ジェンダーギャップ指数(世界男女格差指数)

 この間、ハフポストのTwitterが目に留まり、そこで盛り上がって?いる内容を見てて何か誤解がありそうな気がしたので、少し解説まがいの事を。因みに対して詳しい訳では無いので、あまり期待しないで下さい。

前提知識

 まず、大きな物語や構造主義、これを知らないと正しく読み取れない。
 もの凄く雑に言うと「あなたは自分で考えているつもりかもしれないが、言語を使っている段階で自分で何も考えちゃいないよ。」という事である。

ジェンダーギャップ指数って何?

 詳しくはWikipediaを参照のこと。と、いきなり丸投げ。

 簡単に言うと
特定分野(経済・教育・政治・保健の4分野の14の変数)で性別(性的役割ではない)の人口比を比較してみましょ?性別(生物的な機能差)によって現代社会で差が出るのは何か(ストロースの言う)構造に問題があるんじゃないの?
という事である。
 要は「性別と性的役割が一致している可能性がありますよ」という事である。

因みに
0に近ければ近いほど男性人口が多い、2に近ければ近いほど女性人口が多い。つまり1だと人口比が1:1。
という数値の見方である。

 ぶっちゃけ、何をどうデータ取っているのか不明なので、数値自体の真偽は問わない。本筋でもないし。

例えば平均寿命、事故や自殺、犯罪による死亡は入っているのか?とか。
類似労働の賃金の男女比、正社員やってて賃金差出るか?とか。勤労所得は、日本の場合、配偶者特別控除のせいでいわゆる主婦の賃金がワザと頭打ちになるようになっている、とか。

 因みに。
 このジェンダーギャップ指数、「ガラスの天井」のみを対象としており、フェミニズムの文脈上にある、と思われる。(ガラスの地下室を扱っていない)
 だとするならば、そもそもフェミニズムは「男女平等」なんて語っていない(別記事参照)ので、これを持ってきて男女平等を語るのは意味がない。(女性差別撤廃だ、はありだが、それは男女平等を語っていない。それが成り立つなら、男性差別撤廃だ、だけで男女平等が成り立つ理屈になる。)
 ジェンダー・ギャップ、という言葉はヨクヨク考えると意味が分からない。性的役割の差?なんだそれ?

アファーマティブ・アクション

 アファーマティブ・アクションという言葉がある。
 平たく言うと「肯定的差別」つまり「いわゆる社会的弱者を優遇しましょ」という事である。
 因みにこれは、物凄く広い範囲で使われている。(男女差別だけではない、人種差別とか地域差別とか色々)

 例えば、とある学校でアファーマティブ・アクションを使って、黒人を優遇して採用する。
 要は黒人の入学試験のテストの点数を水増しするわけである。これは公正だろうか?
 黒人を優遇する事により、白人が差別されている。
 入学試験のテストや能力という点でみれば、差別であろう。
 しかしその学校が「黒人を入れる事により、黒人がより社会に出て行き、それが社会の多様性を高め、結果的に社会全体が良くなる。それが本学の使命である」と言った場合、アファーマティブ・アクションになる。

 日本の例で言うと。
 2018年の東京医科大学の合否判定で男性側に加点していて「女性差別だ」と騒がれた問題がある。
 上記の例で行くと、大学側が「何を使命としているかで」で変わる。
 「男性医師を増やす事が社会全体に対してより貢献する事だ」と言ってしまえば、アファーマティブ・アクションである。
 大学側の公式見解を知らないので何とも言えないが、翌年以降で改善された事を考えると、どうやらそうでは無かった模様だ。

 国立大学であるお茶の水女子大を見て見よう。
 そもそも男性は門前払いである。これは性差別では無いのか?
 因みにお茶の水女子大は「学ぶ意欲のあるすべての女性の真摯な夢の実現の場であることを使命とし、総合的な教養と高度な専門性を身につけた女性リーダーの育成を目指しています。」と募集要項にあるので、これはアファーマティブ・アクションである、という事が出来る。

 因みに、大学という枠で括るなら、女子大はあっても男子大は無い。
 これは性別が男性なら「何をどう頑張っても女子大では学べない」という事である。「この先生の講義やゼミに入る為に、その大学に入りたい」と崇高な目標があったとしても、性別が理由で入れない。例え性転換しても入れない、筈だ。(もしそれで入れたとしたら、個人の尊厳と学問の興味を天秤にかけよ、と言っている訳で、それはそれで大問題だが)

 この理屈で言うと、国立大学として男子大学を設立する事も可能である。
 「学ぶ意欲のあるすべての男性の真摯な夢の実現の場であることを使命とし、総合的な教養と高度な専門性を身につけた男性リーダーの育成を目指しています。」と書けば問題ない。そしてこれは女性差別で反論出来ないし、ジェンダーギャップを持ち出して否定する事は出来ない。
 何故ならば、それらは全ての女子大学に跳ね返る。
 少なくとも、性別に対する「アファーマティブ・アクションの全否定」という事になる。

何故アファーマティブ・アクションが必要なのか?

 もの凄く端的に言うと「お前ら幾ら言っても変わらないんだから、制度で強制しないと駄目なんだろ?」という事である。
 「どの構造がどう駄目で、どうしなきゃいけないのか?」なんて悠長な議論は面倒くさい。一方的に強制してやれ。という話だ。

 本来あるべき論としては「男女の平等は、社会の意識や慣習が変化し、男女関係なく各自が能力を十分に発揮できるようになれば自然に達成される」なのである。
 社会の意識や慣例、つまり「大きな物語が変革すれば、勝手に達成されますよ」という事にも関わらず中々変革されないから、強制的に制度で変えてやれ、という話であり、(差別が不正だと定義するなら)必要悪、という考え方である。

「2025年までに女性候補者35%」は実現できるか?

