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小林賢太郎のブランディングと長く売れるためのイメージ戦略

はじめに

「仕事場は劇場」と宣言し、年間三桁を超える日数を本番の舞台上で過ごす、小林賢太郎 。
「水曜どうでしょう」などを手がけた鈴井は小林を「自分の考えを貫いてるかっこいい表現者だ」と評価している。

世間の流れとか、世の中の流行であったりとか、そういうものを深追いするんじゃなくて。むしろ世間の風にぶち当たったりもしながら、自分を貫いている。それにファンの方たちが付いてきてくれてるっていう、正しい表現のあり方だなって思う。今のものづくりって、既にみんながわぁっと盛り上がってるところに身を投じて、「僕も仲間に入れて?」って入っていく人たちが多いんですよ。そうじゃなくて、場自体を自分でちゃんと作って、そこに「おいでよ」って言ってる。ものづくりをする人は、場もつくる人だと思う。小林賢太郎はやっぱり、本物だよね。

エンターテインメントの世界には、旬やブームがあって、それゆえに続けていく難しさがある。2002年出版の「CUT」は「笑いは闘う」と題した特集で、お笑いについて以下のように定義する。

巨大メディア、テレビを軸に他を圧する物量で消費される、もっともポピュラーなエンターテイメントであり、それを志す表現者の数もまた正確にはとらえきれないほど膨大な容量を抱え、結果、そこではどこよりも熾烈なサバイバルゲームが日々繰り広げられていて、必然的に、終わりのない技術革新と世代交代がラジカルに断行されるー、それが“お笑い”である 。

厳しいサバイバルが繰り広げられるお笑いの世界で、テレビには出ない、チラシを配らないなど、媒体に頼ることなく劇場を満員にしてきた小林賢太郎。

「作品の質」「経済的な成功」の二つを手にするために小林が行ってきたこととは何なのか。本稿では、小林の「ブランディング」と「イメージ戦略」について考察していく。

目次
はじめに
第1章 売れる準備はできているか
第1節|人生レベルのスケジュール
第2節|コント馬鹿というイメージを作り上げた理由
1.2.1|試行錯誤の時代
1.2.2|逆境の中で行った差別化
第2章 表現と経済
第1節|作品と商品のバランス
第2節|「人に話す」というアクションの引き出し方
2.2.1|散らさないチラシの作用
2.2.2|見たインパクトを持ち帰らせるために舞台裏を見せない
2.2.3|舞台裏を見せる見せない
第3節|「自分だけはこれが好き」とみんなに思わせる方法
2.3.1|マニア心を刺激する
2.3.2|どこまで開かれた存在にするのか
2.3.3|テレビの出ない理由
2.3.4|「知名度を最小限に抑えたい」
2.3.5|有名になるとは
2.3.6|「作品の希少性を守りたい」
2.3.7|架空のトライアングルにとらわれない
まとめ

第1章 売れる準備はできているか

小林は、売れている人には共通点があるという。それは「売れる準備ができていた」ということ。準備ができていないのにパッと注目されてしまうとまたパッと消えてしまうと述べ、チャンスが来たときにものにできるかどうかもそれまでの準備次第だと指摘する。

小林自身は、「チャンス」というものをほとんど無視してここまで来たというが、その理由は自分のエンターテインメントブランドを育てる工程に「運」を持ち込みたくなかったからだという。

そんな小林は、人生レベルでスケジュールを立て、ブランディングを進めながらこれまで舞台に立ち続けてきた。

人生レベルのスケジュール

2002年のインタビューでラーメンズの立ち位置について「自分が描いてる青写真よりも、ちょっと手前のペースで来れてるかなあと。何年何月までに僕がなっておかなけれないけない立場とか、結構人生レベルのスケジュールを作るのが好きなんですよ」と話し、2010年のインタビューで「ラーメンズはもう来るべき位置に来ているような感じがするし、法則も見えている。ラーメンズは青写真を描いてはそれをクリアしていって、あのグラウンドをつくっていた。」と発言している。

