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「千と千尋の神隠し」から見る日本社会①

日本人ならほとんどの人が一度は見たこともある映画の1つである「千と千尋の神隠し」。この映画は宮崎駿が監督を務め興行収入は316.8億円とメガ大ヒットを記録しました。私自身この映画は不朽の名作として1年に1度は見ているのですが、昨年公開された映画鬼滅の刃に興行収入を抜かれてしまったのは少しかなしかなというところでした。

今回改めて本作品についての記事を書こうと思ったきっかけは森喜朗氏の「女性蔑視」発言である。男女共同参画が掲げられてもなお、日本の男女平等という概念は些かあいまいなものであった。では、ジェンダーと千と千尋の神隠しに一体何の関係があるのだろうか。私はこの映画を男尊女卑志向へのアンチテーゼであると考えている。今回はこのことについて私の妄想を記そうと思います。

なお、映画というものは個人の見解を自由に述べて良い芸術の域であると私は考えています。私の考えを否定してもらって別の見解を持っていただいてもいいですし、逆に私の考えにかぶれずにこういう見方もあるんだ程度に読んでみてください。

①あらすじ

以下はwikipediaからの引用なので、あらすじを知っている方は読み飛ばしちゃってください!

10歳の少女・千尋(ちひろ)は、両親とともに引越し先のニュータウンへと向かう途中、森の中の奇妙なトンネルから通じる無人の街へ迷い込む。そこは、怪物のような姿の八百万の神々が住む世界で、人間が来てはならないところだった。千尋の両親は飲食店で神々に出す食べ物に勝手に手をつけたため、罰として豚にされてしまう。千尋も帰り道が海で塞がれ、悪夢が消える事を願って自分が消滅しそうになるが、この世界に住む少年ハクに助けられる。
ハクは、八百万の神々が客として集う「油屋」という名の湯屋で働いていた。油屋の主人は、相手の名を奪って支配する、恐ろしい魔女の湯婆婆(ゆばーば)である。仕事を持たない者は動物に変えられてしまうとハクは千尋に教える。千尋は、雇ってくれるよう湯婆婆に頼み込み、名を奪われて「千(せん)」と新たに名付けられ、油屋で働くことになる。ハクは、本当の名前を忘れると元の世界に戻れなくなると忠告する。ハクもまた名を奪われ、自分が何者であったのかを思い出せずにいた。しかし、彼はなぜか千尋を知っており、千尋のことを覚えているのだという。一方、千尋には、ハクの正体に心当たりがない。
豚にされた両親を助けるため、油屋で働き始めた千尋だったが、彼女は人間であるために油屋の者たちから疎まれ、強烈な異臭を放つ客の相手まで押しつけられる。しかし彼女の実直な働きにより、客から大量の砂金が店にもたらされると、千尋は皆から一目置かれる存在になる。千尋はその客から不思議な団子を受け取る。
翌日、ハクは湯婆婆の言いつけにより、彼女と対立している双子の姉の銭婆(ぜにーば)から、魔女の契約印を盗みだす。しかし、銭婆はハクを追ってきて魔法で重傷を負わせ、湯婆婆の息子である坊(ぼう)もネズミに変えてしまう。千尋はハクに不思議な団子を飲ませて助けるが、ハクは衰弱してしまう。千尋はハクを助けたい一心で、危険を顧みず銭婆のところへ謝りに行くことを決意する。
そのころ油屋では、カオナシという化け物が従業員を飲み込んで暴れていた。カオナシは千尋から親切にされたことがあり、金や食べ物で千尋の気を引こうとするが、彼女が興味を示さないため激怒する。千尋は不思議な団子をカオナシに飲ませて従業員を吐き出させ、感謝される。千尋は、カオナシとネズミになった坊を伴って銭婆の家を訪れる。銭婆は千尋を穏やかに受け入れ、千尋は銭婆に印鑑を返却し、銭婆は千尋に旅の仲間と協力して人力で編んだ紫の髪留めを贈る。
一方、意識を取り戻したハクは、坊が銭婆のところへ行ってしまうことを湯婆婆に伝える。ハクは、坊を連れ戻してくることを条件に、千尋と両親を解放するよう約束を迫り、帰る手段のなかった千尋を迎えにいく。ハクは銭婆から許され、千尋とともに油屋へ帰る。その途中で、千尋は自分が幼いころに落ちた「川」がハクの正体であることに気づく。幼いころハクの中で溺れそうになったとき、ハクは千尋を浅瀬に運び、助けてあげた。千尋がハクの名前に気づくと、ハクも自分の名前を取り戻す。
油屋に帰ったハクは、千尋と両親を解放するよう湯婆婆に要求する。従業員たちも、今度は千尋の味方である。湯婆婆は、油屋の前に集めた豚の中から両親を言い当てろと難題を課すが、千尋はこの中に両親はいないと正解を言い当てて自由となり、従業員たちに祝福されながら油屋を去る。
ハクが千尋を見送り、異世界と人間界の境界に辿り着くと、以前は海と化していた帰り道が大草原に戻っていた。ハクは千尋に、この先には行けないこと、この先の帰り道で振り返ってはいけないこと、自分も湯婆婆に暇を告げて元の世界に戻るつもりであると伝え、再会を期して別れる。帰り道で振り返ってはいけないというハクの言い付けを守り、以前は海と化していた大草原を歩き続けるが、トンネルが見える手前で思わず振り返りそうになる。人間に戻った両親は、最初のトンネルの前で、何事もなかったかのように待っていた。元の世界に戻った千尋が振り返ると、トンネルは来たときとは違う姿に変わり、千尋も異世界の記憶を失う。しかし、銭婆から貰った紫の髪留めはトンネルを抜けても千尋の髪に残っていた。その後、再び車に乗り、引越し先に向かう所で物語は幕を閉じる。

