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第84講 人口増加と工業化

84-1 ユーラシア東西における人口増加と社会の変化

農業革命と人口増加

 18世紀グレートブリテン王国における農業技術や農業経営方式の変革を1)農業革命とよぶ。

 ブリテンでは、人口増加と穀物不足への対応が課題となり、18世紀前半、休耕地をおかない四輪作による新農法が普及した。この新農法は、大麦→2)クローバー(牧草)→小麦→3)カブ(飼料)の順に四輪作を行うもので、ブリテン東部の発祥地名から4)ノーフォーク農法とよぶ。休耕地をなくして飼料を育て、家畜の冬の飼料確保が可能となり、食糧事情は好転した。

 四輪作農法は農業の大規模化・事業化をうながした。ジェントリら大地主は、5)農業資本家に経営を委ね、共有地・耕作地を議会の立法に基づいて合法的に囲いこんで大農場とし、市場向けの穀物を大規模に生産した。これを6)第二次囲い込みという。これにより、資本主義的大農業経営が確立した。←POINT 羊毛の生産を目的とし、立法によらず非合法に行われた。16世紀の第一次囲い込みと対比せよ。

 結果、中小の独立自営農民(ヨーマン)が土地を失い、大農場で7)農業労働者となるか、都市へ移住して工業化を支える8)工場労働者となった。この変化は、工業社会に必要な労働力を準備した一方、伝統的な農村共同体を崩壊させ、社会不安を高めた。*トピック:なぜ「イングランド料理」は美味しくない?
 
 14世紀から猛威をふるってきたペストも、西ヨーロッパでは18世紀前半には姿を消し、食糧事情の好転とあわせて、西ヨーロッパの人口が持続的な増加に転じる条件がととのった。

じゃがいもの広がり

 新大陸伝来の農作物のうち、寒冷な気候でも栽培でき収穫量も多い9)じゃがいもは、プロイセンやアイルランドで盛んに栽培され、ヨーロッパの人口増加に寄与した。

 啓蒙専制君主のひとりプロイセン王10)フリードリヒ2世はじゃがいもの栽培を奨励した。

 17世紀ブリテンに経済的従属をしいられた11)アイルランドでは、気候や土壌に合っていたことや、ブリテン在住の不在地主が奨励したことから、じゃがいもの栽培が広まった。じゃがいもへの依存度が高まり、1840年代じゃがいもの病気が蔓延し収穫が激減した際、12)じゃがいも飢饉と呼ばれる食糧難を招く。

清の人口増加と開発の進展


 中国の人口は、明代には1億人をこえたが、18世紀には社会の安定と農業生産の増大により人口が激増して3億人に達した。

 農耕地の総面積は明代の2倍になり、農業生産量が増大した。寒冷地や山間部でも耕作可能なアメリカ大陸伝来の作物が、開発を支えた。

 17世紀中ごろから、13)とうもろこし(玉蜀黍)が華北一帯で、14)さつまいも(甘藷)が江南で広く栽培され、それまで耕作不能とされた山間部でも栽培されるようになった。

 ジャガイモ(馬鈴薯)、ラッカセイ、トマト、タバコなどが、米や麦といった従来の作物を補い、山間部の開拓の際に役立った。

 人口増加に伴い、福建・広東などの沿岸部の住民が、東南アジア方面に移住し商業活動を行った。彼らは15)南洋華僑とよばれ、商工業を営み経済力をのばし、東南アジアの港市に居留地を形成した。


重要語句まとめ 


1)農業革命 
2)クローバー 
3)カブ 
4)ノーフォーク農法 
5)農業資本家 
6)第二次囲い込み 
7)農業労働者 
8)工場労働者 
9)じゃがいも 
10)フリードリヒ2世 
11)アイルランド 
12)じゃがいも飢饉 
13)とうもろこし 
14)さつまいも 
15)南洋華僑


84-2 グレートブリテン王国ではじまった工業化と社会の変化


産業革命の背景


 18世紀グレートブリテン王国(1707年アン女王のもとイングランドとスコットランドが合邦)では、農業を基盤とする社会から工業を基礎とした資本主義社会への移行がおこった。

 この変化を「産業革命」と呼んできたが、近年、「革命」とは急激な変化を指す概念で、長期間かけてゆるやかにすすんだ変化を「革命」とは呼べないとする考え方から、単に「工業化」と呼ぶ場合も多い。

 この移行や変化が世界の他地域に先駆けておこった背景には次のような事情が指摘できる。

  1. 労働力 前述の1-農業革命によって、農村の人口が余剰となり、工場労働力を準備した。

  2. 技術 マニュファクチュアによる毛織物工業や時計工業が、精密な機械をつくる技術を準備した。

  3. 自由主義経済と技術革新(イノベーション) 議会が主導する立憲王政のもとで政治が安定し、自由な経済活動をさまたげる特権や2-ギルド組織も除去され、意欲的な企業家があらわれた。

