ではない従来の印刷会社に変更しようとはならない。なぜかといえば、コストの問題です。

そう話すと、色の重要性を認識されていないのだろうかと聞かれました。


判断する人の能力とデバイスに振り回される色

あのファッション企業ことをご存知でしょう? あそこが時間がないからとオンデマンド印刷で、色校正なしにポスターを作ったのはもう10年以上前ですよ。色校なし? オンデマンド?って本当に驚きました。黒い洋服の黒い模様が、再現されていないと騒ぐ会社だったのね(笑) もちろんコスト上の必要性もあったんでしょうけどね。

それに色がどう見えているか、階調やコントラストをどんな風に網膜がとらえていて、脳がどんなイメージに再現したのか、その個人差はなんともわからない。少なくとも企業のマーケティング担当者や経営者に、(私の知る限り)専門教育を受けた人はいないでしょう。

30歳を過ぎると色の識別能力は、専門的な仕事をしていないとどんどん低下するというし、何よりパソコンがオフィスに当たり前に使われるようになって、モニターのスペックでどんな風に見えているか、全然わからなくなった。

ウェブサイトが作られ出した初期ってね、クライアントが色が赤過ぎるというから出かけて行って見せてもらうと実際に赤い。これはモニターが悪いんですと言っても「実際にそう見えてるお客さんがいるんだから、なんとかしろ」と怒りまくられたりね(笑)

ウェブサイトだと推奨する動作環境とかサポートしてるブラウザーとか、いろいろな条件をつけられるけど、モニターの階調性はそんなわけにいかないじゃないですか。

いまはタブレットやスマホのモニターについて、全部は調べられないでしょう。キャリアが発売前の機種を貸し出したりしてるけど、じゃあ格安スマホはどうするんだって。若者はどんどんそっちに行ってるけど、とても把握できない。

それもあってハッキリした色、ファストフードとかスーパーとか子供向けの製品で使っているような色を中心にするか、無彩色でも真っ黒、真っ白に近いものと組み合わせてニュアンスを出す、みたいなことしかないですよね。繊細な階調を使わないとか。

私たちはMacのでっかいモニター、あるいはEIZOのディスプレイで、しかもキャリブレーションしたりして基準を維持して仕事をしています。でも世の中にそんな環境はないんです。基準はどこにも存在していないんです。

たぶんウェブデザインが中心で、グラフィックもやっているという会社は、巨大なところでも紙見本とかDICの色見本なんて持ってないと思いますよ。グラフィックデザイン専業の会社があったとしても、日本の伝統色とかフランスの伝統色のチップ見たら「これなんですか?」と言うかも。

色の成分が同じだから、同じ「色」かというとそんなことは全くない。紙やモニターの特性に左右されているけれども、それを判断できる人がどれだけ作り手側にいるか。

美術系の学校では、もれなく色彩学や平面構成を教えているが、それは学問の中だけで成立していて、商業的な世の中には同じ色とか同じ構成が再現されている確率は、どんどん低くなってる。

学校で教えていることは、伝統工芸的な文化、あるいは特別な世界でしか求められないオーバースペックであることを学生に伝えておかないとヤバいですね。

みたいな話をした。


そもそも社会はどれほどのデザイン性を求めていたのか

美術系の大学は、入試にデッサンがある。美術系だろうがデザイン系だろうが、各校の傾向に合わせたデッサン力が求められる。

しかし写実的なデッサン力と、創造的な表現ができる能力にどれだけの因果関係があるだろうか。推測すると、写実的に再現するには、まず造形や陰影を正確に見る目がなければならない。見る目があるかどうかは、再現させるしかない。あるいは再現する作業を繰り返すことによって見る目を養うことができる。

写実的に見る目があって、再現する能力があって、それを土台にしているから崩すことも可能になる。そこに当てはまらない天才も存在するが、再現可能な基準から合否を判断する。再現可能な基準から積み上げていくのが、教育機関の役割だというロジックなんだと思う。


私たちはテレビなどで、漫画家がささっと人物の輪郭を描いたりすると、おおーうまいなと感心する。でも素早く形を再現できることと、魅力的な絵を描けることには、かなりの差がある。人気が出るかどうかになると、全く別問題だ。それはもう、どんなジャンルでも。

それほど商業的ではない世界ではどうか。


東京五輪エンブレル盗用疑惑が見せたもの

2020年東京オリンピック・パラリンピックのエンブレル盗用疑惑からの一連の騒動で、一般にバレてしまったのは公募といえども裏があるということだ。強いコネがなければ無理そうだということだ。

これ、デザインジャンルだけではなくて、表現に関するジャンルなら、絵画でも書道でも音楽でも、新聞社が後援に付いていても、あらゆる公的なコンテストがそうだ。

なぜかというと、まずその表現者としてやってこなかった審査委員たちには明確な基準がない。社会的に権威のある人たちのお墨付きがなければ、こんなのがと批判が出たときに反論する根拠がない。

