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写真家 田中長徳先生に、デジタル写真集CRP TOKYOの可能性を褒められたけれど、¥250の価格にはお叱りを受けた。

↑田中長徳NOTE 
tanakachotoku
2021/04/18 11:43

号外! 日曜の朝日本カメラの休刊でがっかりしているときに横木の写真運動CRP Tokyoに接して少し元気になってきたぞ

一昨日日本カメラの休刊のニュースに接して何しろ40年もお世話になってきたのでがっくりしている。いつまでもがっくりしていてもしょうがないのである。一昨日はこれからのペーパーに印刷された写真の媒体からどのように新しい方向に行くかと言うことを1日模索していた。 ↑続きは上をクリック。

そのネタであるCRP TOKYOは下↓をクリック。
↓CRP TOKYO 赤羽界隈 amazon Kindle  by8photographers

2015年、写真表現の場の縮小を憂いて、デジタルで写真は何ができるかを考えていた。
その年、アマゾンKindleが、すべてのディバイスで閲覧できるようになった。それまでは、Kindleディバイスと、少し前からiphone ipadで見られるようになってはいたが、パソコンで見ることはできなかった。それがこの年に自由に閲覧できるようになったのだ。Kindleのシステムが完成した年だ。

写真メディアの、独断、超おざっぱな、流れ。

初期の写真は、新たな芸術の一分野だった。
初期は一点ものだったが、のちに複製芸術の本流となる。
問題は、それを拡散させるにはハンディキャプがあったことだ。

写真は、複製可能な、革命的にカジュアルなメディアなのに、
そのメディアに載せることは、特別ヘビーだった。
なにしろ、良い紙、良い印刷が求められた。
文字だったらざら紙でOKだ。
文字と音は革命的に軽いメディアだ。
音楽の繁栄は、この軽いメディアということに尽きる。

でも少しでも芸術的?な写真は、かなり高価な紙が使用された。
単なるニュースなら、ざら紙でもよかった。
それは、百聞は一見にしかず、として証拠として活用された。
伝える側に都合よいことに、写真にうまいキャプションを添えると、なんでもOK、嘘さえ本当になった。
それらを利用して、真実の証拠として、写真報道が生まれた。

写真を撮る人は無限に生まれはじめた。
いや今や、iphoneの時代、それは現実だ。
かつて写真を個人的に発信する人はまれだった。
何しろ写真は、発信するには高コストだったからだ。
だから発表する人は、まれだったのだ。相当根性がなければ(もしくは能天気)発表は命懸けだ(経済的に)。

そんな、大問題を一手に解決して、写真文化を発展させたのが、出版社だ。
正確にいえば、紙媒体、紙メディアだ。

誕生以来、写真は地道に芸術を目指していた。
その一方で、写真は、紙メディアは報道メディアに可愛がられた。
初期のグラフ雑誌は、第一次大戦後のドイツで盛んだった。
その後アメリカで「ライフ」のようなグラフジャーナリズムが大発展。
ナチやその後の真っ赤なソ連を、民主主義の敵としてキャンペーンを張った。撮られたフィルムは、写真家が見ることもなく、メディアに運ばれ、現像され、編集され発表された。
テレビが普及する以前、写真はニュースの主役だった。
写真は、大量に良い紙、良い印刷(当時として)として世界中に伝播した。
第一次写真黄金期だ。
日本では、新聞社が写真報道に力を入れた。ニュースは社の写真部から報道現場に行くことは難しい。そこで、全国津々浦々に写真熱の沸騰していた、アマチュアカメラマンを取り込むことになる。それが全日社連や日報連だ。

テレビが普及した50年代から60年代、時代はポップアートの時代、写真は芸術だと目されるようになった。ニュース写真の需要が減り、ポープアートという反アートの時代、写真はまだ芸術としてはひ弱だったけれど、写真家は表現者、仕事としては最先端だった。

