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老害に躊躇いなく死体撃ちをする勇気をくれる! それがディズニープリンセス『シンデレラ』!

ここ最近、というか2010年以降のディズニープリンセスは、プリンセスというよりもファイターとかクルセイダーとか、スタンド使いとか伝説の勇者に近い存在感を発揮しており、もはや「プリンセス」とは前衛職の謂ではないかとすら思えてきた昨今、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

そんなうららかな午後の日差しに誘われて、優しく素直でおしとやかで、教養深く知性的で母性愛と想像力に満ち、小動物と話をして、夢見がちでDIYが得意でしかも美人で子供のような純真さと天真爛漫さ、そして大人のボディをもったプリンセスが登場いたしました

それが『シンデレラ』だ!!(ババーン!)

なんだこの一周回った感……。

さて、この『シンデレラ』。2015年最大級の話題作となった事は記憶に新しい。1時間30分の短い時間ながら、見どころの多いストレートな作品に仕上がった。ジェンダーやら人種やらマイノリティやらに配慮しすぎてなんだかよく分からなくなってる所もあるのだけれど、Fallout4のサツバツとした世界に慣れすぎた僕や現在の子どもたちにとってはなんの問題もない。

本作は、本当によく出来た最強ファンタジーである。『アリス・イン・ワンダーランド』以降、あるいは『パイレーツ・オブ・カリビアン』のようなややハードな作品から距離をとり、もう少し子供向けらしい作品を目指した、らしい。夜のおどろおどろしさ。魔法使いの妖精が叶えてくれる一晩の魔法のすてきさ……。リリー・ジェームズの「お姫様おーら」も相まってなかなかの憧れを感じさせてくれる。

プリキュア!

映画『シンデレラ』のストーリーはみんな知っての通りの展開で、その象徴的な機能も大きくは変わらない。シンデレラと王子は共にまず母親を亡くし、父親を亡くした存在で「結婚」によって大人になる基本的な構造もそうだし、恋愛を知らない二人の童貞が一目惚れするところも変わらない。そういう意味では1950年に公開されたアニメ版のシンデレラの正統的な後継作品とも言えるかもしれない。

そうすると自然、見どころはその美術品や衣装に集中する。

コレが本当にすごい。厭味ったらしい継母だが、ナレーションでも言われるようにかなりのハイセンスだ。服装もそうだが、ジャポネスムを取り入れた室内の壁画だったり、ファッションセンスも年相応でありながら時代の空気をとりいれた見事なもの。さらに、王宮の肖像画の部屋に、絢爛豪華な舞踏会だったり、そしてなんと秘密の花園まで出てくるというファンタジー最強厨勢揃いの豪華なアートワークとなっている。CGにあまり頼らない「もの」の存在感がすごい。どんだけ金をかければこういう美術セットがくめるのやら。

惜しむらくはシンデレラ(そういえば、本当は「エラ」なのだけれど、めんどいのでシンデレラで通すことにする)の変身シーンであり、くるくる回りながら服の色が変るシーンには日本が培ってきた最強の変身シーンである色気を完全に排した、なんというか非常にあれな感じの変身である。(1950年版を完全に踏襲している)

そういえば、なぜアメリカの映画では変身するとくるくる回るのかよくわからないし、母親の形見の服だが色まで変るのはOKなのかもよくわからないが、しかしかぼちゃの馬車の右斜め上をいく豪華さといい、ねずみたちの愛くるしさといい、よさがあるのである。

そんなわけでシンデレラに欠けているのはプリキュア!感ではないかと思う。

そしてシンデレラの完封DISがはじまる……。

さて、実はこれを見ているとかなり疑問なシーンがでてくるのである。

まあ、そもそも、国中の女性を招く舞踏会を開く王子が「国民思い」なのか、国中の女性にガラスの靴を履かせるように軍隊まで動かす王子(この時にはもう王様)が「国民思い」なのか、果たして国民思いとはなんなのかわからなくなったりはするのだけれど、まあそれは置いておく。

一番疑問に思ったのは、シンデレラは素直でいい子で夢見がちなのだけれど、どうも想像力が欠如してるんじゃないか、しかしその割には死体撃ちに抵抗がないのではないか、ということである。