日本の景気が良かった時代に、広告に電通を起用する企業が多かったのは、宣伝部や経営陣が「電通で多額の費用をかけて実施して効果がなかったとしても、私たちは最大限の努力をした」というエクスキューズができる。というネガティブな理由が少なくなかったはず。

同様の文脈で、権威者たちにつながるコネが重要視された。景気の悪い時代に突入しても、公共性の高いジャンルではオープンを装っても、裏ではそういう文脈が強かったということだろうと思う。

ところがネットの時代になって、結果は世界中に共有される。いちゃもんとかお金目当ての難癖もあったとしても、嘘はバレる。怪しいとなれば、プロセスも洗われて、問題があれば晒される。

それがエンブレム盗用疑惑からの騒動の、キモだった。と私は解釈してる。権威者に連なる人たちは、嘘がバレることをあまり知らない。デザインや広告の世界で立場のある人たちが、疑惑の当事者を擁護する立場だったのは「なんやかんや言っても、それでクオリティが確保されてるでしょう」という気持ちなんだと思う。

人気投票にしちゃったら、クオリティはどんどん落ちるよと。

そう、質の高い作品を作り続けられた方だと思う。でもプロセスがどうでもいいってわけじゃない。と私は思う。


クリエイティブジャンプって、なんでしょう

権威を持っている人や組織がお墨付きを与えることが質なら、その文脈で認められることをするのは、まあ当然だ。私も賞をもらったことがあるし、応募するなら採れるようにと思って作った。

最初の方で書いているように、私はいくら自分が「カッコイイでしょう」と思ったところで、なんの効果もなかったら嫌だ、仕事してられないという性格だ。基本は質よりも、人気投票を重視したい。ただ人がどう評価するかより、自分が恥ずかしくないと思える質は維持したい。

という相反する欲求は持っている。自分の中で矛盾しているわけじゃなくて、バランスはとれている。

プロだから、お金にならなきゃ続けられない。でもお金を出す人が認めれば、なんでもいいというわけじゃない。あざといとか卑怯だとか、噓で騙そうとする仕事はしたくない。自分も騙されたから、人も騙してやれと考えるのは下衆だ。

なぜ仕事を続けられたかというと、一番は高揚感だ。自分が高揚した中身は、クリエイティブ・ジャンプを起こせたという確信なんだと思う。クリエイティブ・ジャンプの定義はというと、人それぞれで異なるかもしれない。私は、こういう風に思ってました。

かつてマス広告の時代は、生活必需品などを中心に、投下金額と認知度、それに販促効果がある程度、方程式化されてた。違う言い方をすると、プロモーション予算が、10億円と1億円では勝負にならない。ところが3億円の予算なら、クリエイティブ・ジャンプを起こせたら、10億円の予算と同等の効果を得られるかもしれない。5億円あれば、勝てるかもしれないと。

それがクリエーターの勝負だし、面白さだと思っていました。

20代半ばのころに、このコンセプトはイケる。社会的だし戦略的だし、プロモーションの表現もそのまま行けると思いついたことがありました。

クライアントの宣伝部にコンセプトを持ち込むと、次長は「当社がやるべきことだ」と太鼓判をおしてくれました。ところが担当役員の常務が「反社会的だ」と反対をしたのです。

次長は「これをやっておかないと、まずい。競合社が先にやってしまうと、意味がない。しょうがないから目立たないところから始めよう」とおっしゃいました。競合社は、競合する事業規模だけで少なくとも3倍はありました。

雑誌広告や販売店などに貼るポスターだけで作ったのですが、すぐに新聞や雑誌が取材に来ました。大きな話題になったわけではありませんが、すでに起こっている現象なのに、誰も言語化したり意味付けしていなかったので、それなりに注目されるだろうなと思っていました。

新聞雑誌って何よと思わないでください。これって30年以上前の話なのですから、新聞雑誌はメジャーだったんですって。

さらに他のクライアントをくっつけて、タイアップの雑誌広告などを仕掛けました。ここに至って、新聞が大きな取材をクライアントにかけてきました。なんと「反社会的だ」と言っていた常務が、取材を受けて自分の手柄のように自慢したのです(笑)

ところが競合社は当初から反応していたのでしょう。通常の広告表現で、毎回執拗にパクって来るなと思っていましたが、なんと1年後にはこちらのコンセプトをタイトルにした映画を作って公開したのです。笑いがメインのエンターテイメントものでしたが、マスメディアでは映画のネーミングが当たり前のように使われるようになりました。