そのころから日本では、写真は、紙媒体、では量的には主役に躍り出た。どの雑誌も、写真であふれた。高価な写真集は、まれだったが、独特の再販制度の仕組みを取り入れた新聞や出版は、独占体制で、安価でスピーディな雑誌が全国津々浦々あふれた。世界でもまれな、日本の書店は雑誌に占拠された。膨大な同じような雑誌。
外国の書店にいくと驚く。本屋とは、本を売っている場所で、雑誌はごく一部、仔細に見ると広義の写真集が主流だ。
例えば建築の写真集。ガーデニングの写真集。
日本だったら雑誌から発展したMOOKでお茶を濁したが、海外のビジュアル本は、百倍ハイコーリティだ。
日本は再販制度のために、雑誌が無限回転のように出版された。
写真はコーリティより、スピード、便利、使いやすさのため、誌面を覆いつくした。そこにはすべて写真家、カメラマンの食い扶持だった。雑誌の写真のほとんどは、情報の証拠写真だった。写真は便利に使われた。だからこそ無限に仕事があった。あったからこそ、写真家は国家権力からは自由だと思っていた。いや、国家権力を監視しているつもりでいた。それは真摯なジャーナリズムではなく、お先棒として。
日本の雑誌は、「情報」を売っていた。
そして、ある日、「情報」は、無料になってしまった。
ファッション誌を見ればわかる。日本のファッション誌は、ほとんどがカタログだ。海外はメーカーが作るカタログビジネスが盛んだ。日本にはそれがなかった。
初期の日本のファッション誌は、パリのオートクチュール、そしてプレタポルテを誰も知らない時代、それを伝えることがビジネスだった。今年の流行は、何なにだ。Aラインだなんだかんだと。流行はパリが生んでいる。それを伝える。でも本物は見ることができないから、写真で克明に記録する。 
70年代、ファッションの革命時代、それでもあいかわらず、ありがたい海外の情報の伝達雑誌だった。ファッションは、表現というより、100%ビジネスで、それの伝達機関だったのだ。モデルは皆外人。高級ファッションは外国人モデルであふれていた。香港やシンガポールのVogueは、東洋人モデルが主流だったのに、なぜか日本は外人モデルばかり。
あ、ファッションの話をしているのじゃなかった。

写真家の、生きる道、生活の場のほとんどは、紙媒体だった。
ギャラは高いとは言えないが、仕事の量は十分以上にあった。
日本のバブル崩壊後、出版バブルがあった。写真は、写真集が飛ぶように売れた。無名なモデルでも、裸になれば初版2万部も売れた。有名タレントだったら初版5万、10万部はざらだった。100万部売れた写真集もあった。
定価は3000~5000円。写真家印税、無名なタレントなら6~8%、有名人だったら取り分4%と、とかそれでも計算すると膨大な額だ。そんな写真集を何冊も、何10冊も出しているグラビアカメラマンはスターだった。


広告カメラマンも、大手代理店の仕事だったら1日30~50万は基本だった。
一日100万以上の仕事も、たくさんあった。いまからみたら夢のような時代だ。
最初に広告業界から、写真が少しづつ消えていった。
街から大判ポスターが消えた。

そして、デジタル時代になると、出版が縮小はじめた。
最初の犠牲者が、カメラマン、写真家だった。出版社はコンテンツを生み出す作家や漫画家を、最後の砦とした。
どんな時代も、コンテンツを創造できる作家こそが命だからだ。

便利だった写真家たちは、皆不要になった。
なぜなら、写真家はコンテンツをほとんど作らなかったからだ。
写真家じゃなく、皆、アサイメントの消費者だったのだ。


これからの写真家は、コンテンツを作る意識が必要だと思った。
もう遅いかもしれない。
その実験のひとつとして、アマゾンキンドルを2015年に始めた。
300冊以上のCRPを出版しているが、
まだ全く「力」にはなっていない。

時代は変わっている。写真雑誌、カメラ毎日(1985年)
アサヒカメラ(2020年)、日本カメラ(2021年)なきあと、
残されたカメラ雑誌の奮闘と、一億総カメラマンの時代、日常に写真があふれた時代、写真は何か!を考えるのは、紙からデジタルに移行しているのに、
まだなにも産んでいないデジタル時代の写真。
いやもう、世界のどこかで生まれてるのに、気づいていないだけかもしれない。






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