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元哲学徒ディレクターがVision Proを哲学的に考えてみるーインターフェース・身体性・世界のあり方ー

この記事は、元哲学徒のMESONディレクター辻川が、インターフェースや身体性を切り口に、Apple Vision Proおよび空間コンピューティングについて考えてみた記事になります。

とは言っても、私は元哲学徒ではありますが哲学研究者ではないので、専門用語は最小限にさせていただいて、なるべくわかりやすい言葉で考えてみたいと思います。なお、かなり荒削りな思考になっているので、そこはご容赦いただけると嬉しいです!あと、参考文献リストも入れていません!笑


直感的なインターフェースの参照点

視線を合わせる、親指と人差し指をくっつける、指を動かして引っ張るなど、Vision Proのインターフェースはとても直感的であると言われる。これは、これまでのスマホはもちろん、Questシリーズのコントローラーなどと比較しても、圧倒的に異なるものだと評価されている。

では、そもそも直感的であるとはどのようなことなのか。それは、第一次的には、「人間らしい身体性に近い」と言えるかもしれない。少し硬い言い方をすれば、「原初的な身体性に近い」と言ってもよいかもしれない。この意味では、例えばスマホ上やコントローラー上でボタンを押すという行為はさほど直感的でないと言えると思われる。

そう考えると、空間コンピューティングが直感的なインターフェースを志向するということは、「人間らしい身体性=原初的な身体性」という明確な参照点を持っているように思えてくる。ちなみに、私はApple社が空間コンピューティングのコンセプトを発表したとき、こうした「人間性」や「原初性」の復古の意図を感じて、とても懐古主義的だと感じた。

では、直感的であることを突き詰めて考えてみたらどうなるのか。今思えば馬鹿げた妄想かもしれないが、Vision Proが実際に発表されるまで、私はVision Proにインターフェースがまったく存在しなかったら最高なのに、と思っていた。でも、発表されたVision Proには未だUI(ユーザーインターフェース)がしっかり存在していて、少しがっかりした。まだ私たちはアイコンをタップしたり、ボタンをスライドしないといけないのか、と。

人間らしい=原初的な身体性という神話

私は短絡的に、直感的であること、言い換えれば人間らしい=原初的な身体性を取り戻すためには、インターフェースは無くなった方がよいと考えたが、それは本当にそうなのだろうか。

少し考えると、そんなに簡単な話ではないと思えてくる。まず、「人間らしい=原初的な身体性」という概念があまりにも素朴なものであり、ひいては「人間らしい/人間らしくない」という価値判断を含む暴力的な概念であることに気づく。

文化人類学やサイバネティクスの知見を持ち出すまでもなく、現代の世界において「これは人間らしい、これは人間らしくない」と明確に判断することなどできるのだろうか。

また、別の観点から見ると、古代ギリシャのプロメテウス神話で語られているように、人間は補綴的存在である、つまり何かが欠けた存在であって、技術によってその欠如を補うことなしには生存できない存在であると捉えられてきた。つまり人間はその誕生以来より技術とともにしか生きられない存在なのであるから、「一切の技術以前の原初的な身体性」などというものは考えられない、ということになる。

こうして考えると、「人間らしい=原初的な身体性」という概念は神話に過ぎないと考えざるを得ない。では、私たちは一体何を目指して空間コンピューティングと向き合えばよいのか。

インターフェースの設計は世界のあり方の設計である

こうしたことを考えるときに、いつも思い出すポストがある。

渡邊さんの意図と異なる理解をしているかもしれないが、私はこのポストから、インターフェースは再構成された身体性に他ならないこと、言い換えれば、インターフェースは身体性を規定する、と理解した。つまり、インターフェースの設計とは身体性の設計のことであって、インターフェースが存在する限り、身体性は「設計されるもの」になるということである。

身体性というものを少し哲学の視点で見たならば、それは世界あるいは実在との関わり方とその可能性であり、それはいわば世界との”距離感”、”間(ま)”である。もし空間コンピューティングが、私と世界の関わり方をデザインするものなのだとしたら、そこにおけるインターフェースの設計はまさしく世界との関わり方の設計であり、もっと言えば、世界のあり方の設計であるとも言えると考えている。ただし、ここには私と世界の関係についての固有の考え方が前提になっている。以下でその考え方をお伝えしたい。

人間と世界の間に接合面はなく、融解している

米国でのVision Pro発売に合わせて、弊社ではVision Pro向けの天気体感アプリ「SunnyTune」をリリースした。自分自身は開発に携わってはいないが、体験してみていろんな考察が頭に浮かんだ。

「SunnyTune」を利用すると、目の前に小さな空間が現れます。この空間の天気は現実世界の天気と連動しており、ユーザーの現在地の天気と同じように変化します。雨が降り始めると雨粒の光景を楽しんだり、風に揺れる植物の音をこの空間を通じて聞く。というように、天気を質量のある情報として表現し、目と耳で天候の変化を感じることができます。

また、「SunnyTune」は他のアプリとの併用できるように設計しており、ブラウザアプリで調べ物をしながら雨音を楽しんだり、作業の合間にふと気になったタイミングで天気を体験するといった使い方ができます。

https://www.meson.tokyo/works/gpozbw-gpsvi/

天気とは一体何だろうか。それは人間と地球環境の間にあるインターフェースなのだろうか。いや、本当にそうだろうか。人間と地球環境は、もっと互いに絡み合っていて、容易に解きほぐせない関係なのではないか。いい加減、何かと何かが接合面を挟んで接しているという認識モデルを変えるべきではないのか。

