見出し画像

当落線上

    私は生まれた時、体重が2650グラムだったと、母から聞かされたことがある。誰もが生まれた時につけるのであろう母子健康手帳なるものは、とうの昔に失われているので物的証拠は何もないのだが、もしそれが本当だとしたら、未熟児認定は2500グラム未満であるから、私はどうにか未熟児として扱われずに済んだわけである。換言すれば辛うじて当選、といってよいのだろうか。
 私の誕生日は3月26日だが、予定日はその1か月後だったとも聞かされた。つまり私は早産だったのである。母は私を身ごもっている時、医者から母体の状態がかなり由々しいから外出してはならないといわれていたのにもかかわらず、しょっちゅう外出していたという。「だって、あのときは周りに何もなかったから。家にこもってばかりいてはどうかしてしまうわ」当時我が家族の住まっていたところには彼女にとって気晴らしになるものが何一つなく、日用生活品を手に入れるための市場なども歩いてかなりの所にしかなかった。スーパーマーケットは60年代後期の当時すでにあったが、それも相当家から離れていたというのである。母は、あくまでも自分の快感原則に従って行動し、結果いよいよ本当に由々しき体になり病院に入院させられ、母体がこらえきれなくなって予定よりひと月早く私を生んだというわけである。
 母の体からは母乳がロクに出ず、すぐに市販のミルクに切り替えられた。母乳は赤ちゃんの体に免疫をつけるのに重要な役目を果たすそうだが、それを満足に与えられなかったからだろうか、私は生まれた直後からしょっちゅう体調を崩し、1歳になった年の夏にはひきつけを起こして入院したという。その時の病院は冷房の全くない所だったらしく、そのせいで私の病状はちっとも好転しなくて、おかげで喘息もちになってしまったとは、母の論である。喘息がその病院のせいだとは大いに疑わしいが、私が1歳の時から喘息になったのは事実である。喘息の原因について母はそれ以上、話したことはなかったけれども、私が生後間もなく結核にかかったことが、ひょっとしたらきっかけの一つになったのかもしれない。というのも、ツベルクリン反応をみたとき、私の腕が真っ赤になり、医者が慌てて再検査したところ、結核にかかっていたことがわかったのである。今でも健康診断を受けると片肺に影があると言われるのは、その名残である。
 私の喘息はかなり深刻なレベルであったようで、かかってすぐに、難病に認定された。確かに、発作は頻繁に起こった。起こると少なくとも丸々1日はどうにもならなくなった。食べ物も口に出来ず、呼吸もできず、胃の中のものも全部出してしまうほどであった。近所には同じ年ごろの子供がたくさんいて、連中はよく一緒につるんで遊んだりしていたが、たいがい私は家の中でじっとしていた。時には一緒に遊んだりもしたが、走るのも何をするのものろまであった私は彼らからバカにされ、イジメられ泣かされ、やがて彼らとの交流を断った。家には古い本がたくさんあって、それらが私の心を癒してくれたのである。親戚の、私より年長の子からもう読まないからとたくさんの絵本をもらっていたし、母は私の幼少時は後の時代とはまるで異なり、私の情操教育(?)に熱心で、よく本を買ってくれていたのである。その多くは今や失われてしまっているが、たまに物置からさんざん読み返してボロボロになった、もうほとんど本としての体裁をとどめていない本を見つけたりするとき、私は言いようのない感情に包まれる。『おさるのジョージ』に『ちびくろサンボ』、『ちいさいおうち』・・・・。後年、私が漱石や内田義彦、大塚久雄を乱読し、古本あさりに心の慰みを見出すようになった端緒は、この時に培われたと言いうるだろう。
