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書くことのススメ

「書くこと」は自分の心の奥底にあるホントの氣持ちを知るのにとても有効な手段のひとつです。

その昔、自分とのパートナーシップを育む講座に出た時、ノートをつけることを学びました。

その講座では毎日ひとつお題が出て、その言葉についてどう思うかを自分に聞いていくんです。

例えば「友達」というお題が出たとします。

そのワードを見てまず最初に心に浮かんだ言葉を書きます。

友達

色々

色々って何?

色んな人がいるという意味。

で、その色んな人についてどう思うの?

好きな人もいれば、面倒に思う人もいる。

何が面倒なの?

面倒くさいことを言ってくる人がいる。

面倒くさいことってどういうこと?

その人のこだわりが……。

という感じで、自己対話を繰り返しながらどんどん心にあるものを深堀りしていくのです。
もう出てこない、というところまで。

すると顕在意識では思いもよらなかった言葉が出てきて
「あー私はホントはこう思ってるんや」
と自分の氣持ちを知ることになります。

この時大事なのは、最後に出てきた答えをジャッジせず
それが自分にとって「快」or「不快」を見る。

「快」の場合は、そのままでOK!
「不快」の場合は、「じゃあどうしたい?」とさらに自分に聞きます。

ここで自分の「快」がどういうものなのか?
どういう状態が自分にとって心地いいのか?を自分の心に聞き
そっちに軌道修正することをします。

さっきの例で言うと、私の場合「友達」で出てきたのが
「個性のぶつかり合い」
という言葉。

「ぶつかり合い」という所にわたし的には「戦い」のイメージがあり
不快だったので、じゃあどうしたい?と聞いて出てきたのが

「個性の表現」→「それぞれの表現」→「その人がその人であるということ。それ以上でもそれ以下でもない」

でもまだ「快」には遠い感じだったので、さらに深追いすると

「その人がその人であるということ」→「それを嫌いだと思ってもいい」
→「全部まるっと受け入れようとしなくていい」→「ただそういう人なんだ」と捉えることができればそれで充分。

最終的な私の「友達」の解釈は
「その人の好きな部分だけでつながっていれればそれでいい。嫌いは嫌いでOK! 嫌いな部分が増えてきてイヤになったら自分から離れればいい」
になり、ようやく「快」になりました。

ここで分かったのは、私は友達に対してその人の全てをまるっと受け入れなければいけない、という思い込みがあったということ。

友達なんだから全部を好きでなくてはいけない。
嫌いな部分も受け入れなくてはいけない。

と思っていたことが判明しました。

そりゃしんどいわ。
その人の全てを受け入れるなんて、私自分のことどれだけ器がでっかいと思とんねん!とツッコミ入れました笑。

でもね、これってありがちでしょ?
特に親しい友達や家族に対しては。

私たちは「嫌い」と思ってはいけない。
という思い込みがすごく強いように感じています。

でもね、嫌いなものは嫌いなんです。
どうしようもないんです。
たとえそれがどれほど近しい人であっても。

私は、ずっと父のことが嫌いでした。
でもそんな自分をいつもどこかで責めていました。

「血のつながった親なんだから。育ててもらった親のことを嫌いなんて、私はなんて冷酷なんだ…」と。

だからと言って、好きになることはできない。
その葛藤にずいぶん苦しみました。

そして自分を深く知っていった末に出てきた答えが、

父のことを嫌いな私がホントの私。
だってそう感じるんだから仕方ない。

あきらめたんです。
そんな自分を。

そしたらそこから氣づきがおこって、父のことを見る目が変わったんです。

あれだけ嫌悪していた父のことを今では「ありがたい」と思えるようになりました(自分でもびっくり!)

自分の「スキ」「キライ」はホントの自分からのダイレクトなメッセージ。
それが世間的な回答とズレていようとも、自分の心の声だけを大切にしてください。

本筋からズレてしまいました。

結局何が言いたいかというと、「書く」というのはこんなにも自分のことを深く知ることができる行為。

自分にとってとても神聖でやさしいこと。

思考がぐるぐるして止まらないとき。
自分の本音を知りたいとき。

自分のために書くことはオススメです。

ちなみにノートの語源は英語のnoticeからきているとか。
noticeは「知らせ」という意。



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