「メディアにあまり露出せずに、ここまで劇場を満員にできる2人っていないですよね」 という質問に小林は次のように答えている。

僕がコツコツやって来たことが徐々に実を結んできているのかなぁと。
10年越えてきたので言いますけど、第1回公演のときに、10年後のことを考えて書いたんです。それはちゃんと実を結んでいるなと思いますね。でも、ふらふらしてた部分もありましたよ。デビューしたてのころは、自分たちがやりたいことはそんなに明確じゃなかったですから。今回の『テキスト』みたいな、テンションや人のおもしろさの前に、構造美みたいなものがあるコントは、デビュー作のころから何割かは入ってたんです。でも「自分たちがやるべきことはどれなんだろう?」という自問自答しながら10年やってきて、削ぎ落してここに来ているので、「ラーメンズっぽい」っていうのはこういうことでいいのかなと。

小林はデビューから10年分ぐらいの計画 として「知名度の調整とか、乗り越えるべきハードルの順番とか。いわばセルフブランディング。自分という商品をそう育てていくか」を考えて実行してきた。そのなかに、「ラーメンズをコントブランドに育てていく」という指針を立てていた。


コント馬鹿というイメージを作り上げた理由

デビューしてから小林は自分を「コント馬鹿」というイメージを周りに植え付けるように活動してきた。その理由として「コントを見たかったら、コントしかやってない店に行った方が、きっと上質なものが手に入るんじゃないか。その感覚はきっとお客様にはあると思うんで。僕は専門店が好きですから。スーパーより商店街のほうが好きなんですよ 。」と小林は語る。

 小林は、美大に現役で合格できるほどのデッサン力を持ちながら、芸人になってすぐは絵がうまいことは隠していた。理由は、これまた「コント屋さん」としてのブランドを作るためだ。

「何でも屋」になりたくなかったんですね。「コント馬鹿」「それだけをやっています」と思ってもらいたかったので。「コント屋さん」としてもブランドを一回かちっと固めなければ、とそれこそラーメンズの初期の頃はずと思っていました。もう、可能な限り、コント以外の仕事はやらない。コント作り以外のスキルを見せることはやめよう。そう動いてきて、絵のことだけではなくて、さっきいたように僕は手品も好きだし得意なんですけれど、そのスキルもできるだけみせないようにして「コントのことしかわかりません」という自分でいたいみたいな時期が十年ぐらいあったんです。
絵も、美術の学校に合格させてもらえるぐらいまでは、やった。マジックもお金をもらえるレベルまではやらせてもらった。お笑いって、やりはじめた時には特にスキルもレベルとしては僕の中では「三番目のもの」だったんですね。(中略)でも、大学に入って僕の相方である片桐仁という面白い人に出会って「これはすごいな」「面白い、ということはすごいんだな」と思ったんです。そこで変わった。絵がうまいねとほめられるよりも、マジック不思議だねと感心されるよりも、笑ってもらいたいんだと思ったんですよ。で、「じゃあ、前のふたつはもういいや、やめよう」みたいになったんですよね 。

その後ラーメンズとしてプロになると、その「やめよう」を意識的にするようになり、コントブランド確立のため絵やマジックが得意だということを隠していたのだ と小林は明かす。2011年のインタビューで小林はラーメンズの活動を振り返り、「ラーメンズでは僕は相当勉強させてもらいましたね。」と語っている。

もともとそういうブランドをつくろうとしていたんです。舞台上で人間がコミュニケーションしているところを見せて、笑うなり、感動するなりで、お客さんが反応する最小単位を作ろうと。本当の最小単位は一人芝居なのかもしれないですけど、僕はそこまでの演技力もありませんし。書道では、楷書の「永」という字に、止めもハネも払いも全部入っている。あの一文字が上手く書けると書道が上手いということ。ラーメンズはそこを目指した。ラーメンズのこのコントとコントとコントをカバーすれば、あらゆるコントの形をえられるという。15年後の自分の財産を作り始めていたのかなとも思う 。