 こんな体であったから、小学校にもまともに通えなかった。授業にも全くついて行けなくて、成績はどの学科もボロボロであった。他人とのコミュニケーション能力の点でも大いに欠陥を有していたから、クラスの格好のイジメの標的になった。どこかの本で読んだことがあるが、社会は落ちこぼれを標的にして血祭りにあげることで結束を図るのだという。私はその意味でまさしく生贄であり、クラスの団結促進剤と言えた。イジメのストレスもあったのだろう、喘息は一向に良くならず、時には授業中にも発作を起こすことも度々で、担任の教師も私を難じ、疎んじていた。イジメの問題もほったらかしにされた。いや4年の時の担任は私に対して友好的で、イジメの問題にも向き合ってくれ、私をイジメた奴等をそれこそつるし上げにしたりした。しかし、その担任の人は父兄の間で評判が悪かったようで、担任を1年間務めただけで、翌年には私の学年の担任になるところが、低学年の担任に回された。変わって5年生6年生と私のクラスの担任になった教師は、まず己の安逸と保身を、次にいかにしたら己の権力を学校に根付かせるかを考える女だった。私のことなどハナッから歯牙にもかけず、喘息を起こした時には治るまで学校には来るなと、クラスの他の生徒には表向きには、イジメ防止と称して「奎文君には近づかないように」と命じ、その実はイジメと私の喘息問題とに関わらないようにする手練手管を講じたのである。皮肉と言っていいのだろうか。担任が私を邪険にするほどに、私へのイジメもやんでいった。クラスの連中もまた、己の保身を第一に心掛けたのだろう。いやあるいは彼らの保護者から、私を相手にしてはいけません、担任の先生からキツク言われているからと、釘を刺されていたという方が正しいのかもしれない。ただ私にとっては勿怪の幸いであった。無視され村八分にされていた方がはるかに幸せに感じた。少なくとも外部からの心身への苦痛に脅かされることがなくなったのだから。
 小学校時代の、私の置かれた立場を示す例をひとつ記しておきたい。あれは6年生の、たぶん秋だったが、日光へ修学旅行に行くことになった。だが私だけは行ってはならぬと担任からお達しが来た。喘息を起こされては厄介だからというのである。クラスの連中は陰でひそひそと「情けねえ奴」と私をせせら笑った。母は自分の息子だけ差別だと激怒し、学校で担任と相当やり合ったらしいが、覆らなかった。
「あんなのは教師じゃない。無責任な小心者よ」と母はその後も長きにわたって担任を憎んでいたが、彼女は私を慮ってそんな態度を取ったのではなかった。自分がこんな情けない息子の母親であると周囲のみならず学校からも認定されてしまったことが、腹立たしくてならなかったのである。彼女は小さい頃から勉強も体育もよくでき、ついでに学校を出た後の職場でも優秀だとみなされていたらしく、それを終生自慢にしていた。自分はひとかどの人物であることをひけらかさずにはいられなかった。だからその息子である私もそれなりの人間でいてもらわなければならないと、勝手に思い込んでいた。換言するなら、彼女にとっての私は、自らのエゴを満足させる製造品なのであった。それがことごとく裏目に出て、私はどう頑張っても不良品であることが明るみになるにつけ、彼女の自分勝手な自尊心は傷付けられる一方で、自然私を責め、罵ることになった。私は心落ち着ける場がなかった。これでは喘息が軽くなるはずもない。そのくせ、母は私が難病であると国から指定されていたことを喜ばしく思っていた。つまり我が息子は思いもよらぬ労苦を背負わされた哀れなる、庇護されて然るべき子であり、われはその母であるとふんぞりかえっていたかったのである。私は周囲の大人たちの、そして自分と同じ年ごろの連中の、それぞれの自愛心、エゴ、残虐性を、とことん味わい、目の当たりにし、人間とはいわゆる美しい存在では断じてないことを自分の内なる肉に深く刻み込ませた。今に到るまで権威を振りかざすもの、善行とみなして近づいてくるものへの不信の念を持ち、ときにそれらを拒絶するのも、幼少期の体験が深く影を落としていることは間違いないだろう。
 修学旅行に行けなかったことは、私にとって、むしろ喜ばしかった。嫌でたまらなかった教師やクラスの奴輩と1分たりとも一緒にいたくはなかったのだから。
