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長谷川晶一 詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間

浪人もしたので「大学受験生」を2年間私はやったのだが、それが1992年と1993年である。もうだいぶ記憶も摩耗してきているが、この2年間は世間的には皇太子(現天皇)の成婚があったり、貴花田と宮沢りえの婚約→解消、さらに1993年はJリーグ開幕およびドーハの悲劇と、それなりに色々あった。

そして、この2年間の日本シリーズは、西武とヤクルトがともに日本一を分け合った。球史に残る頭脳戦かつ死闘であり、30年近く経った今も語り継がれている。あの頃死闘を演じたチームから、ソフトバンク前監督のの工藤、西武の辻、ヤクルトの高津が現役の監督をしているし、それ以外も球界で重きを成している人達が数多くいる。渡辺久信とか古田とか、何と言っても清原もそうだ。

そんな2年間の死闘を纏めた本が、金曜日に出版されたのを、昼にネットで見てて知った。すぐに丸善に向かい、1冊だけあった本書を購入した。ノンフィクションライター長谷川晶一の書いた「詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間」である。この人の著作は読んだことが無いが、著作を見るとどうやら筋金入りのヤクルトファンのようである。だから本書も、ややヤクルト寄りになっているのを少し感じたが、強い偏りは感じることは無かった。それだけ、当時の西武が強かったと言うことなんだろう。

高校入学まで、私はヤクルトなどファンでも何でも無かった。とにかく弱いし、縁も全くない。周囲にヤクルトファンなんて一人もおらず、なんでこの球団が存続しているのか分からなかった程だ。高校に入ってからもしばらくそうであったが、高校の場所が神宮の前だったので、毎日ヤクルトの選手を見るのである。

「学校にいる間、ヤクルトが優勝すれば良いな」

と友達と言うようになったが、そんなことが起こる訳が無いと思っていた。

しかし、高校3年時、これが起こった。神宮からの凄まじい声援は、授業中も聞こえた。これが1992年、3勝4敗で結局王者西武に敗れた年だが、ここまで善戦するとは思わなかった。でも、ヤクルトが勝った3勝の内の2勝が、延長サヨナラ。杉浦のシリーズ史上初の代打満塁サヨナラ本塁打が第一戦、そして秦が鳴門高校の後輩である潮崎から値千金のサヨナラソロホームランを打ったのが第六戦。

とは言え、当時の私が思ったのは、「延長までもつれ込まないと西武には勝てんのか」だった。当時の西武は物凄く強かったので、結局西武が日本一になったのは当たり前だと思ったし、延長までやって何とか白星を拾ったヤクルトは、強くなったけど、やっぱ弱いのだな、と思った。小中学校時代、横浜(大洋ホエールズ)と5位6位を毎年分かち合っていたヤクルトとは、ガラリと変わっていたのに、やっぱり弱い時代のヤクルトのイメージを持っていた。

浪人生活が始まってからは、勉強以外に殆ど何もしない感じだったが、それでも毎週木曜はスポーツ新聞を買っていた。開幕したJリーグの結果を見るためだ。ウチは昔から野球よりはサッカーを見る方だったので、私としてもJリーグは楽しみに見ていた。因みに買うスポーツ紙は必ずサンスポだったが、これはフジサンケイグループでヤクルトの情報も充実していたからだ。だから、ヤクルトの結果も、勿論夜のニュースでも見ていたし、サンスポでも見ていた。

93年のヤクルトは強かった。90年代はヤクルトの黄金時代であり、一昔前の広島並みに強かった。その後95年・97年と優勝するが、95年・97年の日本シリーズは、当たり前のようにヤクルトが日本一になっていた。93年は、従って後のヤクルトほどは強くなかったかも知れないが、でも強かった。

我が家にとって、この年はドーハの悲劇が襲った日だった。夜中に家で家族で見ていて、イラク戦で引き分けに終わった後、弟が無言で布団に入っていったのは今でも覚えている。これは私にとっても衝撃で、翌日の予備校内の模試でも、全く集中できず、偏差値が10落ちた。