38歳の時点でのインタビューで、今後の活動についてセルフブランディングのことを踏まえて小林はこうコメントしている。

なんとなくなんですが、僕の中では40歳までは下積みなんです。だから習い事とか、新しいことへの挑戦は、今から2年間はやる。そして40代になったら、それまでに作った作品を円熟させていく作業に入ります。方法とかスキルの部分で後輩に伝えるべきこともあるかもしれないし。エンターテイメントを観る角度を、少し変えるべき時期がくるはずですから、今は好奇心に逆らわないにしようかなと。

作家でも映画監督でも建築家でも、多くのアーティストが名作と呼ばれる作品を40歳以上で生み出していると分析して、40歳までは下積みと思ってがんばってきたという小林。彼は著書の中で、40歳になった心境を語っている。

僕は実際に40歳を通過しました。39歳と40歳との間には、境界線はありませんでした。「40」は数字のうえでキリがいいだけで、とくに意味不明はありません。成長も成功も、なだらかなものですから、青虫が蝶になるような劇的な変化はあるわけないのです。
 ただし、新しい視点が現れたことは確かです。それは、「人生の本番が始まった」という感覚です。
 何かに憧れているうちはお手本があるわけですから、そこに向かっていけます。けれど夢を叶えてから、前に道はありません。自分で切り開いていくしかないのです。しかも、僕がかつて誰かを見て勉強したように、誰かに見られているかもしれません。一歩一歩の大切さと、責任を感じています。

40歳のいま、自分がやりたい仕事に向き合う環境にいると話す小林だが、デビュー当時はいろんな葛藤や試行錯誤があった。

試行錯誤の時代

大学の3年生のときに、小林が片桐に声をかけたのがきっかけでラーメンズというコンビが結成された。

結成当時は、小林がボケで片桐がツッコミの、極めてオーソドックスな漫才をしていたという。スケッチブックを使ったネタや、わりとブラックなネタとかもやっていたそうだ。

そのとき大学に「大学生を対象としたお笑いコンテストをやるので、出場者を募集しています」というチラシがあり応募したが、もう締め切りは過ぎていた。
その代わりに、毎月やっている選抜ライブみたいなものに出てみないかと言われ、中野の芸能小劇場でやっていた、大学生がいっぱい出るライブで、毎月ネタを披露するようになったのだ と相方・片桐は話す。

しかし、そのライブの場は大学生が中心であったために卒業すると辞める人が出てきて、コンビがだんだん減っていったのだという。ラーメンズのふたりは卒業しても漫才コンビとして続け、そのお笑いコンテストに残っているコンビを集めて事務所の合同ライブをやったりしていた。
その当時はもっと「テレビに出られるようになろう」という気持ちはあったというが、合同ライブでは思ったような結果を出せなかったのだという。そのとき芸人を辞めようとおもったときもあると片桐は明かしている。

ボケとツッコミの役割を交換しても、賢太郎は自分を作って舞台に上がるタイプだから、ものもと素で出るのは好きじゃなかったし、入れ替えてもダメ、そのままでもダメで、僕がかなり落ちこんじゃったことがことがあるんですけど、そのとき賢太郎から「辞めようか」って言われたんです 。

しかし、それで辞めるのは本当に情けないと、いろんなコンビのライブを見に行ったり、ビデオでお笑い番組を見たりして、「方向を変えよう」としていった。同じネタでも、ボケとツッコミをやめてボケボケに変えたり、だんだんマイナーチェンジをして芝居っぽい方向になっていったのだという 。

その後、「爆笑オンエアバトル」の第一回に「現代片桐概論」を演じ500キロバトル以上を取り、ラーメンズの第3回公演のときは逆の行列ができるようになったのだという。

第3回公演までの劇場はシアターDというキャパが百人ほどの小さな劇場。第1、第2公演では、「来たいという人に見てもらわなければダメだから」という理由で知り合いに手売りするのはやめていた。ゆえにあまりお客は入らなかったそうだ。

