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木野、レン、アカペラ、ジャンプサーブ、そしてハープ

村上春樹の木野と、レンとの会話と、アカペラとジャンプサーブの要素を使って、僕がハープと偶然出会い、ハープに一目惚れした様子をまとめたい。


僕は大学院で初めて、時間を持て余すという経験をしたことで、「豊かな人生」とは何かを再定義することとなった。

かつての僕にとって、「豊かな人生」とは、A4用紙1枚の持ち込みが認められたテストのために作成されるカンニングペーパーのように、意味のあるものによって隙間なく埋められた人生であった。余白を使い切って、完璧なテスト対策をすることが全てであったから、世界にはその余白に美しい絵を描く人や、カンニングペーパーをそのままブーメランにして別次元に投げ飛ばしてしまう人がいるなんて知らなかった。そんな狭い世界を生きていた僕は、モントリオールに来て初めて、そういう生き方をしてきた人に影響され、カンニングペーパーの可能性を再認識することとなった。

大学まで部活に打ち込んできた僕は、テストに向けてカンニングペーパーの余白を完全に使い切る生き方も意義があって充実したものであることを知っている。自分の人生に集中している時は、他の人が余白をどう使っているかなんて全く興味が湧かないし、そもそも「豊かな人生」についてなど考えないものだ。そして、それはそれで豊かな人生を送っているといえると僕は思う。

と同時に、今であれば、その余白をテストとは全く無関係に、自分の好きなように使い切る生き方も充実したものであるとも思う。学生時代の終了間際でそのようなことに気付く人間であった訳だから、残念ながら、しかし当然のように、音楽に対して真剣に思いを馳せたことはなかった。

僕はようやく、約1年前にカナダに来てから、クラシック音楽を聴くようになり、アカペラコンサートに行くようになり、暇だからといって大学の音楽科 (Music Faculty)を散策するような人間になった。別次元に投げ飛ばされたカンニングペーパーがあるという事実を知ってしまったからなのか、それとも単純に、人生に余白があったからなのかは分からない(余白という名の真空が良いものも悪いものも引き付けてしまうという点については村上春樹の木野を参照)。いずれにせよ、何かを達成しようと脇目もふらず突き進んでいた過去の僕には、あり得なかったことであった。僕は既に、余白の使い方が複数あることを知ってしまったから、それなら色んな使い方を試してみたい、と思うようになっていた。


僕が約2時間前にPollack Hallでハープのrecitalに出会ったことは、多くの要素が重なって起きた偶然であった。僕の試験が昨日終わっていたこと、今日の10時にレンに別れを告げるために大学付近へ足を運んでいたこと、14時には大学で注文した商品を法学部のキャンパスで受け取る予定であると勘違いしていたこと、そして、ソフィーがかつてハープを弾いていて、(彼女が日付を勘違いしていたが故に)是非行きたいと言ったこと。どれが欠けても17時からのハープのrecitalに出会うことはなかったであろう。

まず、試験が終わっていなければ悠長に街を散策などしていなかった。レンに別れを告げた10時半頃から14時までの間は音楽科の建物を散策する代わりにきっと図書館でお勉強をしていたであろう。それはつまり、音楽科の教授達の部屋の前を散策して楽器の音が聞こえないことに違和感を抱くこともなければ、廊下の壁紙にハープを弾く日本人の名前があることに気付くこともなく、ハープ経験のあるソフィーを17時からのrecitalに誘うこともなかったということだ。

10時にレンに会いに行かなければ、そもそも14時になるまで家を出ることもなかったであろうから、上記と同様に音楽科を散策するなどしていない。彼には先日既に別れを告げていたから行く必要はなかったのだが、なぜかどうでもいい「マギルグッズを買いたい」という理由をかこつけて、足を運んでいた。ちなみに、彼との間で、愛とは非合理的なものである、という結論が出ている。