そう考えると、夏の直射日光によって人が皮膚に汗をかいている様子もまた一つの「天気」であるし、冬の弱い陽の光の中で人がため息をつく様子もまた一つの「天気」である。つまり、自己そのものが「天気」なのであって、人間はそれを何かのインターフェース越しではなく、自身のからだを通して知る、すなわち体感するのである。

ここにおいて、人間と地球環境の境界線は曖昧になり、融解する。つまり、天気というものは、人間が作り出した概念に過ぎなかったのではないか。

いつからか、天気とは地球環境についてのただの情報になってしまった。
それは、人間と地球環境が融解しないものとして引き剥がされた世界の姿なのかもしれない。

編み込まれた網としての世界を作る必要がある

空間コンピューティングであっても、VRもARもMRもすべて、「Reality(実在・現実)」という得体の知れない概念の周りを蠅のように飛び回り続けているように見える。

一部の哲学者を除けば、拡張現実も実質現実も複合現実もすべて、未だ真正なReality(実在・現実)とは見なされていないように思われる。それはなぜなのか。真正なRealityが満たすべき条件は何なのか。

私は、世界の中で生きている存在である。世界の外から世界を見ているのではない。私は世界に干渉できる一方で、世界も私に干渉できる(私はそれを阻止できない)。さまざまな存在者が互いに影響し合い、何にも影響を受けずに存立することなどできない点で、この世界は“網”のようなものだと言える。

網の目の一つに指をかけて軽く引っ張ってみると、目の周りの結び目たちが同時に引っ張られて、“世界=網“に歪みが生じる。これが世界の有り様である。そうであるならば、拡張現実や実質現実、複合現実が真正なRealityと見なせない理由は一定理解できる。私にとって、それらは世界という網の中に十分に編み込まれていないからである。

私はいま、複合現実のデジタルヒューマンを目の前にしている。殴ることもできるし、汚い言葉を浴びせかけることもできるし、殺害=削除することもできる。ただ、そのデジタルヒューマンをどうにかすることは、私の現実にわずかな影響しか与えない。良心を呵責はいくらか感じるかもしれないが、誰かに責められることはほとんどないであろうし、いわんや逮捕されることはない。

つまりは、空間コンピューティングが真正なRealityを実現しようとするのならば、それは世界という網の中に十分に編み込まれる必要がある。言い換えれば、編み込まれた網こそが現実(真正なReality)であるのだから、空間コンピューティングはこの“編み込まれた現実(Meshed Reality)“こそを実現する必要があると言える。

どんなデジタル情報であっても(8bitのデジタルキャラクターでさえも)、この編み込まれた現実の中で一つの結び目として存在するならば、それは真に“存在する“と言える。例えば、その8bitのキャラクターを撫でてあげると歓喜の声をあげ、他のキャラクターとそのパートナーの人間がどこからともなく近寄って来て騒々しくなったり、逆にそのキャラクターを殴ると悲しみの声をあげ、それを聞いた人間が近寄ってきて私を責め立てる。

もはや明らかであるように、空間コンピューティングが“編み込まれた現実“の実現を目指す場合、必要になるのは、人間の知覚(何が見えるか、聴こえるか、触れるか等)だけでない。“編み込まれた網“を作る必要があるのだ。言い換えれば、“世界“を作る必要があるのだ。それには社会を作ることも含まれる。

逆に言えば、“編み込まれた網“を作ることさえできれば、リアリスティックな描画は必要ない。8bitで十分なのだ。つまり、私たちには8bitのデジタルオブジェクトをRealityと見なせる可能性があるということだ。

今後、空間コンピューティングがどのような変遷を辿るかはわからないが、Reality(実在・現実)の実現を目指す試みは、上記のような思考に近づいていくのではないかと考えている。

最後に

ここまで読んでくださった方には心から感謝したい。何の答えも提示せず、ただ問い散らかすだけの文章をお読みいただくのは辛かったと想像する。

インターフェースを考えることは身体性を考えることであり、身体性を考えることは世界との関わり方を考えることである、そして、世界との関わり方を考えることは世界のあり方を考えることである。この記事ではそのような旅路を経てきた。

しかし私がもっとも関心を持っていることは、空間コンピューティングによって人間とデジタル情報の関係性がどのように変わるか、ということなのかもしれない。人間とデジタル情報の間に「親密な関係」は果たして生まれるのか。言い換えれば、デジタル情報は”生命感”を持てるのか。

デジタル情報が”生命感”を持つためにはどのような世界のあり方が必要なのか、人間と世界の関わり方はどうあるべきなのか、そこにおける人間の身体性はどうあるべきなのか、そして最後に、インターフェースなるものはどのようなものであるべきなのか。

ただし、なぜデジタル情報に”生命感”を持たせたいのか、と問うことはとても重要であるだろう。さて、なぜなのだろうか。それはおそらく、私がそれを”空間コンピューティングの夢”だと勝手に考えているからであろう。



これはMESONで実施中のApple Vision Pro 1ヶ月記事投稿チャレンジ2月20日の記事となります。

前日2月19日の記事はこちら:Unity PolySpatialを使ってハンドトラッキングする

ぜひMESONへいらしてください!

MESONでは、オフィスなどでのVision Pro体験会実施や企業向けの研修プログラムの提供を行ってます。ぜひ、弊社に遊びに来てください!気軽にご連絡くださいませ。


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