広田修

詩と小説と批評

広田修

詩と小説と批評

マガジン

  • 流動詩集5

    流動する詩集

  • 詩に関するエッセイ

    詩に関する簡単なエッセイ。私の詩に対するスタンス。

  • 流動詩集

    いずれ詩集に収録するだけの質を備えていると自分で判断した近作を載せていきます。

  • Reborn

    20代の総決算として30になる前に書いた小説です。

  • 流動詩集2

    いずれ詩集に収める予定の作品集

最近の記事

肯定の連鎖

これまでの人間の歴史は 否定が否定を呼ぶ 否定の連鎖だったから せめて子供たちが生きる未来は 肯定が肯定を生む 肯定の連鎖の歴史を紡ぐように わが子の達成一つ一つに 惜しみない褒め言葉を浴びせる 早朝 子どもがまだ寝ているときに 子どもの写真を眺めていた 子どもの笑顔を見ていると いつも肯定されることのお返しに 私の苦労や努力も肯定してくれるようで 涙があふれた これまでの人生大変だったね いつもありがとう パパのこと大好きだよ

    • 詩作におけるシステム論

       詩を書くとき、かつて若かったときは理想の美を追い求めていた。プラトンの言う天上の善のイデアのようなものに接近するため飛翔し上昇すること。それが詩を書くことだと思っていた。作品を書くときは何度も推敲を重ね、理想的な言語美に接近するように言葉を研ぎ澄ましていった。作品の完成度は高くなったが、形式的な美を追求するあまり、空疎で無内容な作品が生まれがちだった。これは詩作における理想主義と言っていいだろう。上に向かう運動である。  その次は、自らの内奥や世界の内奥、すべての根底へと迫

      • 人生の命

        大学で留年が決まったとき 人生は終わったと 少年時代の甘い夢は砕けたと 一度ピリオドが打たれた 終わりのあとの生活で 私は生きていく強さを養った 研究者の道をあきらめたとき 人生は終わったと 自分の目標は達成不能になったと もう一度ピリオドが打たれた 再びの終わりの後の生活で 私は創造する力を養った 二度もピリオドが打たれた私は 終わりの後の人生で 就職が決まり 結婚し 子どもを授かった 人生は三度新しく生まれ変わり そのたびに私はいいえぬ寂寥に襲われるのだった 人生は

        • 輝きの粒

           私は新聞を読むのが好きだ。世の中では様々な出来事が起こり、様々な人々が活躍し、そういう社会の動きが一つ一つ輝きの粒として私の心を楽しませる。私は一つ一つの社会的な出来事の記事を読み、そこで確実に社会の活力を感じ、その社会の活力が粒のように輝くのを口に含み嚙み砕く。すると私の口の中には得も言われぬ美味が広がる。  新聞だけではない。例えば私は高いところから街並みを眺めるのが好きだ。そこにはささやかながら人々の生活が営まれており、道路には自動車が通行し、人々がそこに生きているこ

        肯定の連鎖

        マガジン

        • 流動詩集5
          60本
        • 詩に関するエッセイ
          58本
        • 流動詩集
          100本
        • Reborn
          12本
        • 流動詩集2
          100本
        • 流動詩集4
          107本

        記事

          爛熟

          太陽に追放された後に 世界を追放して 私はひとり空無にたたずむ 宇宙史において地球史において人類史において おびただしい爛熟が閃いては継起していった 世界を追放した後の空無で 私は一人形而上学的に爛熟する すると娘がやってきて パパ遊ぼうと言ってくる 形而下における爛熟は 家庭の充実という形で明白に到来した 形而上の爛熟は そして詩の爛熟は 形而下の平穏と幸福と 何一つ矛盾することなく 鋭く未来の源泉まで切り刻んでいく 世界を追放した後の空無で 私は個人史の爛熟に 戸惑いなが

          すれ違い

          僕たち夫婦と君とは 人生の向きが違う 僕たちはマイナスを向いているけれど 君はプラスを向いている 僕たちが歳を取っていくとき 君は成長していくのだ 家族で一緒の方向へ散歩しながらも 僕たちと君は違う向きを向いていて 同じ向きに歩みながらいつでもすれ違っている 僕たちと君とが楽しく遊んでいるときでも 僕たちと君とはすれ違っている 同じ時間と空間を共有しながら ずっとすれ違い続ける

          すれ違い

          ネガティブ・ケイパビリティ

           最近、ケアの哲学の分野でよく目にする言葉の一つが「ネガティブ・ケイパビリティ」である。これは、詩人のキーツが提唱した言葉で、不確実なものや未解決なものを受容する能力のことである。解決や決定をいったん留保して、そのモヤモヤに堪える能力のことである。  これはケアの現場で必要となる。例えば、相手の言いたいことを辛抱強く聞く。こちらは意見をさしはさまないで、ただ言いたいように言わせる。または、相手の心身の不調が回復するのを待つ。育児の場合だと、子どもが気が向くのをひたすら待つ、な