14時には既に別に注文していたマギルグッズを法学部のキャンパスで受け取る予定であった。(すでにマギルグッズを注文していたのだから、わざわざ朝からマギルグッズを買いに行くという理由づけがいかに適当であるかが分かる)実際には4/26に配布予定であったのだが、僕はなぜか4/25に配布すると思い込んでいた。彼に別れを告げてから、散策ついでに音楽科で行われていた見知らぬ人のピアノのrecitalを見学したこともあって、時刻は既に15時であった。-本来の目的である「注文した商品の回収」ができなくては、何をしに学校へ来たのかいよいよ分からなくなってしまう-と急いで法学部へ向かい、1時間遅れで現地に到着し、WhatsAppのメッセージを見直してようやく、自分が予定時刻より23時間も早く来てしまったことに気付いた。
彼女と約束したrecitalは17時からであったため、法学部の図書館で昼寝とビリヤードを45分ずつしてから、Pollack Hallに向かった。以下は僕とソフィーのWhatsAppのやり取りだ。
Akira: “Are you in the library by chance?”
Sophie: “Nah, I decided to work from home today, why?”
17時からコンサートに一緒に行く予定があって、16時半頃にLibraryにいるか聞いた場合、背景にある意図の相場は「図書館にいるなら先に合流して向かおう」ではないのだろうか?とwhy?の理由に少し疑問を抱いたが、その疑問は1分と経たずに解決されることになった。
Akira: “because I am in the law building”, “But then, see you at the Pollack Hall”
Sophie: “Shitttt”, “I thought it was tmr!?!?!?!?”
彼女はどうやらハープのrecitalが明日だと思っていたらしい。彼女はまだ試験期間であるため、僕と違って悠長にハープを聴いている場合ではない。
彼女がもし2時間早くこの事実に気付いていた場合、僕は図書館ではなく、自分の部屋でお昼寝をしていたであろうし、その後recitalのためだけに家を出る可能性はかなり低かったと思う。

結果的に、2人の友人と2つの勘違いのおかげで、ハープという楽器の魅力に気付くことになった。ハープとの出会いの経緯を書ききった時点で満足している自分もいるのだが、今書かないと僕の空白は、noteへの初投稿とハープへの熱意ではなく、何か他のもので埋められてしまう気がする。忙しくしていては気付くことすらできない、突発的な熱意を大切にすることが、豊かな人生の鍵であるということもカナダに来てから学んだことである。


ハープの魅力は、多面性と無限の可能性である。弦を直接指で弾くため、人と楽器との距離が限りなく近く、直接的に、弾き手のなにかが伝わってくる気がした。どの楽器も、弾き手のなにかを聴き手に伝えるという点では同じなのであろうけど、特にハープに関しては、弾き手から楽器までの距離がとても近く、聴き手としては、楽器の音というよりも弾き手の音が伝わってくるように感じた。感覚としては、楽器の演奏と歌声との間である。

ハープが奏でる音の種類の広さを僕は多面性と表現した。高音がピアノのように聞こえることもあれば、低音が大きめの弦楽器(コントラバス?)のように聞こえることもあった。時には電子音にすら聞こえる時がある一方、上記のどれにも当てはまらない、ハープにしか出せないのではないか、という音に聞こえることもあった。演奏を75分間聴き続けていても、最後まで、そんな音まで出せるのか、と感心するほど、多様な音を奏で続けていた。どんな話題をふっても背景知識が既にある物知りな友人(歩くwikipediaみたいな人)と会話をしている時に、「そんな話題も知ってるのか」と驚く感覚に似ている…かもしれない。

指で弾くという直接性とそのシンプルさに反して、複雑かつ多様な音を奏でることができるという点において、ハープに惚れたということである。指を使って大きく美しく奏でるということは、迷うことなく大胆に、かつあり得ないほど繊細な動きを繰り返すということである。僕はここに、一種のスポーツ選手の何万回と繰り返されたフォームの美しさを見た。プロ選手のセットされた状態からの動きというものは、シャッターを切る瞬間さえ間違わなければ、目を凝らさなければ区別できないほど一致することが多い(バレーボールのジャンプサーブが一例である)。楽器の演奏であるにも関わらず、歌や、物知りな友人や、スポーツの一面までを思い出させるハープは、まだまだ知らない一面を隠しているのだろう、と僕はそこに無限の可能性を感じた。

僕は、どれだけ頑張っても全てを理解しきれない宇宙のような人や、逆に、曝け出している一直線な人を好きになりやすいというのは過去の統計から判明している。この点でいうと、ハープは前者に当てはまる。
音楽はやはり、直接聞くに限る、ということも分かった。日頃どれだけ素晴らしい音楽はスピーカーを通して聴いても、感動することはない。だけど、友人のアカペラを聴きに行った時は、心臓すら鼓動を止めて歌を聴いていて、空いた口を塞ぐことすら憚れるほど、全神経が歌に向かっていたし、今回のハープを聴いている時も脳内の細胞が幸せに踊っていた。どちらも鳥肌が立つ、一生忘れたくない瞬間である。スピーカーには絶対に真似できない、楽器や人からしか伝わらない、人の心を揺さぶるような音の美しさは、直接人や楽器と対峙することでしか分からないものらしい。


人生で鳥肌が立つほど感動する瞬間を探し求める余裕があること、その瞬間を振り返る余裕があること、偶然に導かれる人生を楽しめること、どれもカナダに来たからこそ得られたものである。今日に関しては、勘違いが重なること2回、本来学校に来た目的などとうに忘れてしまったけれど、そのおかげでハープと出会うことができたのだから、非合理的な人生も悪くない。


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