それが第3回公演になると三百人以上、その次の公演では倍の六百人ほどになり、立ち見が出るほどになった。そうして単独公演でお金がもらえるようになり、今ではチケット販売と同時に即完売も少なくない小林の舞台。

しかし、デビュー当時は仕事を選べないゆえに様々な逆境にあったのだと小林は語る。

逆境の中で行った差別化

駆け出しのころは仕事を選べるような立場ではなく、はじめの何年かは、小林がもつ人生計画に邪魔が入ることがよくあったのたそうだ。不本意な仕事をやらされ、何度も悔しい思いをしたのだと小林はいう。

しかし、「このままでは損だと思って、作戦をたてました。自分の計画にねじ込むために、与えられた仕事を矯正してしまおうと考えたのです。」とやりたくない仕事をやるべき仕事に変える方法でほかの芸人との差別化を図った。

やり方はこうです。まずは、その企画のねらいをよく理解します。テレビ番組なら、ディレクターさんに話を聞き、何をやったら企画意図と外れてしまうかを知るのです。そうすれば「……ってことは、これはやってもいいことですよね」と切り出せる。いきなり無許可でやったりはしませんよ。自分の作品ではないということはわかってましたから。こんなやり方で何度も切り抜けていくうちに、使う側にも「こいつには何をやらせると面白いか」ということを理解してもらえるようになります。

「不本意」を理由に避けてばかりいては、結果は出ない。「自分の思っていることと違うことを要求されたときこそ、サバイバルに切り抜けて自分のためになる結果に結びつける」ことが大事なのだと小林は主張する。
そこにあるルールの中で、自分の力を発揮できるような方法を考えて、実行して、結果を出す、これによって、企画力とかプレゼン能力がずいぶん鍛えられたと小林は当時のことを振り返る 。

その他にも、大学祭などに呼んでもらう際。主催者はイベントのプロではないために会場に空席が多いこともある。こんなときは適当に仕事をこなす芸人さんもいるというが、小林はそんなときこそ内容を充実させるようにした。

期待せずにたまたまやってきたお客さんに「これほど面白いものを、たったこれだけの少人数で楽しんでいるという贅沢」というとらえ方をさせるんです。観客はその優越感から、ライブが楽しかったことを必ず人に話してくれます。新人は環境に恵まれないことが多いものです。だからこそ、それを利用しなくてはもったいない。質の良い仕事をすれば、必ず誰かが評価しています、まわりには「他の新人」という比較対象もちゃんといますからね 。

ここの「人に話す」というアクションの引き出し方は、小林流経済的な成功も手に入れるための戦略の一つだ。

次の章からは、コントブランドを作り上げる一方で、小林が行ってきた経済的な成功も手にする集客メソッドを明らかにしていく。


第2章 表現と経済

舞台作品の上演にはお金がかかる。たくさんの人にチケットを買って劇場に来てもらって、来た人にうけるだけでなく、商売として成立しなければ、次の作品を実行することができない。

そう、芸術も経済的な成功を無視するわけにはいかないのだ。

作品と商品のバランス

「コントって商業。作っているものは商品なんです。」と小林はいう。とはいえ、小林は美大出身。「つくることは、生きること」と言うほど日々作り続ける小林は、作品と商品とのバランスを常に考えている。商品として成り立つために、小林は厳しい基準を設けているのだと言う。

作品なら僕がが本能で作って僕が面白いと思っていればいいわけです。でも、お客さんが来て笑ってそこで完成する、次もお金を払ってまできたいと思わせるための見応えのレベルを考えると、一定の基準をクリアしないとダメなんだって、そういうことはいつも考えています 。

映像作品をともに作る小島との対談で、作品と商品のバランスについて小林はこう語る。

僕はオチっぽいオチとか、これをやると絶対ウケるみたいな、いわゆる「保険が効いた笑い」はできないんだと。だからこんな風に独特な感性でやってるんだよみたいな顔して舞台をつくってるんですけど、本当はなんとなくそういうものもつくれるんですよ。で、まったくそういうものはつくらないという振りをしているんです。でもね、本当はちょっと保険をかけるんです。そういうベタな「笑い」の要素も、コントの中に少しだけ入れておく。というのも、やっぱりこれでメシ食ってるわけですから、商品として成立しないといけないですよね。僕ね、やっぱり売れてナンボだと思うんですよ。チケットが売れないと意味ないって思うんです。お客さんがお金を払って入ってきて、笑いが起こって、それでやっと作品が完成だと僕は思ってるので 。