  4. 資本 植民地の獲得や3-奴隷貿易を通じて、産業革命の前提となる資本が十分に蓄積された。

  5. 市場 フランスとの商業覇権争いを優位にすすめ、原料や市場を世界規模で確保した。

機械化

 
 インド産の綿布と同等の製品を国内で生産したいという動機から、奴隷貿易で繁栄した港町リヴァプールに近いマンチェスターで4-綿工業が発達した(産業革命のはじまり)。

 毛織物生産のため1733年5-ジョン=ケイが開発した6-飛び杼が、18世紀後半綿織物の織布部門に応用され、織布の前工程にあたる紡績部門の技術革新をうながした。

 1764年頃、7-ハーグリーブズがジェニー紡績機(多軸紡績機)spinning jennyを発明。

 1768年、8-アークライト9-水力紡績機water powered spinning frameを発明。

 1779年、10-クロンプトンが両者の利点をあわせたミュール紡績機spinning muleを発明。

 機械化の進展は、機械をつくる機械工業やその素材を提供する鉄工業を発展させた。18世紀前半、木炭のかわりに石炭を加工したコークスを燃料とする製鉄法(11-コークス製鉄法)が、12-ダービー父子によって開発され、製鉄業の発展を促した。

エネルギー革命


 主に使用されるエネルギー源が変化し、経済面に大きな影響を与えることをエネルギー革命という。18世紀から19世紀、薪や水力、家畜にかわり、石炭が主なエネルギー源となった。

 13)ニューコメン
が発明し、14)ワットが改良した15)蒸気機関が、やがて織布部門に応用され、1785年16)カートライト17)力織機(power loom)を発明した。

 RP紡績の機械化が急速にすすみ、糸の供給が過剰になり、かえって織布の家内手工業が発展した。織布において工場制機械工業が圧倒するのは、1830年代以降のこと。

 原料である綿花を生産する綿摘み部門では、1893年(植民地から独立したばかりの)アメリカ人18)ホイットニーが綿繰り機を発明した。これは皮肉にも、アメリカ合衆国南部で、アフリカ系奴隷をもちいる綿花プランテーションをかえって増加させた。

交通網の整備

 工業化にともない、大量の物資を輸送する必要から、交通網の整備がすすんだ。資本主義の発展に不可欠な交通網の整備を担ったのは、貴族やジェントリら民間の地主層=ジェントルマン階級だった。

 17世紀イングランドで登場したターンパイク(有料道路)が、18世紀スコットランドにも広がった。

 19)運河の建設が盛んになり、1760年代から1830年代は運河時代Canal Ageと呼ばれる。代表的な運河ブリッジウォーター運河は、綿工業都市マンチェスターに石炭を運ぶ役割を担った。

 19世紀蒸気船や蒸気機関車が登場し普及するまで、ターンパイク(有料道路)や運河が物流を担った。

工業化と都市の発展


 工業が経済の主軸として発展する一連の長期的過程を、一般的に工業化という。
工業化は、流通や消費のあり方も大きく変化させ、イングランド各地に都市を発展させた。イングランド北西部の港市リヴァプールや綿工業都市マンチェスター、鉄鋼業が発達したイングランド中部(ミッドランド)のバーミンガムのような商工業都市が発展、20)都市への人口集中(都市化)がはじまった。

 また機械制工場は、職人による自律的な手仕事ではなく、機械のリズムに適合した、時計の時間を単位として管理される労働形態を普及させていった。

重要語句まとめ 


1農業革命 
2ギルド 
3奴隷貿易 
4綿工業 
5ジョン=ケイ 
6飛び杼 
7ハーグリーブズ 
8アークライト 
9水力紡績機 
10クロンプトン 
11コークス製鉄法 
12ダービー父子 
13ニューコメン 
14ワット 
15蒸気機関 
16カートライト 
17力織機 
18ホイットニー 
19運河 
20都市への人口集中


84-3 新しい価値観の広がり


新しい価値観


 地球規模の商業活動が展開され、世界各地との交流が盛んになると、ヨーロッパを異文化の目から見直す動きが出て、伝統や信仰が相対化された。17~18世紀ヨーロッパでは1)シノワズリ(中国趣味)とよばれる中国文化の流行がみられ、繊細優美なロココ文化の発達をうながした。

啓蒙思想


 18世紀には,人間の理性の光に照らして事物を検討し,迷信や偏見を打破すべきことを主張する2)啓蒙思想Enlightenmentがあらわれた。

 3)ヴォルテールは『哲学書簡』でフランスの後進性を批判した。

 4)モンテスキューは『法の精神』を著し、王権に対し貴族の利益を守るため権力の分立を主張した。

 『人間不平等起源論』・『社会契約論』・『エミール』を著した5)ルソーは、自由平等と人民主権を説いた。

 6)ディドロ7ダランベールが編集した『百科全書』は、啓蒙思想の普及を助けた。

自由主義経済学の登場


 18世紀、経済の自由を主張する自由主義経済学があらわれた。

 18世紀、『経済表』を著した8)ケネーや、百科全書派の9)テュルゴーは、国家が経済に介入し商工業を育成した重商主義を批判、富の基礎を農業生産に置く10)重農主義を主張し「なすにまかせよlaissez-faire」を標語とする自由放任主義を唱え商業活動の自由を説いた。

 工業化が進むグレートブリテン王国では、他地域に先駆け学問としての経済学が成立した。スコットランド出身の11)アダム=スミスは1776年刊行した『諸国民の富』Wealth of Nations)で、社会的分業が拡大した結果、余剰物を互いに交換し合う12)商業社会が成立し、富の蓄積がすすむと主張、自由主義を説き、13)古典派経済学を確立した。「神の見えざる手an invisible hand」という表現が有名。

 イングランド出身の14)マルサスは、1798年に著した『人口論』で、人口は幾何学的に増加するが、食糧生産は算術的にしか増加しないとする悲観論を説いた。


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