感じることを恐れるべからず
人間は感情のいきもの。
「感情を制する者は人生を制する」と言われるほど、感情は私たちの人生に大きな影響を及ぼします。
私の思う感情とは
ホントの自分に還るためのナビゲーションシステム
これはエイブラハムの本にあった言葉なのですが、私は自分の感情と向き合いを続ける中でこの意味を深く理解していきました。
今日そのことについて書いてみたいと思います。
そもそも感情って何でしょう?
目には見えないけれど私たちの中に生まれるもの。
常に生まれては消えを繰り返す自然発生的な心の動き。
そう。感情はエネルギーです。
喜怒哀楽、どれも同じエネルギー。
だから「喜ぶ」「楽しい」はいいけれど、「怒る」「哀しむ」は悪いという区別はありません。
でも私たち人間は常に「安心、安全」を求める生き物なので、それを脅かすおそれのある「怒」「哀」は排除しようとします。
そこに苦しさが生まれます。
イラッとすることがあったとき、「怒ってはいけない」と怒りを抑え込むことで自分の感情にフタをする。
哀しいことがあったとき、「いつまでも哀しんでてはいけない」と哀しみのタンクの水を出し切らず蛇口を閉めてしまう。
そんなことを繰り返すうちに本当は自分がどう感じているのかが分からなくなり、次第に本来の自分から遠ざかってしまうのです。
感情はエネルギー。
出てきたものは抑えるのではなく、流す。
流すというのは、発生したエネルギーに巻き込まれるのではなく
「あーいま私はそう感じているんや…」
と心に湧いたそのままを感じる。
そこに「いい・悪い」と判断する氣持ちをのせず、ただ感じる。
この「ただ感じる」というのが感情を流す時の一番のポイントです。
私は最初これができませんでした。
自分の心がモヤッとしたとき
「そんなの感じたくない!」と瞬時に見なかったことにしてきてました。
長い間。
その自覚もないままに。
今から思うと心が揺れ動くことがコワかった。
ザワザワと波立つ感情をちょっとでも感じてしまったら、自分がどうなってしまうのか分からない……。
そんな未知への恐怖がめっちゃありました。
でも感じないようにしているうちは、エネルギーが停滞して流れないので苦しいままなんです。
いつまでたってもラクにならない。
そのことを身を持って経験してからは、少しづつ少しづつ
「感じても大丈夫。何もコワイことは起こらない」
と自分に言い聞かせるようにして、そのまんまを感じることにトライしていきました。
なぜそれほどまでに私は感じることに恐れていたのか。
それは「感情=自分」だと思っていたからなんです。
未知の自分(感情)に、今の自分が飲み込まれてしまう氣がしてコワかったのです。
感情は自分ではありません。
自分の中から湧いてきたものなので自分だと錯覚しやすいんですが、感情は自分の思い込み(観念やビリーフ)と違ったものに出会った時に自然発生するただのエネルギーです。
だから何を感じてもそこに吸収されてどうにかなってしまうんじゃないかと怖がる必要はなく、ただ感じるままにすればいい。
冷静じゃいられないほど激しい感情のときは物理的に身体からそれを出す、というのも効果的です。
ケンカをして怒りが収まらないときは
「○○のアホーっ!」と声に出して言ってみたり(もちろん相手にではなく1人の時にね)、カラオケで大声で歌ってみたり。
愛しい相手を失って哀しみがあふれ出てくるときは思いっ切り泣く。
泣いて泣いて楽しかったころのことを思い出して涙が枯れるまで泣く。
すると心が軽くなるのが分かります。
で、肝心なのはこの後。
私はなんであんなに怒りが湧いたんやろう?
私はなんであんなに哀しかったんやろう?
と、その感情が湧いた原因を考えてみてほしいのです。
なぜならそこを探ることが、ホントの自分を知ることだから。
感情が湧くのは自分の観念と違うものに触れた時。
そしてそれを感じさせてくれるのが周りにいる他者です。
私たちは自分の価値観と違う人と触れ合うことで何かしらの感情が湧き、それによって自分の思い込みに氣づいていく。
そこに正誤はなく、あるのは自分はどうありたいかだけ。
私はどういう自分でいたいの?
私はどういう自分でいると心地がいいの?
私のホントの望みは何?
人はそうやって自分を知り、ホントの自分に還っていくのです。
「怒り」や「哀しみ」といった一見味わいたくない感情ほど、ホントの自分を知る有効なツールとなります。
どんな感情もホントの自分に還るナビゲーションシステム。
そんな風に捉えられるとずいぶんとラクに生きられるようになります。
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