プロの表現者としてやっていくならば、舞台のチケットが売れて、お客さんが入ってきて、笑いが起こるまでで作品が完成すると小林は考えている。

「表現者として責任を果たすということは、良い作品をつくるということ。そして作品がよければチケットは売れます。」という小林はいうが、チケットを売るために企てた策略はチラシの配り方など詳細に張り巡らされている。

小林の集客メソッドは、主に2つと考えられる。
・「作品の良さ」を前提とした「人に話す」というアクションの引き出し方
・「自分だけはこれが好き」という状態をみんなに思わせる方法

「人に話す」というアクションの引き出し方

散らさないチラシの作用

小林の舞台作品で、チラシは作るが事前に配らない。公演当日にその会場に来たお客さんにだけプレゼントするのだ。本来チラシとは、観客が会場に足を運んだ時点でその機能を終えるが、小林の舞台のチラシは、公演当日から機能を発揮する。

チラシをおみやげとして持って帰っていただく、つまり、作品の一部を持ち帰ってもらうことに意味があるのです。観客は終焉後、家族や友人や同僚にそのチラシを見せたり、話題にしたりします、事前に配られた誰でも手に入れられるチラシよりも、当日その会場にきた人しか手に入らないチラシの方が「話のタネ」としてあつかってもらいやすいのです。そしてその感染効果が、先の公演の集客に表れてくる、という仕組みです 。

ラーメンズにとって、チラシは、宣伝のためだけではない。その公演に来ればもらえる、いわばおみやげのようなもの。

公演終了後も大切に持っていたいと思わせる、クオリティの高いデザインを手がけるのは、グッドデザインカンパニーの水野学。数々の偶然が重なり、第5回公演『home』よりプレーンとして参入してきた彼は、ラーメンズの2人と大学の同級生でもある 。これ以上ないというほどのクオリティでつくられるポスターやチラシなどは、「作品内容も最高のものにするぞ」という覚悟が必要なものだと小林は語る。

水野はラーメンズのデザインを手がける際に、10年後、20年後を考えて、「ラーメンズというブランドを日本に定着させることはできないだろうか」というふうに考えたという 。小林と水野は2人で膝を付き合わせて、どうやったら舞台にお客さんが来てくれるのか、と夜な夜な真剣に考えたのだと水野は語る。いかに媒体に頼ることなく、どうすれば舞台に足を運んでくれるのか、チケットが売れるのか、と。

なお。この作品の一部を観客に持って帰ってもらい、「話のタネ」として作用して感染効果が先の公演の集客に表れるという仕組みは、「作品そのものが絶対に面白いということ」が条件となる。

舞台は生もの。面白ければ観客は笑うし、面白くなければ笑わない。作品そのものが面白くなければ、「面白くない」という噂が広まることになる。

作品への絶対的な自信と信頼あっての散らさないチラシなのだ。

観たインパクトを持ち帰るために
舞台裏を見せない

小林が舞台を観に来た観客に持ち帰ってもらうのはチラシだけでない。
「すごいものをみたんじゃないのか」という講演を観て受けたインパクトも家まで持ち帰ってもらうために演じ方も工夫している。

例えば、ラーメンズらしいと評価が高い「同音異義語の交錯」というコント。これは「ダジャレの地位向上を目指したコント」と小林はいう。メイキングとしては、大まかに3段階でつくられている。

⑴テーマ・仕組みを決める
まず公演名である「TEXT]といえば?と考えキーワードを出していく(ダジャレなど)
⑵ほめられ方を想定する
「ダジャレでここまでやればすごい」
⑶つくっていく
同音異義語を辞書で調べまくってストーリーにつなげられるようがんばった。