さて、映画を見始めてすぐに最愛の母親と、そして父親に先立たれたシンデレラに継母からの召使い扱いが始まり「さてさて、いよいよ始まったぞ、まずは灰をたっぷりかぶせる。そして王子様からのーー選ばれた! 事によって倍返し復讐による完封勝利を目指すんだなl」と思いながら見ていると、じつはこの継母は途中で舞踏会に現れた謎の美女がシンデレラであることに気づいており、王子を某国の王女と結婚させようとする太公と手を組んでシンデレラが見つからないようにする、と画策するシーンがでてくる。

この前に、シンデレラが王女になる代わりに継母を国の長者として崇めるようにと交渉するシーンがでてくるのである。もちろんシンデレラは「私は父をあなたから護れなかったけれど……国と王子は守るわ!」と宣言するワンシーンがある。

その際、継母がシンデレラに向かってシンデレラをいじめる理由を叫ぶ。

「あなたが若くて、美しくて、純粋だからよ!」と。

このセリフは実はけっこう重い。おそらくずるがしこい継母のこと。すでに自分のぼんくら娘二人では王子と結婚できるはずがないことを知っていたと思しい。シンデレラの父親と再婚する前には絹織物組合の長官かなんかの伯爵と結婚していたのである。

まず、継母は知っていたのである。シンデレラのほうが娘二人よりも圧倒的によいことを。見た目、技芸、教養、ダンス、精神性……。それらすべてを抑えておかなければ自分の身が危ういことに気づいていたに違いない。

シンデレラを封印しておくこと、というのが継母にとって最優先の課題だったことは間違いないのである。恐らくそれはこの国の特殊な結婚事情が関係していそうだがよくわからない。

さて、シンデレラはガラスの靴を履いた後、シンデレラを隠そうとしていた太公を欺いた後、シンデレラはこういうのです

「あなたを許します」と。

シンデレラはこの瞬間、自分が圧倒的な上位に立ったこと、そしていじわるな継母を完全に下すことができることを知ったのです。すげえよ。すげえよ王子さまの結婚。王子様との結婚で鬱がなおりました!王子様との結婚で嫌みをいう廻りの子たちがいきなり跪くようになりました!

で、このあと「いじわるな太公と継母は、国を去りました」とナレーションが入るのです。

すげえよ。

すげえよシンデレラ。

シンデレラはつまりここで「許します」ということで「王子に最大の戦犯が継母であることを告げ、継母と二人の娘、太公をこの国で生きてはいけない存在にさせることができることを知っていた」、としか考えられない。

シンデレラは純朴で夢見がちな子供だったとなんども紹介されるけれど、彼女が見ていた夢の中には「権力」の正しい使い方も含まれていたのである。

ここで言えるのは、シンデレラは継母が抱える「若さ、美しさ、純粋さ」への嫉妬をいっさい理解できていなかった、ということだ。若く、美しく、純粋だったとしたら継母はシンデレラをいじめる必要なんてなかったのだ。そのいずれも持たず、また娘も持たなかったがゆえに、瀟洒で贅沢な暮らし、人をバカにする暮らしに慣れてしまった継母の心の闇をシンデレラはなんのためらいも無く踏みにじり、粉砕し、爆砕してもはや立ち上がれないようにトドメをさしたのである。

子供向け、というのはつまりこういうことなのだろう。シンデレラの価値観にはいろいろな意味での危うさがあった。しかし、それが危ういものだとはせずに、信念に準じて幸福を追い求めることがすばらしいのだ、と本作は伝えてくる。僕もそれでいいような気がしている。

でもさ、でもさぁ。

でもさぁ。この感じって、実はディズニー映画じゃなくて『俺たちバブル入銀組』とかに近いんだよね。

前衛職ではなくなったディズニープリンセスは、もはや大破壊力の範囲魔法を連続魔で唱えまくるような悪魔にしか見えなくなってきた。しかしこれもまたプリンセスの仕事なのかもしれない。

プリンセスとは一体……。ぷりんせすとはいったい……。

そんな悩みを抱え始めた筆者はただ断崖絶壁のむこうへと続く石組をかけあがりながらこう叫ぶしかなかったのだ。

オレはようやくのぼりはじめたばかりだからな このはてしなく遠いプリンセス坂をよ

未完


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