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日記エッセイ『便座って、消耗品ですか?』#35(2023/4/3)

・「笑顔と癒しを探す旅でみつけたもの」

トップ画にちゅ~もく‼みんなのフォトギャラリーから、naonakanoさんの写真を使わせていただきました。実はね、ここ、北海道函館市の香雪園っていうかなり広めな公園なんだけど、僕子供の頃から大学が決まる位まで函館に住んでいたんだよ。しかも函館市民にとっても、僕たち家族にとってもこの公園に犬の散歩させに来るくらいの本当になじみのある公園なんですよね。

今でこそ、この公園との関係はちょっとご無沙汰ですけど、色んな想い出が詰まっているんです。四季がものすごくはっきりしている日本にあっても、さらにくっきりはっきりしているのでその季節ごとに楽しめるというか。
春にはさくらやうめ、夏には避暑地になってくれ、野球場でカッコよく駆ける愛犬を眺めることができた。それに、夜になるとイカ釣り船の光がその公園まで届いていたりして、函館にいるんだなぁと実感したものだ。秋には実を付けた栗がその重さに耐えきれずパチンパチンと音を立てて落ちてくる。それを近隣住民が拾いに来る。冬には一面の銀世界と凍える木々のコンストラストを観ることができる。普段なら暗く、寒々としていた冬の光景もこの公園のフィルターを通すことによって、ぱっと明るく照らしてくれるようなそんな懐の深い公園に離れている今なおさら恋しく思える。

わが家の父は転勤族だったから、各地転々としていたけど、函館は長かったし、うちの親父もオカンも妹も、気に入ってるみたいだったからな。
オレ?俺は・・・例外なくといいたいところだけど、人間関係でつまづくきっかけの街だっただけに苦手意識が強いかな…?

だけど自然に罪はない。

あの公園は癒しだったな~。
こういうことを考えるようになるのは
自然回帰な気持ちなんだろうか?

ま、大事な想い出が詰まった公園であることは間違いないな。

・わが家のチャンネル争奪戦争、その退化と未来メディア論

我が家の本当にそれなりに、まぁそれなりに
仲の良い家族なんだけど、こと「テレビ」となると
それはそれは熾烈な戦争が起こった。

今でこそ僕と妹家族のネット回線の取り合いにシフトしたが
父母に僕や妹が加わり観たいものが衝突した時
それは起きた。しかし大抵父か母の大きなカミナリによって
父の観たいものに落ち着くという結末になるのだった。

思い起こすと、自分の部屋にテレビがあったのは、僕は小学3年、妹が小学1年の頃で、ファミコンをするために、親戚から買い替えのために余ったアナログテレビ(今では見ないがガチャガチャ、VHF,UHFの電波ごとにチャンネルを回すタイプのテレビ)を貰ってきて、コンピューターゲームに興じていたのだ。

テレビが与えられていたにもかかわらず、居間では壮絶なチャンネル争奪戦争が起こっていたのだから、不思議だ。家族の食卓において、自分の観たい番組がかかっていることがそんなに大事なことだったのか?うちの場合は譲り合って・・・という雰囲気でもなく、とりわけ暴力に走るわけでもなく、
チャンネル権を手にした誰かが笑い、取り損ねた誰かがむくれるという構図が不思議と出来上がっていたように思う。

でもそんな風景も、どこの家庭でもいつの間にか薄れた。
個人の部屋が与えられ、テレビもその数だけ与えられ、
インターネットまで整えられている部屋がある。
そもそも論、テレビはそこまで観ないが、
動画は観るという世代にシフトした。

私の父の時代は映画が花盛りの時代だったし、僕の時代はテレビに何らかの
(ファミコンとかビデオとか)拡張機能を使う時代だった。現在の世代は、
完全なるデジタルネイティブ。SSDに面白いと思った動画を作って貯めておき、YouTubeやらTikTokで僕たちの時代にしたくてもできなかった”発信者側に回る”ということができるようになった。僕らの時代で発信とかいうことをしようと思ったら、テレビ局やラジオ局に自らはがきや電話で投稿するか、(あくまで合法的な範囲の)FMトランスミッターのようなもので「ラジオごっこ」するのが関の山だろう。まぁ無線という手もあるだろうが、そこまで発信することに情熱やお金を投入する人もいなかったが。

話は戻るが、それではテレビやラジオのようなメディアは力を失ったのだろうか。僕の時代には新聞やテレビ・ラジオには
裏取り力(記者の取材による裏付け)があるとされた。

ただこれだけ多角化した日本社会・世界情勢に於いてメディアによる情報そのものや情報に対する分析の偏りが出てきてしまうのもやむを得ないことであり、メディアに対するとりわけ裏取りに対する信用能力が低下・個人の情報の取捨選択の性格・分散したことによると考えている。自分の考え方に近いメディアを選ぶのは昔からどの会社の新聞を読むかなどでも測られてきた。

結局、結論として何が言いたいかというと、わが家もチャンネル争奪戦争を通してメディアを観る目が多角化して、とても個人的なというかパーソナルな部分で情報を取捨選択できるようになったということなのだけれど、これがいい部分と悪い部分がある。良い側面と言えば、ごく最小単位である個人の思いを最大限くみ取るメディアを選択できるということに尽きる。
それにわるい部分と言えば、個人を尊重できるようになったその反面、
考え方をある程度自分でフラットに持っていけない人にとって、情報というのは自他ともに凶器であるということを自戒しておかなければならないということ。過激な方向にどうしても行きかねないのだ。

情報の取捨選択をわが家も経てきたのだな、うむ。


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