「体温」を感じることばに触れたいんだ
深夜2時。
赤ちゃんの夜泣きで目が冴えてしまったわたしは、枕元の携帯に手を伸ばす。
暗闇のなか、眩しく光る画面を見つめ、お悩みワードを検索窓に打ち込んでいく。
暗闇に浮かぶ誰かの言葉に慰められ、励まされ、安堵したわたしは、布団に潜り込み、いつのまにか眠りに落ちる…。
・・・・・
日進月歩で進化する情報テクノロジーによって、正確な情報や知識を伝える役割は、GoogleからChatGPTへと移りゆく。
情報が氾濫するこの現代社会で、わたし(そして、このnoteを読んでいるあなた)は、なぜ、誰かがネットに残していった、つぶやきやひとりごとを求めるのだろう。
情報社会の片隅でつぶやくわたしのひとりごとに、いったいどんな価値があるのだろう。
そんなことを考えてみた。
アルゴリズムが導く、無機質な「最適解」には満たされない
最近、Googleで検索した記事を読んでいても、わたしの心は満たされないことが多い。
Googleの検索アルゴリズムに評価され、上位に表示されている記事は、なにかの専門家、どこかの権威ある先生、信頼ある大企業が提供する情報で埋め尽くされている。
信頼ある「先生」たちの、正論。真っ当なご意見。一般論で語るアドバイス。
どの言葉も、まるでプラスチックのように無機質で、人間味がなく感じてしまう。
上澄みだけすくったような、キレイなことばは、わたしのこころに沁みることなく、スクロールした画面の向こうに滑り落ちていく。
誰かが残した、人間くさい「ことば」に救われる
Googleが勧めてくる記事に求める答えが見つからないと感じたわたしは、noteやX(Twitter)に助けを求める。
そこには、ことばとともに、誰かの余韻、誰かの気配がたしかに残されている。
むき出しのまま吐き出された感情。行き場のない想い。曖昧な感情。満たされない欲求。むせるほどの熱量。
言葉から漂う、誰かの残り香に、人間くささを感じる。
同じ悩みを抱えた人が、いつかそこに存在した事実に救われる。
ネットに置き残された言葉は、時間も空間も超えて、わたしに寄り添い、共感し、励まし、背中を押してくれる。
新たな表現の可能性を追求した、画家のように
一億総発信社会のなか、最近ではChatGPTのような生成AIまでもが登場した。
人だけでなく生成AIまでもが情報を大量生産する現代。個人が発信する情報は、より「主観的」なもの、「人間くささ」を感じるものにシフトしていくのではないかと思う。
それはまるで、カメラの発明によって絵画が発展した、19世紀半ばの時代を彷彿とさせる。
・・・
写真の登場によって、絵画は<写実主義>から解放された。
画家は、写真とは異なる、絵画の新たな表現の可能性を追求していった。
絵画に主観的な視点や感情を取り入れ、自由に表現した絵画スタイル、<印象派>が確立されていった。
・・・
Chat GPTなどの生成AIと共生するわたしたちは、これから、カメラが発明された時代の画家と同じような軌跡を辿っていく気がする。
写実的な表現から解放され、自身が五感で知覚する心象風景を描く。
主観的な視点や感情を取り入れ、心象風景をより自由に表現した、独自のスタイルを追求していく。
つまり、「一億総発信社会」から、「一億総クリエイター社会」へと進化するのだ。
一億総クリエイター社会、そしてAIと共生していく社会で、わたしたち個人は、それぞれの五感や感性を解き放ち、ことばと戯れ、新しい価値を創造する。
わたしはそんな未来を思い描きながら、今日も世界の片隅で「人間くさい」ことばを残し、「体温」を感じることばを探す。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?