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14. ケジャリーを運ぶ手熱し浅き春

 前号で、ロンドンで食べたケジャリーについて書いた。ケジャリーは、富裕層の朝食の一品だった。テレビや本にも登場している。そして、タイタニック号とクマのぬいぐるみから、明治の終焉へと話がつながっていく。

14.  ケジャリーを運ぶ手熱し浅き春

 ケジャリーは、イギリスの朝食によく登場する。テレビドラマ『ダウントン・アビー シーズン1』。グランサム伯爵家の各部屋で、使用人たちが朝の準備を行なっている。朝食の用意で慌ただしい厨房では、料理人のパットモアが「ウィリアム ケジャリーを運んで 熱いから注意して」と、下僕のウィリアムに声をかけ、ダイニングルームのサイドテーブルへとケジャリーが運ばれる。『(公式)ダウントン・アビー クッキングレシピ』には、

 「サイドテーブルにあるバーナーで保温されているケジャリーがなければ、ダウントンの朝食は完璧とはいえないでしょう。」

 と書かれている。朝食はサイドテーブルにあるいろいろな料理を、各自が好みでとってメインテーブルの自席でとるスタイルである。伯爵は食卓で下僕によってアイロンを当てられた新聞を開き、4月15日にタイタニック号が沈んだという記事を目にする。そういえば、ドラマ冒頭にはダウントン・アビーを背景にして1912年4月という文字が表示されていた。そして、伯爵の相続人がその事故に遭って亡くなったとの一報も入る。貴族ならではの相続ルールが絡み、ややこしい相続問題が始まることが予期されて視聴者の興味は昂まっていく。貴族としての矜持や、名家であるが故のしきたり、それに反発する人、厳然とした階級差、使用人たちの複雑そうな人間模様も垣間見える最高の滑り出しである。

 イギリスのA・A・ミルンが書いた唯一の探偵小説『赤い館の秘密』は、今から百年前の1921年に発行された古典的名作である。江戸川乱歩が選ぶ探偵小説十選にも選ばれている。赤い館の来客が朝食を食べる場面にもケジャリーが出てくる。

 「少佐は料理が並べられたサイドテーブルを慎重に眺めてから、ケジャリーを選んで皿に取った。ケジャリーをたいらげて、ソーセージにかかったところ、次の客が現れた。」

 この赤い館の主人マーク・アブレットは田舎の名士となっているので、富裕層の部類に入るのであろう。料理人も雇われている。ダウントン・アビーの貴族ほどではないだろうが、サイドテーブルに置かれた料理から朝食をとるスタイルは同じである。ケジャリーも、それほど高級とも思えないのだが100年前の朝食メニューの一つとして富裕層が食べていた。東洋にある神秘の国、インドの料理をアレンジしたものということで、当時としては高級感を漂わせたのかもしれない。A・A・ミルンは、『赤い館の秘密』の著者というよりも『クマのプーさん』を書いた童話作家としての方が有名である。息子の持っていたぬいぐるみのクマを主人公にしたもので、ディズニー映画にもなった。映画はヒットしたが、アクセントなどを含めアメリカ流の味付けがイギリスでは不評だったらしい。

 デイジー・C・S・スペドゥンの絵本『ポーラー タイタニック号にのったぬいぐるみのクマのお話』には、次のようなエピソードが描かれている。1912年4月10日、フランスのシェルブールとアイルランドのクィーンズタウン(現在のコーヴ)に寄港して、ニューヨークへ向かうタイタニック号が、イギリスのサウサンプトンを出港した。シェルブールでそのタイタニック号にスペドゥン夫妻と6歳の息子のダグラス、乳母とメイドの5人が、それにダグラスが大事にしていた白いぬいぐるみのクマ、ポーラーも乗船した。同書にはダグラスが甲板でコマを回している写真が載っている。ちなみにジェームズ・キャメロン監督のヒット映画「タイタニック」にも少年が甲板でコマを回しているシーンがあり、写真と同じアングルで映像化されていることをタイタニックファンはよく知っている。4月14日の深夜、タイタニック号は氷山に衝突する。スペドゥン一家は、全員救命ボートに乗り込むことができた。もちろん、ポーラーもダグラスと一緒にボートに乗り込んだ。しかし、救助に来た客船カルパチア号に乗り込むときに、ダグラスは慌ててポーラーを救命ボートの中に置き忘れてしまう。ダグラスはポーラーが海に落ちたと思って悲しむのだが、ポーラーをたまたま見つけたタイタニック号のクルーが、ダグラスの元にポーラーを届けてくれた。デイジーは6歳の息子に絵本としてこの話を伝え残したのである。

 タイタニック号が沈んだ1912年、日本では天皇の崩御で45年続いた明治が終わった。近代化のプロセスとしての明治という巨艦が沈んだのである。夏目漱石は、

 「その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。」

 と『こころ』に書いた。漱石は明治天皇の死を明治の精神の終焉と見たのである。そして日本は大正を迎える。大正デモクラシーの動きの中で、不完全とはいえ普通選挙の仕組みが作られ、幼少期を迎える民主主義というまことに小さな救命ボートが時代を走り回るのである。この救命ボートにはまだまだ多くの忘れ物があった。このあと日本は近代化に向けて忘れ物を一つ一つ探し出していくのである。

●アニー・グレイ 監修:村上リコ 訳:上川典子『(公式)ダウントン・アビー クッキングレシピ』ホビージャパン 2020年・・・イギリスのITVで、2010年〜2015年に放送されたドラマに出てくる英国貴族の料理レシピが掲載されている。料理の写真も美しい。
●A・A・ミルン 訳:山田順子『赤い館の秘密』東京創元社 2019年
●デイジー・C・S・スペドゥン 訳:河津千代『ポーラー タイタニック号にのったぬいぐるみのクマのお話』リブリオ出版 1997年・・・タイタニック号沈没の翌年、1913年にデイジーが息子ダグラスのために書いたのだが、絵本として世に出たのは1994年である。
●夏目漱石『こころ』旺文社 1966年(初版は1914年)

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