上記の工程で作られたコントであるが、同音異義語を調べストーリーを作るのはまだしも、ラーメンズのコントとして発表する以上、笑えるものでなければいけない。何十もの案を捨て、最終的にあのコントへ磨いていったのだという。

それほど裏で時間も努力もかけた作品は涼しい顔で発表される。その理由はなぜなのか。

その回のライブ全体の中で、いちばん時間がかかっていたんです。でも、舞台では、「まぁ、こんなこと思いついたのでちょっと見てみてくださいね」みたいな顔でやるわけで。ほんとうは作るのにめちゃめちゃ大変だったのに…むちゃくちゃ難しいのに、「これは難しいことなんです」ってアピールをできるだけしないで最後まで辿り着きたい。で、たとえば公演を観たあとの帰り道になってからお客さんが「……あれ、あの時のあの話って、笑っていて気がつかったけれども、どうやって作ったんだろう?」「もしかしたら、すごいものを観たんじゃないのか……?」と、何と言うか、のちのち内臓の中に効いてくるように「いやぁ、すごかったわ……」という気持ちを発生させるほうが好きなんですね。僕としては、そういうもののほうが、お客さんが講演を観て受けたインパクトを家まで持って帰る率が高いんじゃないかと思っているんです。
その場でピークが来る、瞬間最大風速的な笑いとか相手とかで「すごさ」を伝えるよりも、厚みが出てくると言うか。

舞台裏を見せる見せない

2004年のインタビューで小林は舞台裏、つまりメイキングをどこまで話すかのバランスについて苦悩している。

メイキングをどこまで話していいのかすごく悩んでいるからなんです。
舞台に関しては、脚本にどのくらいの時間かけて、稽古はどうするのかという平均値はない。すべてバラバラですからね。お客さんが舞台を見に来てくださった際に、”このコントはたぶん2か月前に書いて、1か月前に稽古して、あの部分を…”なんていうのは邪魔なんです。ただ目の前にあるそれをゼロから感じて、自分なりのゴールに着地させてくれればいいかな、と。…途中は見せたくないっていう部分があるからね。

メイキングを見せすぎないことで、お客さんは純粋に作品そのものを楽しむ状態になる。小林はクリエイターとしての努力よりも、メイキングを見せて舞台上にパーソナルな部分が現れ、作品そのものが評価されなくなることを恐れていることもあると考えられる。

「自分だけはこれが好き」とみんなに思わせる方法

「個人的にこれだけは特別」という領域にはいったものは、人の行動範囲すら変えることができる、と小林は主張する。それを数万人単位で起こす、つまり「みんなはしらないだろうけど、自分だけはこれが好き」と、全員が思っている、という状態をつくるのだという。どうすればその状態を作り出せるのだろうか。

マニア心を刺激する

 小林はテレビ番組など、何組ものお笑い芸人が出演する中に参加させてもらうときは、数ある持ちネタの中から風変わりなものを選んで出ていたという

「新宿ミュージックホール」というビートたけし、トータス松本、ユースケがやっていた深夜番組で異国の日本語教室の様子を描く「不思議な国の日本」を披露し、ビートたけしからは「ちょっとマニアックすぎるネタだよな」と評されていたが、小林の作戦通りだったのかもしれない。

「爆笑オンエアバトル」では片桐が一切喋らない『現代片桐概論』というネタを披露。審査員からは「シュール」だとか「新しい笑い」と評されていた。

スタジオ内の評価のみならず、視聴者がどうラーメンズの存在を認知しているかまで考慮された作戦である。

翌日視聴者は「どの芸人が面白かったか」とかをお友達と話したりします、そのときに「みんなはメジャーなあの芸人が面白いと思ってるみたいだけど、俺はあの変なやつがスキなんだよね」という少数派をつくるねらいがある。
 これを100人のうち1人が言ってくれれば作戦成功です。テレビ番組は視聴率1%なら、視聴者数はおよそ100万人という説があります。5%なら500万人。そのうつ100人に1人でも5万人です。これは5万人が劇場に来る、という意味ではありません。この5万人が、人に話す、ということです。

