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  2-❾ 入院

 もうすぐ秋競馬が始まる。
たくさんの想いを一手に引き受け、ターフを駆け抜けるヒーロー、ヒロイン達が輝きを放つ季節がやってくる。

 陽光を浴び、心身を固めた競走馬が、真一文字に坂路を駆け上ってくる。

 秋の天皇賞、1週間前追い切り。モニターにタイムが掲示された。
 「前半ゆっくり行って、しまい伸ばすイメージで」

 800メートル56秒0ー11秒0

 見守っていた師は笑みを浮かべた。


 追い切りを終えた騎手は師に駆け寄った。
「終始馬なりでしまいの反応を確認しましたが、とても良い動きでした。体に芯が入ってきた感じです。息遣いも良化し、来週の追い切りで仕上がると思います。まともに能力を発揮できれば・・・後は、僕ですね!」

 翔馬は自分の頭を指差して笑った。
「そうだな」師はその通り!と言ったかのように笑っている。
「後は馬場と枠だな。良馬場、後入れ、内枠偶数番が引ければ・・・」
 勝負事は、実力はもちろんであるが、運も必要・・・すべてが噛み合ってこそである。

「ゲメインシャフト帰厩は来週ですよね?」
 翔馬は汗を拭い、師から渡されたミネラルウォーターのキャップを外し、喉を潤す。
「ああ。昨日の報告では、馬体重450キロ・・・2ヶ月の休養で20キロ増えたな。しっかり中身を作っていくぞ。頼むぞ。翔馬!」

「ハイッ!」


 いよいよ忙しくなりそうだ。翔馬は気を引き締め直した。
 それにしても・・・先生、少し痩せたような気もするけれど・・・夏バテかな?忙しいからかなあ・・・胃薬飲むほど、大変な仕事なんだな。

 数人の調教師や騎手仲間等と挨拶を交わし、翔馬はシャワー室に向かった。


 ベッドの上の彼は、何度も何度もYouTubeでそのレース映像を確認していた。
 手術を終えて、5日が経過していた。
今日ようやく面会禁止が解除され、数人の見舞客が訪れる事を医師が教えてくれた。その中には間違いなくあいつもいるのだろう。

 すいませんでした・・・
  だから言ったじゃないですか!
 もう大丈夫なんですよね?

 それにしてもなあ・・・確かにキリキリ痛みもあって、食欲が湧かないのは気になっていたがなあ・・・。夏バテが尾を引いているのだろうと軽く考えていたのは反省しなきゃな。してる振りでもしなきゃ、あいつがうるさいだろうからなあ・・・。

 彼の微笑みに気づいた女性が、花を活ける手を止めた。
「どうしたのお父さん?」
「いやあ・・・あいつに命を救われたようなもんだなあ」
 花器に活けられた鮮やかな花に目を留め、彼が呟いた。

「そうよ、お父さん。翔馬君がお父さんの体調が思わしくないと気づいてくれたから、今ここにいるのよ!まぁ、今天国に行ったって、きっとお母さんに追い返されるのが関の山だと思うわ」

 娘には叶わないと悟った彼は、
「馬の事は分かっても、自分の事はなあ・・・ま、病人には優しくしてくれよ。それよりもお前、大学は大丈夫なのか?」
と尋ねた。

 彼女は父親の入院を本人からではなく、調教助手からの連絡で知った。
 京都大学に通っている彼女は、学生寮に入寮しており、年に数回ほどしか父親と顔を合わせる事は無い。
 久しぶりの再会が、病院で、しかも手術明けとは・・・驚きを通り越し、呆れ果てている様子。

「大丈夫じゃないよ!ゼミにも出なきゃならないし、卒論だってまとめなきゃならないし。明日の午後には帰るから、何かして欲しいことがあったら言ってね」

 彼女は自分で食べる為だろうか・・・ショルダーバックの中からサバイバルナイフを取り出し、りんごの皮を剥き始めた。山岳部員は、サバイバルナイフを普段持ちしているらしい。
 彼の視線を感じたのか、
「大丈夫よ。銃刀法には違反してないから」と戯けて見せた。

 彼女が何等分にもカットしたりんごを皿に乗せたその時、来客を知らせるブザーが鳴った。

「来たか・・・うるさい3人組が!」

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