 父は自分の勤め先での出世と収入、さらには外で遊び回ることを優先させ、家の事、息子の問題には無関心だった。彼は仕事だ接待だとか言って、平然と外泊をしていた。土曜も、時には日曜も仕事とか言って家を空けていた。半分は本当だったのかもしれないが、半分は別の目的であった。それについてはここでは控えるが、両親の仲は既に冷え切っていた。私は学校でも家でもほぼボッチになったといってよかった。いやむしろ、ボッチでいることがうれしかった。イジメに遭うよりはるかにましであったし、ボッチでいる時には好きなことができたのであったから。喘息の発作で一人、家の中で寝ていて、発作が収まってから、家の中にある本を読んでいる時が、私の至福のときだった。この時だけは、誰からの圧迫を受けず、平和を満喫できたからである。もちろん、その平和は家の中の、布団の中だけか、本が傍らにあったときだけであったのだけれど。
 小学校の卒業についても私は当落線上にいたことを、ずっと後になって知らされた。くだんの担任の女教師が、保護者面談のとき母に、ちょっと厳しいですねと言ったらしい。しかし担任は「お荷物を増やしたくなく」、どうにか教育委員会に手をまわして、強引に私を卒業させたのである。彼女は私に対して―というより、私の母に対して―感謝の気持ちをもって然るべきだと考えていたふしがある。これもずいぶんと後に母から聞かされたことだったのだけれど、私が小学校を卒業して数年後、担任―厳密には元担任―の彼女が定年になるということで、ОBの母親たちが感謝を込めて集まろうということになった、ついては当然私の母もという事でお呼びがかかった。ところが母は「あほくさ。何で今更好きでもない奴に会わなきゃならんのよ」と無視し、それで周囲と母がもめたらしい。この一件で、我が家の近所での評判は一層下落した。ところが、母はその後も自分は周囲のママさん連中よりも優秀だという自惚れから決して脱することはなかった。もし彼女に謙虚さという試験を受けさせたなら、彼女は即刻落第し、当落選に引っ掛かる事すら叶わなかっただろう。
 小学校での扱われがかくの如きであったから、中学校のそれがどうなるかは言わずもがなである。「勉強なんてできなくたっていいのさ。何か他に取り得があれば。例えばスポーツができるとか、愛嬌があるとか、勉強以外に得意なものがあるとか・・・・」残念ながら、何一つ当選するものはなかった。これで学校内でいじめにあわなければまだ救われたかもしれないが、先に述べた通り、集団とは少数者・弱者を標的にして迫害することでおのが生存を図る。中学に場所が変わると、なりを潜めていたイジメが、またぶりかえした。しかも学校の教師まで生徒と一緒になって標的となった者をイジメて楽しんだ、もしくは見て見ぬふりをした。それが私の中学校では当たり前とされたのである。
 幸か不幸か、私の喘息は中学入学後、次第に軽くなっていき、難病の指定から外された。母は、「今まで医療費タダだったのに」と恨めしい目つきで私を見やった。難病対象はあくまでも喘息だけで、他の病気のときには全く適用されなかったから、我が家の家計にはその点変化はなかったのに、母は長い間医療関係者を、さらには私自身をも非難していた。とんだとばっちりであり、その歪んだ解釈にはほとほと呆れてしまう。ただ喘息との関りで言えば私は当落選をクリアしたというところなのだろうか。
 私は周囲から自閉症患者と馬鹿にされていた。自閉症はともかくとして、人とのかかわりを嫌い、拒絶したのは事実である。時代がまた悪かった。ひとと協調しないとだめです、仲良くしなさいとくどいほどに説教され、それができない者は非国民扱いされた。私の中ではことごとくアウトコントロールなものだった。その意味で私は明らかに落選者であった。よく発狂しなかったと思う。いや、もうとうに発狂していたのかもしれない。だからこそ、かくも屈辱的な扱いに耐えられたのかもしれない。
 今までイジメに無関心だった中学担任の男の教師―忌々しいことに、3年間ずっと同じ担任であった―は私が3年になった途端、私をイジメていた連中を糾弾し、当該連中に対し、「これ以上いじめをするなら内申書に書くぞ」と脅し上げ、少なくとも表面上イジメはなくなった。もちろんその後も陰でさんざん私への誹謗は行なわれていたが、直接的な暴力はなくなった。これも私への慮りではなく、教師自身の点数稼ぎの為だった。つまり担任の男は数年後、他所の学校に転任し、学年主任~教頭になるシナリオを練っていたのである。当時はそんなことはわからなかったが、卒業して数年後、ばったり街で顔を合わせた同期の男―彼は中学時代数少ない友好的な関係を結べた男で、私と違って顔が広かった―から聞かされ、さもありなんと思ったのであった。今もなお、スミスの『国富論』や『道徳感情論』を読んでいて、人は自愛心に基づいて行動するものだという記述を読むと、小学校や中学校の担任教師たちの行動が思い起こされる。