②油屋の正体

千尋が異世界のなかで働くことになったこの油屋という店は一体何なのか。今ではこのモデルとされている台湾の「九份」が観光名所とされていますね。

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私は行ったことないですけど、この周辺は結構汚いらしいです。笑

この油屋はただのスーパー銭湯ではないことはみなさんもわかると思います。ここには八百万の神々が訪れ、それを女性がもてなすお風呂屋さんです。こう改めて聞くとなにかを思い浮かべませんか?

そうです。風俗です。実際千尋は油屋を支配する湯婆婆に油屋で働くことを決意した際に千尋の尋の字を奪われ、「千」という新たな名前を与えられます。これが俗にいう「源氏名」というやつです。風俗店で働く女性が持つ店内だけで持つ名前のことですね。この源氏名については次回以降にしたいと思います。

②神=男

では、油屋が風俗店であると考えると油屋はどういった機能を持つでしょうか。客としてくるのは先ほども言った通り八百万の神々です。無宗教である人にとって神のイメージは定まりにくいですが、要するにこの世のすべてといったところでしょう。万物は神が作りしものであり、自然現象もなにもかも神が意図し、神に従って生きていけば幸せになれるといった中世的考えをお借りすることにします。

しかし、実際の世界で風俗に客としてくるのはなにか。「男性」です。ここがミソなんです。この作品では男性を神として描いているのではないでしょうか。

本作品が上映されたのは2001年のこと。男女共同参画社会基本法が1999年(平成11年)に施行された2年後のことです。「基本法」の制定によって、参画社会の実現という目標が社会的に明示され、そのための基本計画策定、実施体制など具体化がはかられました。これによって男女平等の考え方は社会的に共通課題としてとりあげられ、その推進への動きが広がり、男女共同参画時代として生きていくことを日本が決意するきっかけであった時代でした。私はこのことから、男性が優れており、女性は搾取されて仕方ないといった根拠なき時代を払拭するべく描かれた作品ではないかと思います。

しかも、油屋に来る神々はどいつもこいつも怪物のような姿をしています。疲れた体を癒しにくる男性を女性が奉仕する形で金銭関係の領域内での関係が生まれているのです。

③女性の力強さを描いている

しかし、これでは男が神で女は奉仕役といった古臭い考えの体現になってしまいます。そこで重要なのは千が腐れ神を薬草湯に入れるシーンです。悪臭を放つ腐れ神を千は必死になって湯に入れ、最後には腐れ神に刺さったトゲのようなものを抜くことにより、一気にゴミの塊が腐れ神の体内から流れ出てきます。

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これは日本社会の課題を象徴しているのではないでしょうか。神を男性に喩えているのなら、男性は自分では処理しきれない莫大な社会の問題を抱えています。しかし、それを抱えていることを知っていても自分ではどうしようもできない。そこで油屋にくることで癒してもらおうとした(この時点で男性は1人じゃなにもできないことを揶揄している?)。しかし、その願望のはるか上をいく結果となったのがこのシーンである。腐れ神は自分の外見的な汚れ(目に見える疲れ)を癒しにきたのに、千は汚れの根本を解決させてしまったのです。このシーンから見て取れることは、女性には社会の問題を解決する力があるし、男性は女性にもっと頼っていくべきであるということ。社会の問題を男性だけが抱えて偉そうにしていくのではなく、女性にもこの国の社会について考える権利と力がある、というメッセージが私には伝わってきました。

④まとめ

千と千尋の神隠しではこのように女性の強さや女性が持つ葛藤を様々な描写を用いて表しています。本記事を書いていると書き足らずにむしゃくしゃしてしまいました。それほどこの作品は複雑にであるが崇高に作られていて、いろいろと考えさせられるきっかけになるような作品です。

次回は千と千尋にみる「アイデンティティ」について語りたいと思います。

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