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自己実現という名を借りた「不足感」

人は何かを選ぶ時、ベースに「愛」か「不安」がある。

愛ベースの場合は、チョイスしたそのものを純粋に楽しめるけれど、一方で不安ベースの場合は、それを続けることに心がざわついたり苦しさが出てきたりする。

この「不安」というのは、「不足」とも言いかえられる。

で、ここで大切なのがこのざわつきを無視しないこと。

これはたましいからの「そっちちゃうで~」というメッセージ。

そしてここでもっと重要になるのが、そのメッセージに氣づいた時に進路変更する勇氣を持つことだ。

いさぎよく今の道を手放して、別の方向へ進む勇氣。

ここがたましいが求める道へ進むかどうかの分かれ道になる。

でもこれがなかなか難しい。

なぜなら人は「損をしたくない」と考える生き物だから。
エゴが自分を守ろうと盛大に働くからだ。

ここまで苦労してやってきたのにやめるなんて…。
時間もお金もかけてきたのにもったいない!
次の展望が見えないのにやめるなんて危険!

挙げられる理由はこんなところ。

果たしてこれが本当に「損」と言えるだろうか?

ホントの自分は違うと分かっているのにそこに留まり続けることの方がたましい的には自分をすり減らす「損」に値するのではないだろうか?


先日、受講していたビジネス講座をやめた。

私がやりたかった「ビジネス」はその講座で教えてくれる形ではなく、もっと違うものだったとハッキリ分かってしまったから。

昨年末から「お金」との向き合いをはじめ、「自分で稼ぐ」にコミットし、これまで参加したことのないコミニュニティや勉強会に行くことが増えていた。

自分の知らなかった世界を見る中で私は新たなGOALを掲げて「自己実現」に向けて走り出したように思っていた。

なんかいい感じ。
私なりたい私になるために色々頑張ってる。
そんな風に思っていた。

ここに大きな落とし穴があった。


夢に向かって挑戦している風にみせかけながら、実は私の根底には「自己実現」という名を借りた「不足感」があったのだ。

今の私では欠けている。
だからそこを埋めるための要素として「ビジネス」をやる。
お金を稼げない私に価値はない。

そんな思いがあることに氣づいてしまった。

はぁ~っ、やっちまった…。

正直、違和感に氣づいてなかったわけじゃない。

けどそのざわざわは、苦手なものを克服しようとする時にやってくる通過儀礼的なもので、あってしかるべきものと思ってた(そもそも苦手を克服する必要なんてない)。

だからスル―していた。

でも違ってたんよ。
それは正真正銘たましいの声やったんよね。

講座で回を重ねるごとに湧いてくるモヤモヤが増えてきて、ようやく私はそれが「道がそれてるよ」というお知らせだと受け入れることにした。

支払い済みの講座代のことを思えば勿体ないことをした、という思いが湧く。

けれどそのために我慢してそこにいることの方が私には耐えられなかった。

やめてスッキリ。

こんな自分になりたい。
こんな私でありたい。

と願う時、ベクトルを内向きにしてみるといい。

愛で満たされた私が新たな自分を創ろうとするのか、足りない私が外側の何かで補うことで理想の私を目指すのか。

どちらが本当の「自己実現」かは一目瞭然だ。

今回はそこに氣づかせてもらうための大きな学びだった。

にしても、私
「苦労しなければ欲しいものは手に入らない」
という修行モードまだまだ持ってるなぁ、と感じた今回の出来事。

もうそろそろ手放したい笑。










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