 学校の勉強も、やはりはかばかしくなかった。とりわけ体育と数学がどうしようもなかった。100メートル走をやると途中で息が上がってしまって走れなくなった。どんなに教科書を睨んでも連立方程式の仕組みが理解できなかった。当然成績は壊滅的であった。高校への進学も、この調子ではほぼ不可能だと思われた。3年生の時の内申書の審査で、担任はウンザリした態度をあからさまに示し「この調子じゃ、おまえは野垂れ死にするだけだな。そうされてはこっちの外聞が悪いからな」と私に向かってほざいた記憶は、私の頭の中に今も残っている。保護者面談の時、「この高校しかないでしょう」と彼は学校の資料を提示し、まだその学校のことなどまるで判らぬうちから、その場で入試の手続きをすることを決めてしまった。学校はいわゆるFランな高校で、しかも我が中学からの入学者はこの数十年間にほぼ誰もいなかったという。
「ま、つまりそういうとこ、なんですね」母は、ため息混じりに、且つ思わせぶりに、そう聞いた。
「選択肢がかぎられていますからな」担任は、ぶっきらぼうにこう返した。
母も母で、どうせ我が子は脳みその足りないうつけ者だからと、担任に丸投げしてしまっていた。そのくせある休日、いきなり「下見に行こう」と私を引っ立て、学校まで出かけて行って「あーあー、やっぱりねえ。ロクなとこじゃないわ」とぼやいたのであった。我が子の事を放り出したいのか干渉したいのか、どちらなのだろうかと、この時私の頭は混乱を示したが、どちらも、であったのだろう。つまり彼女は干渉したかったのだ。しかし面倒なこともしたくなかったのだ。母は、とうの昔に私の事は、出世も何もしない、落ちこぼれの人生を歩むであろうと決めつけていた。偏差値の高い高校・大学を出て、優良と世間で言われている企業に入る、入れば高い給料をとれる、とれれば幸せになれる、他に人生における選択の余地はないと信じて疑わない女であったから、すでに小学校の時点でその規範から外れてしまっていた私をガラクタ同然とみなした。それでいて、彼女は他人の前ではいかにも家族への愛と寛大さにあふれたヨクデキタ主婦であると見られたがったから、「とりあえずは大学まで行かせて上げるわよ。でないと外聞がわるいからね」としきりに言っていた。そしてこの一言も忘れなかった。「あーあー、でも一流大学は、もう夢のまた夢ねえ」母もまた、外聞を、好んで引っ張り出しにかかるのであった。
 下見に行った高校は、オンボロな木造の、嵐が来たら吹っ飛んでしまうのではないかとイメージできてしまえるお粗末な校舎だった。母は「こんな建物。今の時代、まだこんなのが残っていたなんてねえ」とあきれたように言っていたが、たしかに学校の敷地内だけは時代から取り残されたというべきか、よく昔のモノクロ映像に映し出されるような、戦後間もなくの、焼け出されて掘っ立て小屋をおったててそれを無理やり校舎にしたのではないかと思わされるような、憐れみを起こさせる場所だった。私はそのボロさ加減に半ば呆れ、半ば寒々しい思いをしたのである。俺が行ける学校はここだけか、それがこんなスラムのような所かよ、と。いや、まだ行けると決まったわけではなかった。当然ながら試験に通らなければ行けやしないのである。
「あんた、中学浪人は勘弁してよね。みっともないから」母は私にはっぱをかけたが、私はてんでやる気が起こらなかった。受かろうが受からなかろうが、所詮は俺のこと、あんたの人生じゃないだろう。心の中で私はそうぼやいたのであった。
