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金属の棒

 病院である治療を受けることになった。頭の中のある記憶を除去するのが治療の目的だ。記憶が除去されるまで1分程度、診察室の床から天井まで垂直に伸びている金属の棒を握っていれば良いそうだ。この一見キャバレーのポールダンスの棒のような器具が記憶を消去してくれるらしい。医者は「簡単な治療なので心配いらない」という。確かに1分程度で終わるのだから、医者にとっては簡単な治療なのだろう。さっそく器具の電源が入れられ、私はその棒を両手で握った。

 しかし、私はすぐに不安になる。
「正しくその記憶だけが除去されるのだろうか?近接する記憶や、全く関係のない記憶が一緒に消えてしまうことはないのだろうか?」
私はその記憶を試しに思い出そうとする。「何だ。まだ思い出せるじゃないか」
安堵したのも束の間、まるで記憶の輪郭が端からぼやけていくように、全体の印象が朧げに薄らいでいく気がした。私は激しい恐怖に駆られて、思わず棒から手を離した。

 医者はそれを見て大層慌てた。「いけません!中途半端な所で手を離すのは危険です!」温厚そうな医者は私を叱りつけた。
私は慌てた。「大丈夫です!もう完全にあの記憶は頭から消え去りました!」
私は嘘をついた。頭には消去すべき記憶がまだ残っていた。

 そこで私は目が覚めた。ただの夢だったのである。前日、妻が会社の定期健康診断を受け、麻酔を打ったという話を聞いていた。恐らく今朝そんな夢を見たのは、妻と昨晩そんな会話をしたせいだろう。実際、この夢は、妻との会話とボリス・ヴィアン『赤い草』とフィリップ・K・ディック『追憶売ります』をミックスさせたような珍妙なSFのようだ。

 私は午前中その夢をいくたびか反芻させていた。夢の中では、記憶の消去に失敗したようだが、覚醒した私は消去できずに残ったはずの記憶を全く思い出すことができなかった。それはやはりあの治療のせいだったのだろうか。

illustration by Ryosuke Tanaka

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