 アファーマティブ・アクションは、何をどう繕うが差別である。
 差別を不正と定義するなら、何をどう動機付けしようが不正な行為である。(不正のトライアングルで語れる範囲である)
 清濁あわせのむ覚悟がないなら、アファーマティブ・アクションは取り扱ってはいけない。これは「誰かの犠牲の上に誰かの幸福を立たせる行為」だという事を忘れてはならない。

 この記事では、女性候補者(というか記事の中では現職政治家)を35%まで持って行く為に、ジェンダーギャップ指数の移り変わりと他国(韓国)の例を根拠にして、政治分野で「アファーマティブ・アクションをやろう」と言っている。
 もの凄く平ったく言うと「74年待ったけどお前ら幾ら言っても変わらないんだから制度で強制しないと駄目なんだろ?」と言っている訳である。が、そう言っている背景が読み取れないので、意味不明な記事になっている。

 そもそもジェンダーギャップ指数はフェミニズムの文脈だと思われる。つまり女性差別(≠男女平等)を語っている。そしてハフポストのこの記事を書いた人は、女性差別の解消=男女平等、だと考えているのではなかろうか?それが一部の読者とマッチしていない為、盛り上がって?いるのではなかろうか。と推測する。

 要は「日本人は立候補者に偏りがあるって事は、そこに根本的な、そういう構造があるんじゃないの?」だから「何が悪いか知らんが、もう環境をそうやって強制的に変化させようぜ。そうすれば後々そういう風土が作られるぜ」と言っている訳だ。男女共に立候補出来るし権利的に不平等がある訳では無く、現代日本の「大きな物語」に問題があるから、強制的に変えようぜ、と言っている。

 アファーマティブ・アクションに対する反論として「権利は平等だ」は成立しないし、フェミニズムに対しても成立しない。(男性優位な社会構造を反論されて終わる)
 もし反論するなら「自由民主主義」を元に反論するのが吉。
 政治分野に対する「アファーマティブ・アクション」とは差別を導入する、という意味だし、普通に考えれば政治に対する誤解を解いて立候補者を増やす事が先、だと思う。
 ジェンダーギャップ指数をもって、女性差別の構造を訴えるのであれば、その前に政治家(男女問わず)に興味を持ってもらうのが正攻法だと思う。政治家も本は沢山出ているし、直接見に行くのも良い。
 ジェンダーギャップ指数を持ち出してアファーマティブ・アクションを語るのではなく、(男女関係なく)政治に対して興味を持って貰う事が先決なのでは無いか?
 そう言った意味で、この記事は手法を間違えていて、差別に対する意識の低さを露呈した結果に終わっている、と感じる。

終わりに

 たまにジェンダーギャップ指数を持ってきて、女性だけの集まりを「私たちは多様性を重んじていて先進的です」的な主張をしている何かを見ますが、これ、完全な間違いです。全く多様化していません。
 「女性だけに偏った状態」を示しているだけです。現状では「アファーマティブ・アクション」と言った方がまだ正しい。
(「女性だけの集まりVS男性だけの集まりで二項対立を表現し多様性を目指しています」ならまだ理解出来るし「勝ち負けでは無く新しい価値を創造する」だったら共感出来る)

 もういっそ「フェミニズムは男女平等なんて知ったこっちゃない」と開き直ればフェミニストはもっと生きやすいと思うのだが、何故そうしないのだろうか?と疑問に思う。(女性差別が無くなっても男女平等は実現しない事はフェミニズム自身が良く知っている筈)別にフェミニストになったら他の主義主張をしてはいけない、という理由は無いのだし。

 極論「私はフェミニストかつマスキュリストです」って成立すると思うし。

【合わせて読んで欲しい記事】

雑記

・相反する2つの対象がお互いの努力をもって、お互いが何も捨てる事無く、新しい価値を創造する事を弁証法と言います。なので、フェミニズムとマスキュリズムが対立し、お互い何も捨てる事無く、新しい価値を創造するのが良い、と思う。
・現代日本のフェミニズムは只のルサンチマン製造機なので、男女共に不幸にしている気がする。そろそろ「私たちは差別されている」という劣等コンプレックスから脱却しないと意味が無い。そうしないと、最終的に重箱の隅を突き続ける事になる。少数のとある事象だけを指して女性全体を語る事になり、フェミニズムの価値を貶めるだけの結果になる。そう言った意味だと、女子大の存在意義がアファーマティブ・アクションだとするならば、エンドポイントを決めないといけない。
・世界的な流れとして、現在はまだ女性側に対する「アファーマティブ・アクション」が活発な気がする。まだマスキュリズムが力を持っていないから、だと思う。これは男性側が、特に男性として生き難さを感じている人々が、発信する事をしていないから、だと思う。これも構造の力なので、真の男女平等世界を語るなら、それも一緒に語らないとダメだと思う。
・たまに女性の自立をテーマにしている記事とかを見るが、これは「そういう生き方もある」程度に見た方が吉。というのも、そもそも現代社会の価値観上の「良いと言われている生き方」なので、別にその生き方こそ至上だ、という訳では無い。これもこれで枠に嵌める生き方。

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