クライアントの企業対企業の競争としては完敗ですが、そこは私がなんとかできる範疇ではありません。クリエーターとしての私は、相手をそれだけ動かし社会が反応したという高揚感でいっぱいでした。営業もつかず、デザイナーやカメラマンはいましたが、ほぼ私ひとりの仕掛けなのですから。

会社を作ってからは、そんな規模のジャンプはありませんが、強い競合社よりうちが制作をすることで、どう競うことができたか。優位に立つことができたか。その確信が、私が仕事をする原動力だったのは、間違いありません。


ネットにクリエイティブ・ジャンプはあるのかと

ところがネットの仕事をするようになって、さらにSNSの仕事をするようになって、その質というかデザイン力とか写真や動画のクオリティ、テキストの日本語としての正確さみたいなところを含めて、ほとんど関係ないじゃんと思い知った。というか積極的に崩しました(笑)

崩したといっても、ブラックな手法や炎上マーケティングや自分が恥ずかしいとか卑怯だと思うことをしたわけじゃない。

人間はネットだけに接してるわけじゃないけど、ネットならアナリティクスとかインサイトで、どれだけの人がどう反応してくれたを見ることができる。反応を見ながら、コンテンツ作りや運用を合わせていくと、どうしてもそれまで自分が持っていたクリエイティブの価値観を崩すことになる。

大きな予算をデジタルに投下している企業は、たいがいグレーなことをしている。Twitterでバズっている企業アカウントの拡散する流れを追っていると、不可解な多数のアカウントに遭遇したり。炎上させて、すぐに削除して、あたらしいツイートを次々に投入したり。

あるクライアントの担当者は「バズらせるのは、仕組みですから」という。ここの仕組みはグレーではないけれども、あざといなぁと私の価値観では思う。いやそれ以前に、表から見えないだけで、デジタル施策にとんでもない予算を投入しているのです。

かつてのマスメディア全盛の時代の予算とは比較にならないけれども、くだけたフレンドリーさとは裏腹に、大手では予算と仕組みの勝負になっているのです。ここにクリエイティビティが、ほぼ関係ないことだけは間違いありません。


ひとり会社になってから、お金がいらないわけじゃないけれども、通常業務以外では自由にさまざまな実験をしてみました。ウェブページを作成し、Googleアドワーズを使って広告を打ったりと。どんなのかというと、正攻法のSNS運用をしますとか、ブラックな手法を使わずに成果を上げますとか。あるいは、コンテンツマーケティングをやりますとか。

自分なりに検証してみた結果は、大手はまだまし。中小零細ほど、ネットやSNSはブラックな手法じゃないと効果が出ないと考えているように思えます。

多くの企業が、フォロワーやいいね!を買えばいいんでしょうとか、コンテンツは大量に作らないとダメで、まとめて発注できるんでしょうと考えているようです。ブラックとは言えないかもしれませんが、自社の製品やサービスと関係のないコンテンツを作る意味がわかりません。

どうもプロ野球の球団も所有する大手ゲーム会社がインターンやクラウドソーシングで発注し、盗用や捏造のような記事を大量に投入し、あたらしく作ったサイトを有名にしたことが、有効な手法だと認識されているようです。モラルはどうあれと。

そうなると、クリエイティブ・ジャンプどころか、私がやりたいと思える仕事自体がないとなります。

またある企業ではウェブ担当者がSNSでは「運用プランを出して、1ヵ月経っても戻ってこないのです。それが通常です」とおっしゃいます。しかも投稿内容はすべて許可が必要で、最終的に社長決裁が必要だということでした。

いやぁーそれだと、うちに委託されても何も進まないですよね。これっぽっちも(笑) 

会議にも出て、プランを説明してSNSの運用を進めることは可能かもしれないけれども、それだと改めよう逃げようとしているスタイルに戻ってしまうことになる。これからはどこでどんな仕事をしようとも、やる範囲を明確にして、それ以外のことには手を出さない。深入りしないと決めたのです。

意思決定のプロセスが終わっているような企業でも、PDCAを速く回せとかOODAだとか言ったりします。なによりDecision(意思決定)がないのに、ActionとかDoのしようがないでしょと言いたくなります。Decisionが遅れ遅れになった分だけ、決定したらすぐやれ今やれと皺寄せがひどくなるだけです。


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いずれにせよクライアントワークだと、それほどPDCAを速くすることはできません。自社アカウント、そして何より2016年に自分が立ち上げた合気道の道場に関しては思いついたらすぐに実験して、結果を知り、把握することができました。

そうね、クリエイティビティはほぼ関係ない。効果が出せるかどうかは、少なくとも組織的にどうこうするものじゃなく、できるだけ少人数。可能なら自分ひとりで完結させるものだ。それで次々にトライ&エラーを素早く繰り返し、最適解を見つけるしかない。そう、なんとなく思ってたことが確信に変わっただけでした。

続きます。


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