          ネガティブ・ケイパビリティ

          父の原理

          二歳半になった娘と 初めて二人で散歩した ママがいない初めての散歩 君は胎外に出たけれども ずっと母の原理の中にいた 君はいわば胎内にいたままだった こうしてパパと二人で出かけると 今度は父の原理が君を包む 君はやっとママの外に出たんだね 異なる原理の中で 社会の中で 生きていく初めの一歩を こうやって踏み出していったんだ 父の原理の異質性に耐える君は きっと自分と異なる人たちと共存し そこから自分にないものを見出していくことができる

          父の原理

          四十歳

          世界の始まりに行動が存在した。あらゆるエネルギーを詰め込んだ行動が存在していたのだ。その行動がはじけ散った後の世界で私たちは行動のかけらの日差しを浴びている。私もまた文章を書くことで行動する。文章は生活であり、労働であり、休息であり、政治である。文章は私の深奥に書かれることもあれば、事務文書として書かれ、作品として書かれ、交響曲として書かれることもある。 若いころ渇望していた愛を手に入れたが、愛は手中におさまるどころか一層謎を増した。抽象的に求められていたものが現に具体化し

          所有・共有・占有

           私は、人生や世界というものは、単に消費してしまうには価値に満ちすぎていると感じている。これだけ価値に満ちた人生や世界については、きちんと鑑賞し、その結果として詩作品を残すことが重要であると考えている。  初めは、詩作品を作ることで人生や世界を「所有」することができると考えていた。人生や世界を自らの名義で所有することで、それを根源のところから支配することができる。きちんと所有することで私は価値のある人生や世界をきちんと保管できると考えた。だが、そもそも人生や世界を所有すること

          所有・共有・占有

          元旦

          元旦は最上位の概念であり、夕焼けの苦しさも、子どもと散歩した喜びも、仕事でなした達成も、生活、育児、労働と概念化されたうえでさらに「元旦」と概念化される。元旦のこの概念化の潜勢力は、元旦の日の出とともに始まり、曖昧な概念同士の発火を伴い、日の入りとともに終わり、概念たちの残骸をはるか遠くへと放り投げる。 誰が生きるべきか、誰が死ぬべきかなんて選びようがなかった。誰が孤独か、誰が幸福か、なんてただ怒ることしかできなかった。結婚して、子どもが生まれて、そこに数限りない言葉を費や

          人生以上

          歳が終わった時刻に 連なった日々の果実を収穫する 死すべき快楽と 生くべき苦痛と 絡み合った日々はすべて新鮮で 同時に腐敗している 生活も労働も この体を超えて出ていった 休息も娯楽も この精神と遠く隔たった 歳が終わった時刻に 腐敗していく人生は 人生以上としてきらびやかに発酵する

          人生以上

          外部

          疲労した外部が到来した すると労働は家庭を食い荒らし 家庭は労働を絞め殺し 家庭と労働は共謀して余暇を殺害する 外部は血で膨れて満足して去っていった 回復した外部が湧出した すると労働は健やかな楽しみを生み 家庭は笑顔と安心で満たされ 余暇は労働と家庭により豊かに耕される 外部はその代償として空虚を奪っていった 外部は人間の生活について 生殺与奪の力を持っている この外部を隠微に制御すること この手は外部まで届くだろうか

          美しい無知

          君は私にいたずらして 眼鏡を取り上げる だめだよ、と私が言っても 君は得意顔 倫理を知らない君は美しい 規範に汚染されていない君の得意顔は美しい 君は難しい言葉が理解できない クリスマスって知ってる? わからない。 君は不機嫌そうだ 世界の複雑さを知らない君は美しい 世界にまっすぐな直線をひく君は美しい 君はまだ数がよくわからない ひとつ、ふたつ、いっぱい 厳密に数を数えられなくても君は困らない 計算を知らない君は美しい 純粋なゼロのみを生きる君は美しい

          美しい無知

          外部を召喚することは可能か

           詩は何もないところから生まれる。そんな言葉を聞いたことがある人も多いかもしれない。あるいは、詩は言葉を宙からつかみ取ってくるものである。あるいは、詩は虚無から言葉を創造していくものである。いずれにも共通しているのは、詩は詩人が己にとっての全き外部を召喚して、その外部との接触が創造行為を生むという発想である。  だが、そもそも外部との接触は可能なのだろうか。詩人の内部をいくら探索しても見つからないのが外部なわけであり、詩人の経験や知識や感性、いくら働かせても到達できないはずの

          外部を召喚することは可能か

          もう一つの地球

          君は幸福な言葉をよく口ずさむ パパママいちか ママパパいちか いちかはもちろん君の名前だ パパとママと君は三つの小さな点として 同じ一つの球面の上に乗っている パパとママと君は三つの小さな点として 一つの球体を指定した この球体は君の家族の地球 この地球とは別に 君の口から生み出されたもう一つの地球 パパママいちか ママパパいちか 幸福な言葉を繰り返す君は 家族の地球を進化させていく 山があったり海があったり火山があったり 静かなときもあれば動きに満ちたときもある 君たちはも

          もう一つの地球