予備校の数学の先生は、高校時代にサッカーをやっていた(しかも静岡県出身)ので、このドーハの悲劇に打ちのめされているだろうと思ったが、遠藤先生は「人生最高の瞬間に立ち会った」と言っていた。先生は熱烈なヤクルトファンであり、この年に前年同様に西武と死闘を演じ、前年と違ったのは日本一になった出来事に、興奮していたのであった。

私はと言えば正直な所、ヤクルト日本一はドーハの悲劇のショックを「ひっくり返す」ほどでも無かった。既にヤクルトファンだったけど、ウチはやっぱりサッカーが好きで、我が家は全員、打ちのめされた弟の姿が象徴するような状況だったからだ。父は憮然として何も語らないし、母は「やってられないわね」と苦笑しながら言うし。

1993年、ヤクルトは確かに強くなったし、だからこそ優勝した訳だが、強くなった証拠が、4勝3敗でも、一試合として延長になった試合が無く、サヨナラ勝ちも無かったということである。前年度、あれだけ最後の最後でようやくひっくり返した試合が、一つも無いのである。

勿論、各試合は監督同士の謀略と策略が絡み合った死闘だったと思うが、明らかにヤクルトは強くなったし、西武はちょっと弱くなったのかも知れない。私は93年の日本シリーズ前に、92年の日本シリーズ後と違う印象を、ヤクルトに対して明らかに持っていた。

「ヤクルトは、完全に強いチームになってしまった」

である。「やっぱ弱いのかな」じゃなく「今年は勝負になるだろう」と言うものだ。その通りだったが、これは多くの人がそう思ったと思う。

その後のヤクルトの躍進は、既に歴史として残っているが、とにかくこれを実現したのは野村監督であり、そして当時野村監督を引っ張ってきたヤクルトの桑原潤社長である。

この本の最終章は「野村克也、逝く」である。さぞかし著者の持つ野村克也との思い出などが書かれているのかなと思ったが、書いてある内容は殆ど、あの時の相手の監督である、森祇晶に対し、著者が野村克也逝去後に聞いた話であった。

森祇晶と野村克也は、あれだけバチバチの戦いをしたにも関わらず、同じ正捕手としてウマがあったらしい。大体、森祇晶は巨人の黄金時代に正捕手としてV9に貢献したのに、長嶋茂雄とは犬猿の仲であることも、何となく似ている。

森祇晶は心底、野村克也が先に逝ったことを悔やんでいた。

この最終章は、野村克也が亡くなった後、追悼特集として出版されたNumber999号に掲載されている。この記事を書いたのは著者である長谷川晶一である。

この著書には書いていないが、Number999号の記事の最後に、森祇晶の言葉が記されている。

「ノムさん、それにしても少し早かったよ…。まだまだあなたにはやるべきことがあったでしょう。ヤンキーズの監督だったジョー・トーリがMLBの副会長を務めていたけど、日本でそれが出来るのはあなただけでしたよ。野球人口減について、球数制限の是非について、まだまだあなたの知恵と経験が野球界には必要だし、現場出身者として、さまざまな提言をして欲しかった。本当に寂しくて仕方が無いよ。」

最近の日本シリーズは、セ・リーグ代表が全く勝てていない。95年以降、ヤクルトがパ・リーグ覇者を手玉に取った時代からすると、全く考えられないが、まあ、何が悪かったのか。球界再編で古田が頑張った際、パ・リーグは新球団が設立されたり、ソフトバンクがホークスを買ったりしたが、セ・リーグは大して変化が無かった。変わらないことがアダとなったのかは分からんけど、とにかく今無類の強さを誇るのが昨年までのホークスであり、一昨年の日本シリーズでも巨人をボコボコにしている。

だから、92年と93年の、両リーグ覇者の激闘死闘は、よけいに際立つ感じがある。

そんな昨年、抑えの切り札高津率いるスワローズが、オリックスとの死闘を制して勝った。でも、92年と93年の日本シリーズほどは痺れなかった。

我がスワローズは永久に不滅であるとともに、今年もやってくれると超期待している。

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