5万人が人に話したあと、そのまた数%が舞台に訪れ作品の質の高さに圧倒されまた客を呼ぶ。

インタビューでラーメンズのコントについて「独特なスタンスなんだけど、閉じないっていうか、舞台を中心にした、どちらかというと狭い空間で活動をやっているんだけども、すごく新しくて広がることをやろうとしている人たちという印象があるんですが」という質問に対して小林は「そう見えるようなトリックがある。」と答える。

「程よい勝手にやってる感」って大事なんですよ。
完全に勝手にやっちゃうとそれこそ小劇場で自腹切ってやってお客さんも知り合いばっかりに手売りで売って、終わったら飲みながら…程よい勝手にやってる感、メジャーなマイナーをなぞるっていうのって、一回掴んじゃうと割とできることなんですよね 。

100人中1人に刺さる作品を作るために、台本を書く上でも大衆向けとマニアック向けのバランスが考えられていることがわかる。

どこまで開かれた存在にするのか

小林は「顔と名前を出して仕事をするのなら、どんなことを、どんな人たちに、どのくらい知ってもらうべきか、よく考えて活動することが大事だと思います。」と主張する。小林の場合は、知ってもらうべきことは「顔」より「名前」より「商品」。

その考えを持ちながらお客さんの前に姿をさらす形で作品を発表する中で、「矢面」に立つことのつらさや痛みを味わうこともあったと、小林は話す。

もともと小林は作者よりも作ったものを評価してもらいたいという気持ちが強かったと明かし、小林自身の魅力よりも作ったものの魅力の方に自信を持っていたと語る 。

ただ…やっぱりどうしても根本にあるのは、美大出身というのもあって、制作物はアトリエの中で生まれるものなんだという気持ちなんですよね。
 発表の場所がギャラリーなのか劇場なのかの違いであったり、あるいは絵の具で表現されたものなのかの違いであったりするだけで、やっぱり「作る」ということのほうが、「出す」ということよりもウエイトがぜんぜんでかいんだ、とずっと思ってるんです。……でも、その思いは、なかなか理解してもらえませんでした。そういう状況に立たされるたびに、当時の自分の中の感覚で言うなら「そうか、今、おれは矢面に立っているんだな」と何度も感じてきたという 。

作者である自分が作品を大切にしているように、お客様にも大切にしてもらうためにはどうすればいいか。自分が活動していく場所はどこかと考えていきついたのは舞台というフィールドであった。

テレビに出ない理由

小林は小林の作品を守るためにテレビとの距離を守っているのだ。テレビに出ない理由として「舞台という難しい仕事をしているので、他をやっている余裕がない」ということもあるが、「知名度を必要最低限に抑えたい」ということ、「作品の希少性を守りたい」という点が理由にあると小林は言う 。

「知名度を必要最低限に抑えたい」

観客がエンターテインメントにお金を払う動機の一つに、「テレビで見たことのある有名人を生で見られるから」という理由があるが、小林はその理由は作品に向けて欲しくないと言う。チケットは「面白そうだから」という理由で売れていくべき、と小林は一貫して主張する 。

有名になるとは

小林は「ウケる」と「売れる」と「有名になる」を分けて考え、知名度の調整や作品の質と自分の実力を向上させてきた。

「ウケる」は作品が評価されるということ。「売れる」はチケットが売れるということ。「有名になる」は、前者ふたつが成立するとおのずと最後についてきてしまう要素。この順番が変わってしまうと、バランスの良くない知名度になってしまいます。つまり、実力はないが、顔と名前は有名、という状態。

