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【揺れていたもの】(短いお話)


 あの木の陰に揺れていたものが、目の中で僕に顔を知らせようとしていた。それを必死で拒絶しながら、僕はありったけの力で腕を振り回した。世界は赤黒い空の所為で、暗く重たい。これは夢なのだと言い張れるのに、ちっとも世界は切り開けなかった。終ぞ晴れることのない闇が落ちて来る。その前触れに閉じ込められていた。これが現実ではないことは明白なのに、僕の腕はいつまでも愚鈍に僕の周りを回っていた。そんなものに恐れを抱くはずもなく、揺れていたものは迫っていた。ゆっくりとした、その確実さに僕は慄く。少しも活路は見出せなかった。こんな時に祈る神様でもいればよかった。そんなことを何度もこの場所で考えたことを思い出した。目が覚めると、この恐怖に蓋をしてしまうのだ。だからいつまでも加護の期待のないまま、寸分違わないここへ、戻ってきてしまうのだ。ああ、それでも神様、僕を救ってやろうという気はないだろうか。神様だというそれだけで、慈悲をくれないだろうか。駄目元の懇願をする僕の目の前、揺れていたものの後頭部が、すぐそばまできていた。悲鳴は、恐怖で喉の奥に張り付いて出てこなかった。目を瞑ることが叶えば、見なくても済むのに。瞼は、睫毛の先が、眉下の皮膚に植わってしまったかのように動かなかった。ああ、もう駄目だ。あれの顔を見てしまう。首を滑り落ちる汗。その水の膨らみの様子さえ、俯瞰して見られるような気がした。黒い、長い髪の毛。重たそうにぶら下げられたものは、どんな様子なのか。考えたくなかった。気が遠くなりそうになったその時、奇跡が起きた。振り回していた、永遠に目的のものに当たらないと覚悟していた拳が、それにぶつかったのだ。それは衝撃に吹き飛び、そして音と共に地面に崩れた。手の甲にこびりついた髪の毛と、その下の僅かな肉と骨の感触。僕はやっと、振り回していた腕を止めた。肩で息をしながら、赤黒い空を背中に背負って、倒れ伏しているもののほうを見た。本当は見たくなかったのに。自分が、優位に立ったような気がしたのかもしれない。止めておけばよかった。正しい判断を下すはずの理性は、僕を見捨てて、もう遠くへと逃げ出していた。それは、顔を上げた。僕を真っ直ぐに見上げる。その顔を、僕は知っていた。頬や小鼻の縁に腐肉を斑に残し、目は底なしの闇のように、深く抉れて黒かった。そこに嵌っていたものは、落ち込んで、頭蓋骨の底で溶けているのかもしれない。こうなる前、遥か遠くにある記憶の中の表情が、沼の底から吐き出された泡のように浮かび上がって、割れた。それを合図に、骨を赤く染めるものの名前を、僕は思い出した。瞬間、辺り一面に立ち込めている臭いに、胸が押し潰される。僕は、口を渾身の力で塞いだ。

 

 目が覚めた僕は、呼吸の苦しさに一瞬パニックになった。手が首を締め上げている。その手が自分の手だと気付くのに、また数秒かかった。自分の手だと、絞めているのは自分の首だと気付くと、込められていた力はすんなりと抜けた。息を無心に取り込む。一指ずつ取り外した手は見事に痺れていて、暫くは自由に動かなかった。いったい何が原因でこうなったのか。考えてみても理由は分からなかった。恐ろしい夢でも見たのかもしれない。僕はゆっくりと呼吸を繰り返し、痺れが薄まった手指の動きを確認し、ベッドから起き上がった。
 窓の外はまだ薄暗かった。天気は悪くはないようだが、風が強い。少し先にある神社の御神木の、枝先が揺れている。その時、いつも部屋の窓から見降ろしているその緑の影が、大きく揺れた。それは不自然なしなり方で、好奇心と不安を、力ずくで掻き混ぜて波立たせた。ふと、その水面に浮かんだ表情。それは一瞬で、また幻のように掻き消えていった。


(これは10.28の文芸会で発表したものです)

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