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アイデンティティや個性がどこにあるのかという話し


私の職場の後輩の男の子に、「個性」についての課題をくれた子がいる。


仕事の出来も、顔も、身長も、名前も人並みであると感じているのか、

(私が知るのは仕事中の彼だけだ)

彼自身もそのことをコンプレックスに思っているのがよく分かる。


代わりに、「量産型」が嫌だからと髪型をウルフカットに決めていて、

女性スタッフからの評判はあまりよくはないが、

「量産型」でないその髪型を、彼は素晴らしく個性と認めているらしい。


理想の自分というものは、それが抽象的なものでも、具体的でも、誰にでも必ずあるものだと思う。


服を買うとき、髪を切る時、お化粧をするとき、お出かけをするとき。

その理想の自分は出てくる。

個性的に思われたい、というのも一つの理想の自分である。


しかし、個性的=「量産型でない」という彼の発言に少し疑問を抱いた。


似た人間は存在しても、同じ人間は存在しないのだから、皆「個性」はそれぞれが生まれもって持ち合わせているものである。


一人ひとりが持っている個性が、その時にいる周囲の人間と、偶然にも違う種類の個性であったとき、その違いにより異様に際立って見える現象が起こり、その際にその人間に対して「個性的」であるという認識を持ちやすい。

同じ種類で同じ色の個性に囲まれると、自分が埋もれてしまうような、そんな何とも言えない気持ちになることは誰にでも一度はあるだろう。


しかし、自分の色は自分にしか出せない。

他人の色とどのように違うのかではなく、

どの色が綺麗か競うわけでもなく、

きっと自分の色をより濃く、きれいに、堂々と出せる人が「個性的」であるのだ。


だからもし彼が、他人の色との違いで自分を比較し自分の個性を変えようとしているようであるならば、その必要は無いと言いたいのである。


個性はもちろん、外見だけではない。

彼はコミュニケーション能力に長けている。

誰にでも入れる、足湯のようにコミュニケーションをとるのが得意で、友人も多い。

それは誰にでもできることではない。

髪型にこだわらなくても、十分個性はあるのだ。



量産型な自分が嫌だからと、今ではトレードマークになったウルフカット。

ウルフカットが好きでしていると、そう彼が言っている日を願う。

そうすれば、今よりもっと、その髪型が似合っているはずだ。



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