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「大航海時代の日本人奴隷」

米国のバイデン大統領は17日、「奴隷解放記念日」の6月19日を米国の祝日とする法案に署名したとの報道があった。

昨年、人種差別に抗議する運動が拡大するなど、米社会に残る人種差別への懸念が法案制定の後押しをしたのかもしれない。

また、6月19日は、最後まで奴隷制が残っていたテキサス州で1865年に解放が宣言された日にあたるとのこと。

米国での祝日の創設は、1983年に公民権運動指導者マーチン・ルーサー・キング牧師の誕生日を祝日に定めて以来、38年ぶりだそうである。

奴隷というと、私が大変、胸をうたれたのは、以前読んだ「天正遣欧少年使節団」という本であった。

1580年代に九州のキリシタン大名の名代としてローマに派遣された4人の少年使節団が往路に、奴隷として働かせられている日本人達を目撃して大変な衝撃を受けたという一節があった。

奴隷とは、我々とは全く無関係で遠い国の話と看做してきた私には、大変な衝撃であった。

それからネット等で日本人奴隷について、散発的に情報を得ていたが、この春、大航海時代の「日本人奴隷」という本に出会い、考えさせられることばかりであった。

奴隷という言葉の持つ意味が、人でありながら、他人の所有物として扱われ、自らの権利や意思、自由もなく、労働、売買、譲渡の対象物という存在であり、生涯をそのままの状態で終えてしまうということである。

そもそもは、戦争の勝者が、捕虜や被征服民族を奴隷とするという行為は、古代には世界中で風土・慣習・伝統の違いによる地域差こそあれ、普遍的にみられた行為といわれている。

然しながら、私を始めとして、多くの日本人が「奴隷」というものを、知識として、頭では知ってはいても、どこか遠い国の話としているのが、常態であろう。

映画や本等から獲得した知識として、頭で知っているということと、日常の自分の身の周りで、現実起こっていることから、経験的にわかっているということの違いは、としても大きいであろう。

例えば、私の場合、妻の突然死とコロナ禍による自粛生活等で、全くの未経験であった家事というもの必然的に取り組まなければならない状況となってしまった。

そして初めて「名もなき家事の多さ、大変さ」に気づかされ、また、コロナ禍での在宅勤務で、それまで見落としていた雑務を次々と発見したのである。

まさに経験して初めて、当事者となったことにより、様々なことが身をもって分かってきたということである。

日本人奴隷についても関心をもって調べていくと、我々の同胞が、それも数十万にもの人たちが、奴隷として売買され、ヨーロッパに運ばれていたという事実は、驚愕である。

もうひとつは、風土、慣習、文化等の違いは、大きいにせよ、人間という生き物の本質は、有史以来、さほど変わっていないのではなかろうか?

米国の進化生物学者、エドワード・オズボーン・ウイルソンは、「我々人類は、感情は石器時代から変わらぬまま、制度・ガバナンスは、中世から変わらぬままに、技術だけは、神レベルのものを手にして21世紀を迎えてしまった。」と評したとのこと。

大変、言い得て妙である

科学や技術がどんなに発展しても「人間の本質は何か」、「人間は何に基づいて行動するのか」ということになると「論理や理屈」よりも「感情」や「好き嫌い」、或いは「人よりも多く獲得したい」等といった極めてエモーショナルな領域に突き動かさるということであろう。

我々、人間の「所有欲」、「物欲」等々、それは、エドワード・オズボーン・ウイルソン教授の指摘のとおり、有史以来、本質的には、変わらないものであり、「現状の変革や改革」等でも、理屈やロジックだけでなく、人間としての本性にも十分、注視して取り組む必要があることを改めて考えされられた次第である。


大航海時代


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