 小心者の私としては意外なことなのだが、高校受験に関してはプレッシャーをさほど感じてはいなかった。全くなかったと言えばもちろん嘘になるけれども、まあどうにかなるわいとタカをくくっていた。もし受からなくて浪人になってもいいじゃないか、その時はそのときよと、ある種捨て鉢な感情を持っていた。人生は他動的、自分の力ではどうにもならない、流されるしかないという諦念と言おうか。そんな心情が、当時から私の根っこにはへばりついていたといえる。さて、その高校受験だが、もう40年あまりも前の事であり、細かいことはほぼ忘れてしまっている。憶えているのは二つだけ、ひとつは試験当日、試験とは関係のない本を試験会場で読んでいたことである。たしか中高生が読むべき読書案内のような本だったと思う。つまらないが教科書よりはましだわいと思って読んでいたのである。『チップス先生さようなら』や『生まれ出ずる悩み』が載っていた。何故そこまで憶えていたのかというと、どちらも読んでいたからである。『チップス』は面白かったが、『悩み』は面白くもなんともなかったから、憶えているのである。つまらなくても読むべきとは窮屈な話だ、強制なんてウンザリだと、その本は帰宅後すぐに押し入れの中に放り込み、いつの間にか処分されてしまった。もうひとつは、面接試験で中学の住所を言い間違えたことである。その時の私は、中学の住所をうろ覚えであったのである。呆けというしかなく、受験にいかに身が入っていなかったかを露骨に示すものなのだが、ま、仕方ねえわなと、深刻には感じなかった。それよりも木造のボロ校舎はあまりに寒く、早く帰って布団にもぐり込みたいとそればかり考えていたのだから、能天気もいい所である。
 さて、それから数日して、私はまんまと試験に合格してしまった。その時は別段うれしくもなかった。落っこちた時にまた試験、いや浪人だとかで騒がれなくて済んだとほっとした気持が大きかった。クラスにいた一部の奴輩からは、へえおまえでも高校に行けるんだと嫌味を言われたが、もうすぐ卒業だ、おまえらとは会うこともないわと無視してやった。担任の男からは特に何も言われなかったと思う。おめでとうの一言くらいは言われたのかもしれないが、記憶にない。たいして喜ばれなかったのだろう。
 母も、合格にはほっとした表情で、「ま、カッコはついたわね」と言っていた。ところでこの受験には後日談がある。4月になって高校で保護者会議があるという事で、母はああかったるいとぶつくさ言いながら高校に出むくことになった。その日は土曜日の午後で、授業はもうなく、私たち生徒は帰宅するか部活に勤しむかしていた。私は当然帰宅部(!)で、そそくさと家に帰っていた。しばらくして、母はあからさまに機嫌を悪くして帰ってきた。(け、なんだよ。なんか良からぬことをたらしこまれたか)ウンザリしつつ構えていると、母は時の担任から、試験の点数を合計すると本来なら不合格だった、しかし国語と英語がともにほぼ満点であったから私を合格にしたのだと、聞かされたのだという。
「数学の出来が酷かったんですってよ。だから高校では数学をみっちりやれば、来る大学入試のときには相当有利になるでしょうって。まったく!恥かいちゃったわよ」母はしばらくの間、この話を蒸し返しては一人勝手にぷりぷりしていた。数学が酷かったのは想定内だったが、国語と英語がともにほぼ満点であったのは我ながら驚いた。普段は数学よりちょっとましなだけで、とてもほぼ満点をとれるほどの学力などどちらもなかった。それがなぜこの時だけ、と不思議でならなかった。とにかく、高校入試においても私は当落線上ギリギリのところを、辛くも引っかかったというわけである。
 高校入学までの一断面を振り返って見て思うのは、私はつくづくポンコツな肉体と精神を持った男であり、よくもまあ高校まで進学できたなあということである。節目節目での私はしょっちゅう当落線上にいた。それを辛うじてクリアしてきたといえるかもしれない。その一方で、そのときどきにクリアしてよかったのかという気も起る。クリアしてそのままナアナアと進んでしまったからこそ、より一層しんどいことになってしまったともいえはしまいか。あの当時、自分をもう少し人間的にレベルアップさせようとちょっとでも努めていれば―周囲に短絡的に‛協調‘しようとか、という意味ではない―その後はより生きやすくなったのではないか。だがそんな類いの行為は一切しなかった。する意識すら全く起こさなかった。挙句に今の私は、もうどうしようもないほどのヘタレ爺と化した。更生しようと思っても、もう不可能であるほどに。
 さて、このポンコツ野郎の高校時代はまた情けない話が続くのだが、今回はここまでにしておこう。