表現者の価値は作品でしか決まらないと考える小林は「自分を額装しない」 ということを心掛け、ひたすら自分の作品にストイックに向き合ってきた。

世の中には、自分より大きなものの一部になることで、その人のステイタスが上がるという仕組みもあるようですが、僕はそれはただの錯覚だと思います。少なくとも表現者として生きる者には、まったく当てはまらない価値観です。どんな集団に属そうが、どんな偉い人と関わろうが、表現者の価値は自身の作品でしか決まらないのですから。考えるべきことは、目の前にあるつくりかけの作品を良くすること、表現者としての自分のレベルを上げること。そうやって実力が上がっていけば、おのずと仕事の規模や社会的ステイタスが上がることもあるかもしれません。しかしそれはあくまで結果としてあとからついてくることなのです。


「作品の希少性を守りたい」

小林は活動の範囲を限定する。小林は自身の番組「小林賢太郎テレビ」の企画をする際にも、観客が一定の努力をしなければ見れないBSでやることを決めたように、放送メディアが発達し、可能な限り広く公開できるのにも関わらずに活動のフィールドを舞台に限定している。その理由は作品の希少性を守るためだ。

僕がやっている「舞台のみ」という仕事もおなじで、お客さん側からの積極的なアプローチがないとそもそも作品に辿り着けない。今って放送メディアが発達してインターネットもあるから可能な限りくまなく、作品をマス(大衆)に公開することは簡単になっているんだけど、そうじゃない。演劇でも映画でも、料理なんかでもそうだけど、出す側と受け取る側、お互いの努力があって生まれる空間っていうのが一番、作品のためになっていると僕は思うんですよ。(中略)リミット(限定)を持って作品を発表していくと、自分から選んでくださるお客様が来てくれるので、非常に有意義な発表の場を得ることができる。そのほうが、作品のためにも絶対なっていると思いますね 。

小林のこの意見に対し、鈴井も限定することで、作り手と同じようにお客側も作品のことを大切にしてくれる「作り手と受け手の相思相愛の関係が生まれると思う。」と同意する。

架空のトライアングルにとらわれない

小林は、「**映画はテレビより上、舞台はテレビより下」という架空のトライアングルが存在する **」と指摘する。しかし、小林は舞台、テレビ、映画の3つの媒体に、まったく上下関係なんて存在しないと主張する。

テレビにはテレビをつくるプロがいます。映画には映画の、舞台には舞台のプロがいます。それぞれ、とても難しい専門職です。ところが、テレビを世界の中心だと信じて疑わない人達がいます。(中略)テレビは舞台より上でも下でもありません。それぞれが独立した媒体であり、それぞれに得意なことと不得意なことがあります 。

過去の作品でコマーシャルを打ったときに、観客からのコメントでテレビの影響力の強さと恐ろしさを知ったのだという。テレビとの距離を保っている理由について自身の体験を次のように語っている。

僕の作品をお客様に大切にあつかっていただくにはどうすればいいかを考えたやり方です。以前、ある地方で公演があったとき、大きな劇場で上演回数も多めだったため、テレビコマーシャルを打ちました。おかげでたくさんのお客様にお越しいただいたのですが、こんな意外な言葉を聞きました。「テレビでコマーシャルをやるなんて凄い」。これがメディアに対する幻想です。本当に凄いんだったら、チケットは売れ、コマーシャルの必要などありません。それなのに、真逆のことを言っているのです。聞いた瞬間、本当に恐ろしいと感じました。

作品がいいものであるならばチケットは売れ、コマーシャルは必要ない。「有名になる」つまりは作品よりも個人が先に注目される必要はないと小林は一貫して考えている。

まとめ

小林賢太郎は舞台にいる。
一人の表現者として場を作り、作品を発表している裏では、一本のまっすぐな人生レベルのスケジュールが通っている。

今まで歩いてきた道には、「不本意」や「自分がやりたくないこと」もあったが、小林はその中でも自分のためになる結果を結びつけてここまでやってきた。

40歳を超えてもなお創作の意欲は衰えるどころか、作りたいものが尽きないという小林賢太郎が今後どのように観客を驚かせ、楽しませ、笑わせていくのか。

一ファンとして彼の作品と彼の表現者としての姿を見続けたいと思う。

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スキを押すと、2/3の確率で冬にうれしい生活雑学を披露します。のこりはあなたの存在をひたすら誉めます。